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【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(前編)
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【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(前編)

2018-05-10 07:00
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     写真提供:映画『リビング ザ ゲーム
     シアター・イメージフォーラム(5/11まで)、横浜シネマリン(5/12〜25)ほか全国にて公開中
     ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio

    今回から、『ゲームセンター文化論』の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史』の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載が始まります。全3回のうち前編ではゲームとスポーツの文化的本質に立ち返りながら、〈eスポーツ〉発展の可能性について検討します。(構成:藪和馬+PLANETS編集部)

    ゲームとスポーツはどう同じで、どう違うのか

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    中川 今回、加藤さんとお話ししたいと思ったのは、現在ゲーム業界のホットトピックになっているeスポーツを、ゲーセン文化の文脈で捉えていらっしゃる視点に共感したからです。今年2月に開催された「闘会議2018」は、もともと「ニコニコ超会議」のゲーム版のスピンアウトで、ゲーセン文化とも相通ずる、ボトムアップなゲーム実況カルチャーの集積体に近いイベントでした。しかし、おそらくニコニコカルチャーの凋落なんかも背景に、今年はそれがカドカワ傘下のGzブレインの主導で大きく様変わりしました。具体的には、発足したての日本eスポーツ連合(JeSU)が認定するプロライセンス制度による初の賞金制ゲーム大会を前面に打ち出した、eスポーツ振興のデモンストレーションの場になったわけですね。

     これを機に、様々な団体がeスポーツ事業への参入を表明し、一般メディアでの報道も増えて社会的な関心が高まっていますが、そこでの議論は、海外並みにプロゲーマーが稼いでスター化するショービジネスを築きたいという業界的な期待か、あるいは「ゲームがスポーツになるなどとんでもない」という一般世間の無理解かの、両極端な方向に向かいがちです。

     ただ、これまで実際に国内のゲームコミュニティで実際にデジタルゲーム競技のシーンに接してきた人々からは、そのどちらの態度にも違和感の声が寄せられることが多い。両者の溝を埋めて、日本のゲーム文化の脈絡に即したeスポーツのシーンを地に足ついたかたちで築いていくには、もうすこしゲームとスポーツの文化的本質に立ち返りながら、展望していく必要があると思うんですよ。そこでまずは、一般の人々が直感的に感じるだろうゲームとスポーツの相同と相違から、改めて掘り下げてみたいのですが。

    加藤 一般の人にとって、ゲームはそのまま「遊び」として理解されています。対してスポーツは、遊びとは違うものだと思われています。春夏の甲子園などを見てもわかるように、高校球児は努力して技術を磨き、スポーツマンシップに則って競技をする。私たち視聴者は、その努力がわかるからこそ、高校球児の汗と涙に感動するのだと思います。スポーツにおける努力が自己成長にもつながっていくわけですから、教育的効果も見込むことができます。それに対してビデオゲーム(以下、ゲームと略記)は、単なる遊びであるばかりでなく、社会的害悪をもたらすもの、つまり教育から遠く離れたものと考えられてきました。

     しかし、スポーツの語源が気晴らしや遊びを意味する「デポルターレ(deportare)」であることを考えてみても、スポーツと遊びは密接に結びついています。ヨハン・ホイジンガ(高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』中公文庫)やロジェ・カイヨワ(多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社学術文庫)は、競技スポーツや登山などのスポーツを遊びと捉えました。

     では、ゲームとスポーツの一般認識の違いは、どこから生まれたのか。それは教育化と制度化と、それらを勧めるためのイデオロギーの浸透によって生じました。たとえば、柔術や剣術など「術」であったものが精神修養に役立つ「道」に作り変えられ、警察や学校などに取り入れられていく中で、柔道や剣道といった近代スポーツへと変貌していきます。その最大の立役者は、講道館の創設者で大日本体育協会の設立者である嘉納治五郎ですが、彼は柔道をオリンピックの種目にまで押し上げていきます。その流れは、まさに今のゲームシーンの流れと、まったく同じ流れであることを昨年7月に行なった中央大学でのシンポジウム(拙著「ゲームがスポーツになるとき── eスポーツにおける情報と身体」『社会学・社会情報学』28号に講演内容を収録)で指摘しました。このシンポジウムには、プロゲーマーの百地祐輔(ももち)さんと百地裕子(チョコブランカ)さん、ライターの金子紀幸(ハメコ。)さんも登壇して有意義な議論をしています。

    中川 そうですね。カイヨワは遊びをアゴン(競争)とアレア(運)、インリンクス(眩暈)、ミミクリ(模擬)という四つの枠組みによる分類していますが、 原初の遊びは四つの枠組みが渾然一体になっていました。

     でも、遊びが社会によって制度化されていくと、勝敗を分けるタイプの遊びであるアゴンとアレアの結びつきが〈競技(ルドゥス)〉としての様相を強めていき、古代オリンピックのような形で発展していきます。それは現実と切り離された遊びの一領域としてのスポーツのみならず、現実自体を制度化するモーメントにつながっています。つまり遊びから競技を作っていく流れの中に、すでに人間が法律や社会制度といった抽象的なルールを作っていくための原理原則があった。勝ち負けをはっきりさせる文明が発展することで、イリンクスとミミクリが呪術のようなかたちで結びつく〈遊戯(パイディア)〉優勢のゆるい原始的な社会よりも、高度に制度化された近代という文明が起きていったというのが、僕流に解釈したカイヨワの文明観です。

     ただ、コンピューターの登場で、現実の在り方をより高精度に模倣(ミミクリ)しつつ、インタラクティブな身体的快楽(イリンクス)が生成できる情報環境が生まれたことで、この文明史的な流れが逆転します。古典的なアナログゲームやスポーツは、人間の処理能力の限界に沿って現実を単純化・抽象化し、人間が決めたルールの取り決めを、人間自身が手動で遂行することによって成立していました。しかし、コンピューターは数学の力で自然法則に近いものを自動再現したり、多彩な感性情報をデジタル処理したりできるので、近代が切り捨てていったインリンクスとミミクリの結びつきを新たなかたちで復権できるようになった。例えば、コンピューターゲームでは現実とは半歩ずれた仮想世界を疑似体験したり、何かの物語に見立てたロールプレイングを行ったりすることが可能です。

     この力によって、近代スポーツが〈競技〉を成立させるために現実の複雑性を縮減・抽象化する方向で進化してきたとは逆に、デジタルゲームは〈遊戯〉としての様々な具象的な見立てを取り戻していく方向の進化を遂げていきました。それによって、競技に純化されない余計な要素がたくさん入る営みとして、コンピューターゲームがあるからこそ、アスリートとは呼ばれえない人たちも巻き込んで、この数十年間のデジタルゲーム文化が育まれていった流れがある。そういう描像が、拙著『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』の歴史解釈の基本的な軸になっています。

     そのように、いったん複合的な遊びが復権した状況の中で、再び〈遊戯〉を切り捨て〈競技〉としての制度化や純粋化を目指そうという方向が強くなってきていることは、文明史的には近代的な原理の揺り戻しという側面があるのかなという見方を、今のeスポーツシーンに対して僕はしています。


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