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記事 24件
  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.1.31

    2018-01-31 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★
    今週の1本「本へのとびら」アシナビコーナー「たかまつななの水曜政治塾」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日1月31日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:たかまつなな(お笑いジャーナリスト)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、宇野に聞いてみたいこと、お悩み相
  • 脚本家・井上敏樹エッセイ『男と×××』第35回「男と食 6」【毎月末配信】

    2018-01-31 07:00  
    550pt

    平成仮面ライダーシリーズなどでおなじみ、脚本家・井上敏樹先生のエッセイ『男と×××』。食通で知られる敏樹先生が今回選んだテーマは「河豚」。河豚の名店から意外な味わい方まで、あらゆる角度から語ります。
    男 と 食  6   井上敏樹
    前回、冬と言えばジビエである、と書いたが、もうひとつー冬と言えば河豚である。私に言わせれば河豚ほど日本的で不思議な食べ物はない。あれほどの猛毒を持ちながら、その身は格調高く玄妙だ。だが、河豚は松茸と並んで、その名前で食べられている食材でもある。多くの場合、河豚を食べた、松茸を食べた、と言う事実に満足するのである。私も若い頃、そうだった。味も分からないのに、ただ、河豚を食べて『おれも大人になったもんだわい』と悦に入っていたものだ。私が河豚に目覚めたのは、理由あって、一週間ぶっ続けに河豚を食ってからである。八日目に、私は禁断症状に襲われた。あ~、河豚が食いたい……あの味が恋しい……と、それはもう、喉を掻き毟るような渇望であった。皮肉な事に、河豚を食べるのをやめて初めてその味が分かったのだ。そのものの不在においてそのものの味が現れるというのが、いかにも河豚らしい。
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  • 猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第27回 「東京にボーダレスな世界をつくりたい!」

    2018-01-30 07:00  
    550pt

    チームラボ代表・猪子寿之さんの連載〈人類を前に進めたい〉。今回は、2018年夏から始まることが発表された、東京の常設展「teamLab Borderless」の構想について猪子さんが語りました。今回初めて「ボーダレス」という直接的な表現を使ったチームラボが、この展示にかけた思いとは? そして、二次元と三次元の境界を超える、新しい鑑賞体験とは?(構成:稲葉ほたて)
    「teamLab Borderless」開園!
    猪子 2018年の夏から、東京のお台場に巨大な常設展を創ることになったので、今日はその構想について話したいな。場の名前は「MORI Building DIGITAL ART  MUSEUM: teamLab Borderless」。作品群によって一つの世界を作ろうと思っている。
    ▲2018年初夏より始まる東京・お台場の常設展「teamLab Borderless」。
    ▲'Ultra-technologists' to open digital-only museum in Tokyo(CNN, 28th January 2018)
    宇野 2016年にブレグジットがあって、トランプの当選があって、世界は明らかにグローバル化と情報化のアレルギー反応の時代に突入して、これらの流れをせき止めるためもう一度「壁」を築く動きがあちらこちらで出てきている。そしてチームラボは2017年1月のロンドン展「teamLab: Transcending Boundaries」あたりからずっと、このアレルギー反応にさらに反発して「境界のない世界」を擁護する立場から作品を発表しているわけだけど、今回はついに展示会のタイトルまで「ボーダレス」になったわけだ。
    猪子 実はこれまで、「ボーダレス」という直接的に言葉は使ってこなかったんだけど……。
    宇野 いや、直球だけど、それくらいがちょうどいいよ。だっていま、境界のある世界と境界のない世界で対立が起きてることに気づいている日本人なんて、人口の5%よりも少ないんじゃないかと思うからね。「ボーダレス」という単語がなぜ選ばれたかを考えてもらうだけでも意味があるよ。それで、これはどんな展示になる予定なの?
    猪子 基本は2フロアあって、10,000㎡くらいの規模感だね。『インタラクティブ4Dビジョン』という作品と同じようにLEDを空間に埋め尽くした立体的なビジョン(以下、『4Dビジョン』)を使った巨大な新作とか、『秩序がなくともピースは成り立つ』というホログラム群の作品、そして2017年の北京の展示会で発表した『花の森、埋もれ失いそして生まれる』(以下、『花の森』)とかを展示できるといいなと思っているよ。
    今回は作品が動き出すんだ。作品は定位置に留まらず、自ら移動する。例えば、『追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして超越する空間』(以下、『カラス』)のシリーズとなるような作品を創るんだけど、その作品は『カラス』の空間から飛び出していくんだ。飛び出した『カラス』の作品は、たとえば、『秩序がなくともピースは成り立つ』のホログラムの空間に行ったら、ホログラムで表現された『カラス』の新しいシリーズが始まる。あるいは「チームラボジャングル」でやった『Light Vortex』という光の線による彫刻シリーズの作品があるんだけど、その中に入っていくと光の線で表現された『カラス』が始まる。『4Dビジョン』のLEDのドットのなかに、『カラス』が入れば、光のドットでカラスが表現され、空間を立体的に飛ぶ。『カラス』が『花の森』の中を飛べば、『花の森』は『カラス』の影響を受ける。
    そんなふうに、本当に作品の物理的な境界がないどころか、作品そのものが移動先の空間やメディアによって違う様相を見せる展示にしたいんだよ。
    宇野 ある作品が他の作品に刺入することで作品間の境界が喪失する、というのはロンドン展からはじまったコンセプトだけど、今回はその発展形でひとつの作品が移動するごとに形態を変えていく。しかし、それは当然の進化だね。というかそうじゃないと本当はいけない。境界がなくなって自由になっても、そのことで自分が変わらないと意味がないのと同じだね。
    猪子 これまでは、作品は、作家の思いが物質でできたモノに凝縮されていたわけだけど、デジタルアートは物質から分離され解放されたので、作家の思いは、モノではなく「ユーザーの体験そのもの」に直接凝縮させていくという考えで創っていくことができるのではないかと思っていて。そうなったときに、モノを博覧的に並べるのではない、もっと最適な空間や時間のあり方があると思うんだよね。たとえば人間は動くことがより自然であるから、人々の体験に直接凝縮させることが作品であるならば、作品自体も人々と同じように動いていてもいいと思うんだよ。あとは、人の時間は刻々と進んでいくのに、作品の時間は止まっていたり、映像だとカットが入ったりする。その時間が止まっていたり、映像でいうカットが時間の境界を生んでいると思っていて、その時間の境界もなくしていきたいんだよね。
    宇野 言い換えると、従来の美術館アートとは、空間のコントロールだったわけだよね。つまり、人間がある位置からモノを見るという物理的な体験を提供する場で、突き詰めると、作品に反射した光を目がどう受け取るのかということでしかない。それに対して、チームラボは時間のコントロールを加えようとしてる。
    そのときにポイントになってるのが、20世紀の映像文化、たとえば劇映画のように、作品の時間に人間を無理やり合わせてないことだと思う。チームラボの展示は、人間から能動的に没入しなくても、自由に動き回る僕らに対して作品側が食らいついてくるんだよね。これって、絵画がインタラクティブじゃないという問題に対する回答だと思う。ほら、猪子さんは『モナ・リザ』を引用した名言を残していたじゃない?
    猪子 「モナ・リザの前が混んでて嫌なのは、絵画がインタラクティブじゃないから」ね。
    参考:猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第4回 
    宇野 そう。これは他の鑑賞者の存在で作品が変化していけばむしろ『モナ・リザ』の前は適度に混んでいればいい、という発想だったと思うのだけど、それは言ってみれば人間と人間との関係に対するアートとテクノロジーの介入なわけだ。対して、これらの作品はひとりひとりの固有の時間にもっと直接的にアプローチしているよね。人間と時間との関係に介入している。北京で展示した『花の森』がまさにそうで、「これもう観たっけ?」と思いながらウロウロする、あのとき僕らは通常の空間感覚を喪失して、さらには時間の間隔も麻痺しているのだけど、この「迷い」こそが作品体験になってるよね。
    猪子 そうそう、作品と自分の肉体の時間が自然と同調して、その境界がなくなってほしい。ただ、自分の肉体の時間と境界を感じにくい時間軸の世界を作るわけだから、それってどこかで現実世界そのものになっていくんじゃないかな、とも思うんだけどね。
    時間感覚に介入する意味とは
    宇野 ここで猪子さんが時間に注目していることは、すごく重要だと思う。
    何年か前、猪子さんが「21世紀に物理的な境界があるなんてありえない」と言っていたときから、このプロジェクトは始まっていたんじゃないかと思う。というのも現代って、モノが切断面や分割点になりにくい時代だと思うわけ。たとえば、工業社会においては、車やウォークマンを持っているかどうかで、その人のライフスタイルや世界の見え方はだいぶ違っていたはずなんだよ。
    でも、いまはどちらかというと、「Googleをどう使うか」とかのソフトウェアの影響力の方が強くなってきている。そしてそれらがコントロールしているものは、究極的には人間の時間感覚だと思うんだよ。空いた時間をどう使うかとか、買い物に行く時間をAmazonで省略するとか。インターネットが出てきた瞬間に空間の重要性はぐっと下がったから。そんなふうに、いまはモノという空間的なものよりも、時間のほうが世界を分割していると思うわけ。
    たとえば、ドッグイヤーとかいうじゃない? 東京やロンドンのような都市部の情報産業に勤めている人間と、ラストベルトの自動車工の人では全然別の時間感覚を生きていると思うんだよ。だからこそ、時間感覚に介入しないと境界線はなくならない。これはかなり本質的な変化だと思う。
    猪子 なるほど。
    宇野 あと、もう一つ付け加えるとするならば、時間はコピー不可能なんだよね。『モナ・リザ』という作品を何回も観たい人はいると思うけど、極端なことを言うと、もし記憶が永遠に続くなら一回観れば十分なわけじゃない? でも、チームラボの今回の展示って、時間感覚によって作品が変化するから、一回一回の体験が固有なものになる。
    すでに理論上、我々は人間の網膜の認識よりも解像度の高い映像を作ることができる。それは複製技術ができた時点から始まっていたと思うんだけど、そうなったらますます美しい写真や映像のような、情報に還元できるものは希少価値を帯びなくなってくる。こんなことを言うと怒られるけど、僕らはもう『モナ・リザ』の現物とほとんど変わらないモノを、簡単に手に入れられるようになる。
    そうしたときに、モノの持つアウラみたいなものは、ほとんど意味がなくなるんだろうと思う。だから、チームラボが時間感覚に介入しようとしているのは、すごく重要なことだと思うよ。
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  • 【特別対談】落合陽一×田川欣哉 〈人間〉という殻を脱ぎ捨てるために 後編(PLANETSアーカイブス)

    2018-01-29 07:00  
    550pt


    今朝のPLANETSアーカイブスは、takram design engineeringの田川欣哉さんと『魔法の世紀』で知られるメディアアーティスト落合陽一さんの対談の後編です。デジタルネイチャーの到来によって、私たちの社会と価値観はどのように変容するのか。統治機構や経済の脱人間化から、情報技術の発達が生み出す新しい自然観・宗教観まで、来るべき世界のビジョンを徹底的に語り合います。
    (司会:宇野常寛、構成:神吉弘邦/この原稿は、2016 年4月1日に配信した記事の再配信です)
    ※この記事の前編はこちら。

    テクノフォビアと訣別せよ
    落合 この前、電車の中でぼおっと、交通事故について思考実験してたんです。自動運転のクルマ同士がぶつかるんですよ。そこへお巡りさんが「じゃ、ちょっと現場を物証しまーす」ってやって来る。「ログデータ見ないとわかんねーな」って、「ログを出してください」って言うんですよ、2台の自動車に(笑)。
    で、ログを出してもらうんだけど、それでも分からないから「説明してください」と。「5ミリ秒でここにぶつかりました」「で、こっちのオートシステムが作動しなくなったので当たっちゃいました」みたいなやりとりがあって。「ああそうですか!」ってその通りに調書作ってたら、警察機構の検証なんて存在しないのと一緒ですよね(笑)。
    田川・宇野 (笑)。
    落合 自動運転車同士の衝突を想定すると、警察機構が形骸化するんですよ。その辺りから、世間の人々はやっとひずみに気が付くんだと思う。「じゃあ、お巡りさんって一体何のためにいたんだろう?」って。
    田川 調停者(笑)。
    落合 そう、調停者だった。でも、お互いの言い分が食い違わない世界が存在していて、タイムスタンプが押されたデータを交換し合って、「センサーデータはそう反応していた」だけで問題が解決するようになったとき。
    その世界における巡査のおじさんの気分って、「自分って関数だな」って思う以外ないですよね。
    田川 結局これまでは、人間の振る舞いを機械側が捕捉しきれなかったんだと思うんだよね。例えば「入浴」にしたって、人間って変なこといろいろやるよね。コンピュータ側が人間の多様な振る舞いを捕捉しつくして、理解しにかかってるのが自動運転とかなんだよね。そこでは必ずインとアウトが対応してくる。
    落合 関数から出力されたものを関数に入力するループが形成されると新しい関数が生まれるに決まってる。
    田川 そう。関数の処理がステップで進んでいく過程を受け切る体勢が、機械側でセンシング的にもアクチュエータ的にも担保され始めると、人間の関数化って一気に進むと思うんだ。
    落合 それは超進みますよね。人間はもうデジタルネイチャー化,脱構築化するんだろうなと思うよ。でも、それって幸せなことですよね。「奴隷の世紀」ではなく「魔法の世紀」って名づけることが重要なのであって、ようは心の持ちようの問題なんですよ。本当に「魔法化」っていう言葉が嫌いな人たちがすごくいるんです。「魔法に覆われると人間は退化するんじゃないか」って。そりゃあ魔法使ってるだけの人たちは退化するに決まってんだろ!(笑)。でもそれでいいんじゃないかってことなのに。
    田川 そういう人を、英語で「テクノフォビア(テクノロジー恐怖症)」って呼ぶんだよ。講演会とかで話をしていると、よく「社会がそういう方向に進んでしまうことに不安はないのでしょうか?」とか言われるんだけど。
    そういうときにはちょっと意地悪に「じゃあ聞きますけど、あなた今、裸足で生活してますか?」と。「靴下と靴を履いている時点で人間機械系なんだけど、それに日々悩んでますか? 『祖先と比べると私の足裏はなんて退化してしまったのか』と日々嘆きながら暮らしていますか?」って言うとさ、反論できる人いないんだよね(笑)。
    宇野 それは反論できないですよね。
    田川 自動車が世の中に受け入れられていく過程で「馬なし馬車」と呼ばれたり、テレビが普及するときに家具調の箱の中に入れてみたり、これはテクノロジー恐怖症の典型的な現れですよね。
    僕の仕事でやっているのは、これから来るテクノロジーをどうやって社会に接続していくかで、そこにデザインの芽生えもあるはずです。
    人間中心主義のまやかし
    落合 2011年以降、デザインを巡る流れがガラッと変わったじゃない。ちょっと外れたアーティスティックなデザインで評価されていた時代が終わって、takramのようなデザインエンジニアリングに注目が集まるようになった。
    今は「デザイン」っていう呼称は本質的にはなくなっていて、ストラテジックなエンジニアリングが美学を持って現れたものを「デザイン」と呼んでいるだけなんだと思う。
    田川 『魔法の世紀』には結構デザインの話が書いてあるじゃない。デザインの歴史とか。
    落合 第二次世界大戦前後のデザインとか。
    田川 純粋に一読者としての興味なんだけどさ、落合くんの話を表層的に聞いていると「この人は人間に関心がなくて、機械にしか興味ないのかな」と思っちゃうよね。でも、デザインについて、あれだけ論じていることを考えると、そんな単純な話じゃない。落合くんの眼差しは、ピンポイントに一点に向かうというよりは、いろいろな分野を多方面的に見てると思うんだけど、本当のところどうなってるのかって気になるんだ。
    落合 コンピュータのことをやっていたら、生物がコンピュータにしか見えなくなってきて、それが面白いと思ってるんですよね。森羅万象わりと興味あるし、人間っていう非合理タンパク質機械には心惹かれます。
    田川 (爆笑)あぁ、わかったわかった。機械っていう動物園があったら、ヒト科ってのがあって、それはそれでなかなかいいものだ、みたいな話ね(笑)
    宇野 人間中心主義とはここ2、300年ぐらいの「流行」に過ぎない、みたいなね。
    落合 それまで自然と向き合ってきた人間たちって、そんなに人間中心主義ではなかったような気がするんですよね。
    田川 そう思うよ。人間中心主義なんて、完全に機械化の歴史と符号してるからね。「個人」って概念もそうだよね。民主主義の成立の過程で個人という感覚が芽生えたという歴史があるじゃない。
    宇野 工業化と市民社会の作った幻想が、カギかっこ付きの「人間」か……。
    落合 「人間」イコール映像、イメージの共有文化によって生み出され一人歩きした幻想ってことですよね。
    神が死に、今度は人間の番が来た
    宇野 恐らくリベラルアーツ的な訓練をしっかり受けた人であるほど、テクノフォビアの傾向が強いと思うんですね。それは間違いなく統治の問題が関わっている。
    人間機械系の発想でいくと、今の世の中で代表的なのが民主主義だけれど、それによる統治がうまくいかないのはほぼ明らかになってしまっている。文化的な装置で大衆の内面にアプローチして、熟議に耐えうる「市民」を養成するというビジョンが事実上破綻した今、さっきの自動運転の話のような機械人間系のアプローチの方が、統治の「効率」でいえば圧倒的にいい、という事実への評価ってまた変わってくると思うんですよね。賢い人ほど、薄々それがわかっているから怖いんだと思う。テクノフォビアって言い換えれば今までの自分をかたちづくってきた人間中心主義、民主主義、アート、「個」という幻想。この4点セットを根本から否定されてしまうことへのフォビア(恐れ)だと思うんですよ。
    田川 あらゆる思想や思考の土台が溶けちゃうような感じがするから、すごく不安にはなるだろうね。
    落合 たしかに。でも、歴史を知っていればそんなに怖くはないような気がするんです。だってコペルニクスが出てきて、キリスト教イデオロギーやばい! 俺たちどうやって思想と思考の土台を保っていこう?! ってなって、デカルトが登場して、ニュートンが登場して、みたいな話でしょう。
    田川 そうそう。そこまで引いてみるとね、そうやって人間って進化してきたはずなんだよね。
    宇野 逆にお二人に聞いてみたい。そのとき必要なのは、一度民主主義をちゃんと正面から否定した上で次を考えることなんじゃないかと思う。機械人間系の発想で考えると、全体の最適化はそれほど難しくない、だからいつヒトラーが大統領に選ばれるかわからない民主主義よりも、技術的な安全弁をあちこちにつけてマイルドな全体主義やっていく方がいいんじゃないか、って思想は良くも悪くも絶対に力を持ってくる。この問題に思想や文化の言葉の使い手はディストピアSF的な語り口でもいいから向き合うべきだと思う。「テクノロジーは時に人を不幸にする」なんて常識論をドヤ顔で言って満足していないで、自分たちの前提としている人間観のゆらぎ、社会観のゆらぎに向き合わないと誰からも相手にされなくなる。
    落合 うん、それはその通りだと思っていて。俺は最近トマス・モアにはまっているんですよ。トマス・モアはキリスト教が宗教改革に覆われていく時期の人で、彼の主著『ユートピア』はルターが95カ条の論題を出す直前に書かれた本です。ヨーロッパの歴史って、キリスト教が死んだことで人間中心主義になっていったんですよね。そのキリスト教が死にかけていたときの人たちは、なにを考えていたのだろうと。
    俺はデジタルネイチャー派として、今は「神」の次に「人間」が死にかけていると思ってる。そこでもう一度、過去に戻ろうとしているんだけど、それが宗教に行くのかネイチャーにいくのか、どっちなのかがまだ判別しきれていない。
    デジタルネイチャーまでいっちゃうなら、人間の自然観そのものが機械人間系に変わってしまうから、そうなったら俺たちは「機械様」とくっつくことなく離れることなく仲良くやっていけばいいし、むしろ変なルサンチマンは存在しない世界観になっていくと思うんですよ。
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  • 宮台真司×宇野常寛 〈母性〉と〈性愛〉のディゾナンス ──「母性のディストピア」の突破口を探して(後編)

    2018-01-26 07:00  
    550pt

    宇野常寛の著書『母性のディストピア』をテーマにした、社会学者の宮台真司さんと宇野常寛の対談です。後編では、9.11以降に社会学が陥った隘路や『ブレードランナー2049』について言及しながら、母性の圏域を突破する鍵となる概念〈キッチュ〉と〈フェティッシュ〉の可能性について語り合います。
    〈残酷さの回避〉か、あるいはニュータイプか
    ▲『母性のディストピア』
    宮台 ここで『母性のディストピア』の図式を改めて整理します。まず、宮崎駿、富野由悠季、押井守といった戦後日本のアニメ作家たちには、〈母性に庇護されたフェイク父性〉を演じるヘタレ男の男性性を更新するという、共通のテーマがありました。江藤淳や村上春樹も共有していた問題設定だけれど、彼らは皆それに失敗しました。
    他方、〈フェイク父性〉の拠り所である国家を無化するカルフォルニアン・イデオロギーが現れます。それは国境線を消し去り、国家に依らない新たな男性性を打ち立てるかに見えて、挫折しました。なぜならITが実現する「見たいものだけを見る」空間もまた〈フェイク父性〉を支える母性として機能し、〈フェイク父性〉がむしろ劣化したからです。
    最後に処方箋として「中間的なもの」が提出されます。僕はこのイメージが今一つ明確に掴めませんでしたが、ITテクノロジーによる「中間的なもの」の構築によって、市民でも大衆でもない、〈フェイク父性〉にも巻き込まれない存在を生み出し得るとされます。でも、この言葉をブレイクダウンしようとすると、よく分からなくなるのですね。
    現実を見ると、「中間的なもの」に当たるコミュニティは、シェアハウスや私塾からスワッピングサークルまで含め、既にそれなりのボリュームがあります。この本はマクロな社会的劣化を論じていますが、処方箋が中間集団への回帰であれば撤退戦になります。僕自身はマクロな処方箋はあり得ないと判断して、撤退戦にコミットしているのですが。
    宇野 撤退戦だと言われればそうかもしれません。もしかしたら世代的なものかもしれませんが、僕はそもそも中間集団が機能していた時代を知識でしか知らないので、多少なりとも再構成できるなら十二分に希望になり得る、と感じているというのが正直な感想です。
    たとえば僕がこの本で想定している中間的な集団を構成するのは、政治的には都市無党派といわれる層です。しかし、この層はこれまで中間層として機能してこなかった。なぜなら組織化が難しかったからです。その活用に初めて成功したのが、平成の改革勢力です。彼らはテレビポピュリズムを利用して風を吹かせることで都市無党派層を動員し、自民党や共産党の組織票に対抗した。とはいえ結局のところ、ポピュリズムは一過性のものなので、必然的に敗北していきました。しかし、やりようは他にもっとあったはずです。
    たとえば、インターネットがある程度普及した段階で、彼らはテレビポピュリズムを捨てるべきだった。本来、情報技術は柔軟な能動性にアプローチしていくためのもので、たとえば、能動的なメディアの「映画」と、受動的なメディアの「テレビ」がある。それに対してコンピュータはその〈中間〉にあって、常に切り替わっていく人間の能動性に柔軟に対応するメディアです。本来、情報技術は〈中間のもの〉を再構築する場だった。
    宮台さんの世田谷のワークショップや、江田憲司さんが神奈川の高級住宅街でやっていることが、まさにそれに当たるのかもしれませんが、都市部の無党派層を構成する新しいホワイトカラー、脱戦後的なライフスタイルを送る共働き世代、あるいはネット世代のクリエイティブクラスを、新しい中間的な集団として組織化すべきだったと思うわけです。
    この層はこれまでの世代とはライフスタイルが全く違います。家族構成も、住居への意識も、資産の運用方法も、接しているメディアも違う。そして、この層は世界的に増加している。なぜならそこには生活上の要求があるからです。
    米国の西海岸でUberを展開しているのはギーク出身のエスタブリッシュメントですが、サービスを利用しているのは基本的に移民貧困層で、言語にハンデのある彼らがてっとり早く稼ぐためのインフラとして利用されています。実は日本のタクシー市場もそれに近くて、首都圏では運転免許証以外に資格を持たない層が年収500万円に到達できる唯一の回路となっている。日本は規制の関係でUberの導入は難しいですが、ああいった形でブルーカラー層にリーチし、シェアリングエコノミーを用いて相互扶助のネットワークを拡大していく戦略はありえる。というかこうしたコミットを拡大していくしかないというのが僕の判断です。
    宮台 インターネットのアーキテクチャを用いて非集権的に信用を構築する仕組みは仮想通貨のブロックチェーンを含めて現実的です。中国ではQRコードを使った信用システムが底辺層から拡大しました。信用点数を下げないために悪いことをしないからです。ドゥルーズ的なアーキテクチャ型権力の制御で、市民社会のフィール・グッドな外形が保たれます。 といはえ、信用点数を貯めるためにおとなしく振る舞う底辺の人々が、友達を作れるのか、彼女を作れるのか、仲間を作れるのか、孤独でなくなるのか…というところまで考えると、残念ながら、その効用はベーシック・インカムが果たす機能と同程度の範囲──感情の劣化に関わる経済要因の制御──に留まります。その意味でもやはり撤退戦なのですよ。
    「感情の劣化に関わる経済要因の制御」と言いましたが、経済面で生活に関わる不安があると、人は感情の劣化を被りがちで、そうした状態で政治に参加すれば、経済面での不安定化を促進する政治的選択──戦争──が現実化し、悪循環が止まらなくなります。そうした「経済的劣化ゆえの政治的劣化を食い止める機能」が、そうしてアーキテクチャにはあります。
    宇野 もちろん、友達を作れるのか、彼女を作れるのか、仲間を作れるのか、孤独でなくなるのか、という次元のことをケアしようとするとベーシック・インカムとシェアリングエコノミーだけでは側面支援しかできない。仮にそれ以上の効果を求めるなら、宮台さんがおっしゃるとおり、これは最終的には文化的なアプローチでしか解決しないでしょう。それこそ撤退戦になってしまうでしょうが……。ただ、こうしたものの産む新しいコミュニティなしには、宮台さんのおっしゃる文化的な「撤退戦」も難しいというのが僕の考えです。その上で、その場にどう関わっていくのか、という問題にアプローチしていくしかないでしょうね。
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  • 鷹鳥屋明「中東で一番有名な日本人」第8回 中東湾岸恋愛事情

    2018-01-25 07:00  
    550pt

    鷹鳥屋明さんの連載『中東で一番有名な日本人』。中東の人たちはどうやって恋愛をして、結婚をするのか。アラブ流のナンパの方法から、結婚式の様子、離婚に至るまで、謎に包まれた中東の恋愛事情を鷹鳥屋さんが実例を挙げながら解説します!
    前回、中東で有名なボディビル選手権の話をした際に現地の男女間の性差について少しだけ言及しましたが、改革開放政策の進む中東で現地の人がどのような恋愛をしてどうやって結婚しているのか、という謎に包まれた部分についてぜひ知りたいという声がありましたので、この2ヶ月の間に7人のアラブ人から告白された私が知る限りのエピソードと近年の変化についてお話したいと思います。
    湾岸アラブの伝統的な結婚式、初顔合わせ
    元々湾岸アラブにおける歴史的な結婚は親同士が決める、部族同士で決めるものであり、江戸〜明治時代の日本を想像していただければ良いかと思います。基本的にお見合いがほとんどで、結婚式もしくはその後で行われる顔合わせの儀式をするまでは、男女はお互いの素顔を知りません。伝統的には御簾越しに男女が対面の椅子に座り、御簾をあげてお互い初めてそこで顔を合わせる、という儀式もあったようです。例えるならば結婚式のベールをあげるまでお互いの顔がわからない状況、という言い方が正しいでしょうか。ちなみに湾岸の結婚式では刀を持って曲に合わせて輪になって踊ってご飯を食べて(大皿を囲み、みんなでガツガツ食べます)、飲んで(コーヒーを)騒ぎます。もちろん新郎の祝う場は男子のみで女子禁制、新婦の祝う場は女子のみで男子禁制という空間になります。レパント地方(レバノン、シリア、パレスチナなど)と呼ばれる女性がある程度自由な場所ですと結婚式は男女合同で行います。
    ▲皆で踊って
    ▲歌って
    ▲結婚式の料理をガツガツ食べます
    筆者も結婚式に何度か呼ばれ参加して剣舞のやり方もマスターしてきました。ちなみに剣舞についてはサウジでは刀身を上に突き上げるモーションが多いのに対して、カタールでは刀を平にして上下に動かし、UAEのアル・アインでは刀を持たず皆で肩を組み足のステップを激しく踊る、など地域によって剣舞や踊りはバラバラなため、実際に参加してみて勉強して慣れていくしかありません。
    ▲結婚する友人とそのお父様
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  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.1.24

    2018-01-24 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「雪の思い出」
    今週の1本「DEVILMAN crybaby」アシナビコーナー「ハセリョーPicks」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日1月24日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:長谷川リョー(ライター・編集者)
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    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご
  • わたしが補欠選立候補を決意するまで|周庭

    2018-01-24 07:00  

    香港の社会運動家・周庭(アグネス・チョウ)さんの連載『御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記』。3月11日の補欠選挙への出馬を正式に表明した周庭さん。その決意をするまでには様々な葛藤がありました。(翻訳:伯川星矢)
    御宅女生的政治日常――香港で民主化運動をしている女子大生の日記第13回 わたしが補欠選立候補を決意するまで
    2018年になりました。まずは新年のご挨拶をさせていただきます。みなさん、あけましておめでとうございます。昨年の12月、わたしは今年の3月11日に行われる立法会選挙香港島区への出馬を「前向きに検討する」と発表しました。そのときから、わたしとわたしのチームは休む間もなく様々な準備活動や宣伝活動、公約の準備などを進めてきました。この原稿を書き始めた今日はすでに1月10日、あと3日で選挙出馬を発表し、正式に選挙戦へ突入することになります。
    今思い返して
  • 福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第六章 オタク・メディア・家族 1 大伴昌司のテクノロジー(2)【毎月配信】

    2018-01-23 07:00  
    550pt

    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。60年代末に大伴昌司が試みた、対象をヴィジュアル化・カタログ化する手法から、〈情報〉による世界把握の欲望の発生、そして後に全面化するオタク的想像力の萌芽について論じます。
    情報論的世界把握の原型
     このように、内田と大伴は「テレビの擬態」によって、六〇年代後半の『少年マガジン』を領域横断的な「総合雑誌」に変えた。後述するように、七〇年代以降の日本のヴィジュアル化した雑誌はファッション、音楽、アイドル、ポルノグラフィ等に機能分化していくが、『少年マガジン』はその分化の起こる一歩手前で、社会の「全体性」をカタログ化し、若い読者たちを教育しようとした。子供という宛先が強い文化的統合力を獲得したこと――、そこにこそ特撮も含めた戦後サブカルチャーの最大の特性があると言っても過言ではない。 ところで、大伴の強調した「情報」という概念は、世界把握の仕方そのものを変容させるものでもある。すなわち、情報論的な観点から言えば、世界はデータとして細かく分割できるし、また一度データ化してしまえば、そこに相互の関係性(メタデータ)を発見することもできる。有機的なまとまりを分解して断片(データ)の集積に変えた後、その断片どうしの関係から新たな意味を生じさせる――、情報社会ではこのような了解のステップが一般化するだろう(なおエドワード・スノーデンが告発したように、この了解の形式はそのまま大規模な「監視」の技術として展開されている)。 あらゆる対象を詳しくデータ化(解剖!)し、それらを大胆に統合する大伴の手法は、まさに情報論的世界把握の原型を示している。大伴が「オタク」の源流と言われる原因も、この情報の断片へのフェティシズムにある。なぜなら、後のオタクたちも作品の物語やメッセージ以上に、キャラクターの設定やデザインに強いこだわりがあったからだ。 例えば、東浩紀は一九六〇年前後生まれのオタク第一世代に見られる心理として、社会的には無意味なものにあえて耽溺するという「スノビズム」を挙げる一方、オタク系文化の主流が一九九五年頃を境にして、従来のスノビズムから、キャラクターの設定やデザインを集めた「データベース」の消費へと移行したと論じている。東の考えでは、九〇年代のアニメを代表する『エヴァンゲリオン』は「視聴者のだれもが勝手に感情移入し、それぞれ都合のよい物語を読み込むことのできる、物語なしの情報の集合体」として受容されていた[15]。 もっとも、このような現象は九〇年代に突然始まったわけではない。大伴の仕事はすでに六〇年代後半の時点で、スノビズムとデータベース消費の両方にまたがっていた。架空の怪獣の解剖図を真剣にでっちあげた大伴は、無意味なものに価値を与える「オタク的スノッブ」の典型だが、その「設定」へのフェティシズムにおいては、世界のデータベース的(情報論的)な把握を示す。現に、彼の『怪獣図鑑』はウルトラシリーズを「情報の集合体」に読み替えてしまった。現実も虚構も関係なく、あらゆる対象をひとしなみにヴィジュアルな情報として配列した『少年マガジン』の誌面もまた、情報データベースの原型だと言えるだろう。
    「記録の時代」の編集者
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  • 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第17回 セカイ系から日常系へ――〈涼宮ハルヒ〉とオタク的想像力の変質(PLANETSアーカイブス)

    2018-01-22 07:00  
    550pt


    今回のPLANETSアーカイブスは、本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』をお届けします。2000年代後半のアニメ市場で起きた「セカイ系から日常系へ」のシフトを、オタクたちのアニメを通じたコミュニケーションの変化を鍵に読み解きます。
    (この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです/2017 年3月3日に配信した記事の再配信です)

    涼宮ハルヒの本音
     2000年代初頭に最盛期となったセカイ系ブームは、やがて終わりを迎えていきます。ターニングポイントとなったのは、この作品です。
    (『涼宮ハルヒの憂鬱』映像上映開始)
     2006年に放映された京都アニメーション制作の『涼宮ハルヒの憂鬱』です。原作は谷川流のライトノベルで、シリーズの最初の一冊が発表されたのは2003年なので、まさにセカイ系ブーム真っ盛りの時期ですね。実際に、物語の骨子は平凡な男子高校生が、実はこの宇宙の「神」的な存在である(しかし本人はそのことに気づいていない)ヒロイン(涼宮ハルヒ)に愛される、というまさにセカイ系的な構造をもった作品です。

    ▲涼宮ハルヒの憂鬱 ブルーレイ コンプリート BOX  平野綾 (出演), 杉田智和 (出演)
     この作品を読み解く上で重要なのは「実のところ、ハルヒは一体何を求めているか」ということです。この作品に登場するヒロインのハルヒは、70年代や80年代にはクラス内に必ず2、3人いたUFOや超能力が大好きな、いわゆるオカルトファンです。物語の舞台が当時だったら、転生戦士に目覚めていたかもしれませんね(笑)。
     ハルヒは、当時のオカルトファンと同じようにこの消費社会の「終わりなき日常」のことを退屈だと思っています。この世界にはモノはあっても物語はない。なので、この変わらない世界の外側に連れて行ってくれるUFOや超能力を求める。でも実際はハルヒ本人が神様のような能力を持っていて無意識の欲望を叶えることができるので、本当に宇宙人や超能力者や未来人がやってきて(ハルヒはそうとは知らずに)高校生活の中で仲良くなっていきます。
     ところが、ハルヒはそんな宇宙人や超能力者や未来人たちと何をやるのかというと、「SOS団」という部活を作って主人公を巻き込み、学生映画を撮ったりみんなでキャンプしたり、放課後に買い食いしたりと普通の青春をしているだけです。要するにそれがハルヒの欲望なんですね。彼女はふだん「この世界は退屈」なので、「宇宙人や超能力者や未来人に出会いたい」と言っていますが、表面的にそう言っているだけで、本当はリア充な学園生活を送りたいだけなんです。その方便として、日常的なつながりの契機として非日常が必要とされている、ということですね。
     宮台真司さんが、80年代のアニメシーンを『宇宙戦艦ヤマト』的なものと『うる星やつら』的なものの対立で捉えた分析を紹介しましたが、ここでは要するに前者が後者に敗北しています。要するに『宇宙戦艦ヤマト』的な非日常への渇望と『うる星やつら』的な日常の祝福は、後者の欲望のほうがこの時代には強く、前者は後者のイイワケとしてしか作用しない、ということです。政治運動に夢中になってしまう人が、本当は単に寂しかっただけ、というケースは、たとえば60年代の学生運動が盛んだった頃からよく指摘されていた問題ですけれど、こうした消費社会への適応としてのコミュニケーションの自己目的化の問題が大衆化した結果だと言えると思います。
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