今朝のメルマガは、土屋恵一郎氏、門脇耕三氏と宇野常寛の対談の後編です。インターネットとマーケットによって変貌しつつある「知」を、大学はいかに取り込むべきか。新たな公共圏として都市に開かれた空間、アジールとしての大学のあり方を考えます。
※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
※前編はこちら
2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
自分で自分を見る視線
門脇 誰しもが漂流していくようなイメージになったとしても、ただ流されていればいいというわけではないはずです。われわれはどのように知的な漂流をすればいいのでしょうか。
宇野 これは僕の一方的な大学に対する思いですが、大学には正しく漂流ができる場であってほしいと思っています。
たとえば、「“人文知”対“工学知”」という話題が人の口にのぼることもあります。まず現代は工学的な知が台頭してきている時代だという認識がある。要は、コンピュータの性能の向上によって、いろいろなことができるようになり、世界中の情報産業が次々と新しいサービスを発表してきています。それによって、人間はいままで体験しなかったさまざまなことを体験できるようになっていて、彼らはその膨大なデータをもっている。
しかし、彼らはそれをマーケットに最適化するだけなんです。彼らは確かに新しい人間性を結果的に発見し、切り開いているのかもしれませんが、それが人類にとってどういう意味をもつのか、人間という存在にとってどういう意味をもつのかについて考察することは基本的にありません。マーケットに最適化するだけです。それに対して、かつての人文知を中心とした大学アカデミズムや出版ジャーナリズムは軽蔑の態度を表明するだけで、何らアプローチしてこなかった。ろくに知りもしないで、情報技術と資本主義は人間を幸せにしない、的な「物語」を語るだけで済ませてきた。そういう不毛な二項対立があったわけです。逆に、工学知の人々の側では、あいつらは何をいまだに古き良きカビの生えた教養を守っているんだと考えているでしょう。そんなふうにお互いに軽蔑しあっている状況が、いまあるのだと思います。
しかし、大学は、本来そういうものが越境する場であるはずです。いまのある種の情報工学知の時代に、大学はそこに対して背を向けるのではなく、工学優位の時代であるからこそ批判的向学心の場であるべきでしょう。工学主導の人類のイノベーションを基本的には肯定的に受け入れつつ、それを批判的に検証することが新しい場の構築につながっていくのだと思います。
土屋 企業が最近、大学スポーツのなかに情報機器を導入したらどうですか、と提案してくることがあります。たとえば、ドローンを飛ばしてラグビーの試合全体を情報化して、フォーメーションを分析してはどうかといったことですね。それは面白いなと私は思っています。体育会にも提案して、スポーツを情報化していくことはできるでしょう。
ただ、あえて歴史を振り返ってみると、実はそのようなことは昔から言われているのではないかとも思うのです。
たとえば、4~5年前にMITのメディアラボに行った時のことです。そこには日本人の研究者がいて、ドローン技術を説明する際に、世阿弥の「離見の見」という言葉が出てきました。おそらく彼は、私が能の専門家であるということは知らずに、「自分は知っているぞ」と思って言ったのでしょうね(笑)。しかしいずれにせよ、日本人が考えた「離見の見」という概念がアメリカで言及されたことには大きな意味があると思います。
「離見の見」とは、能の演者が自分の身体を離れて、観客の視点から自身の姿を見ることを言うのですが、それが意味するのは、自分を省みる時に、外側の目から見ることの大切さです。舞台で舞う時に、自分が舞うという意識だけでなく、自分が回されている、あるいは違う力によって抑えられて自分が回っているという意識が大事なのです。世阿弥はこれを常に説いていました。
ドローンを飛ばしてラグビーの試合を上から見て分析するということと「離見の見」とがどう違うのかと言うと、私はそれほど違わないと思うのです。そこにはやはり自分の身体を離れたところから見るという視点があり、このような視点は「自分がよそからの力に動かされている」という見方を生むはずです。
現在の学問は専門化が進み、その分野に精通した人間にしかわからないようなものになっている。つまりブラックボックス化しているわけですが、それを過去の知識に照らしあわせて捉え直していくと、もう少し話の広がりが出てくると思うのです。
宇野 昔、吉本隆明が『ハイ・イメージ論』を80年代の終わりに出しましたね。あれはふつうに考えたら思いつきのエッセイで、ほぼ中身のないものと思われているようですが、いま読み返すと面白いんです。
あそこで吉本は「普遍視線」と「世界視線」と言っています。「普遍視線」というのは、われわれが水平のアイボールで見ている現実世界で、「世界視線」というのは、衛星写真のようなものであると。吉本は、これから情報技術が発展していくと、われわれはこの普遍視線と世界視線の両方をもつようになっていくだろうと80年代のうちに書いています。これ、完全にいまのGPSやライフログの話ですよね。
人間は、自分の身体を見ることが基本的にはできない生き物でした。コンピュータの発展によって何がいちばん変わったかというと、自分の身体を常に見ながら行動できるという点です。SNSだって、そうかもしれない。SNSはヴァーチャルな世界での一つの身体ですが、自分が常に見ているわけですね。つまり、いちばん変わったのは身体観のはずなんです。
いま世阿弥の話が出たように、どちらかというと、これは東洋的・日本的な世界観で、実際に吉本隆明がそこで引用しているのも、臨死体験の話です。臨死を体験する時、なぜかみな同じようなことを言う。死にそうになっている自分の身体を自分が外側から客観視しているという夢を見るんです。この自分が自分の身体を見るという経験は、宗教的な想像力や、われわれの死生観のようなものとも結びついています。
しかし、この状況はいまや日常化しています。それまでは宗教的な訓練を積んだ者だけが行けた高みが、カジュアルにGPSを実装している現代では、われわれの日常になっているわけです。そんな時代にわれわれの世界認識はどう変わっていくのか。この枠組みが、情報技術時代の身体の核にあると思います。