あらゆる知識がネット上にアップされ、AIが急速に発展しつつある現在、私たちは何を、どのように学ぶのか──。明治大学長の土屋恵一郎氏、明治大学理工学部建築学科准教授の門脇耕三氏と宇野常寛が、現代における「知」のあり方について激論を交わします。
※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
イントロダクション
門脇 理工学部の建築学科で教えております門脇です。今日はどうぞ宜しくお願いいたします。
今日は二人の方をお招きしております。一人は学長の土屋恵一郎先生です。土屋先生は法学部の教授を務められておりましたが、法学者であるとともに、能の評論を中心とした演劇評論家でもあります。もうお一方は宇野常寛さんで、批評家であり、批評誌『PLANETS』を主宰されています。現代社会に対してさまざまな観点から鋭い批評をされていますが、広範な分野の知の動向にも通じていらっしゃいます。
今日は「『知』のリブランディング」という、昨年からの継続しているイベントですが、副題を「人工知能時代の『人知』と『身体』、そして大学の意味を考える」としました。「人知」「身体」「大学」という三つのキーワードを用意したわけですが、まずはこの背景についてご説明します。
現代に生きるわれわれは、日頃から情報技術が飛躍的に進化していることを実感しています。Windows95が出たのが1995年ですが、そこからすでに20年以上が経って、コンピュータや情報技術はわれわれの生活に自然に溶け込んでいます。さらに最近顕著に感じるのは、情報の世界が実世界に干渉し始めているということです。象徴的なのが『ポケモンGO[註1]』のブームだと思いますが、情報空間での出来事が、われわれの行動にじかに影響するようになってきました。それが新しい状況と言えそうです。
そういったなかで、現代人はますます「動物化」が進んでいる、と言われています。要するに、さまざまな情報に反射神経的に反応する人間が増えている。これは世界的な現象でもありそうです。一方で、昨今は「第三次人工知能ブーム」とも言われ、機械の知が人間の知を超える「シンギュラリティ」と呼ばれる事態を迎える日も近いと囁かれています。
こうした状況に現在のわれわれは置かれているわけですが、ここであらためて、人間がもっている「知」の意味を考えようというのが、このシンポジウムの第一のテーマです。
この人間の「知」は、物理的には脳をその源泉としているわけですが、脳はそれ単体で機能する計算機ではなく、身体と接続されて初めて機能することが特徴です。すなわち、身体は行為するデバイスであって、それが環境と何らかのインタラクションを起こすことによって、脳に情報が伝わり、そこで初めて「考える」という働きが起こる。そのように考えると、人工的な計算機と人間の知能とが圧倒的に違うところは、やはりこの身体を備えているということに尽きるのでしょう。人間は、身体を備えた知的なユニットである。このような人間をどのように再評価できるか、議論していきたいと思っています。
今日の進め方ですが、僕のほうでいくつかトピックを用意してきましたので、宇野さんと土屋先生のお考えを伺いながら、議論を深めていければと思います。
まず伺いたいのは、情報機器・情報技術の発展をお二人がどのように捉えているのか、ということです。これは現在進行形の現象ではありますが、そこにどのような批判的な視座を与えることができるのか、お二人のお考えを伺いたいと思います。
第二に、情報技術の発展は単なる技術的進歩にとどまらず、社会の基盤を揺さぶり、パラダイム変化さえ起こしつつあることをわれわれは感じているわけですが、この来たるべきパラダイムはどのように総括できるのか、議論をしてみたいと思っています。
第三に、現在では知的な機器が環境のなかに自然に溶け込んでいる状況になっているわけですが、そうした環境下における「人間」の意味について、再考してみたいと思っています。知的な機器とは、たとえばスマートフォンもその一つでしょうし、あるいは、最新の自動車や家電のようなコンピュータに接続されたプロダクトもそうでしょう。そして、それらはインターネットを介して相互に接続され、環境そのものになっています。つまり現在のわれわれが生きている環境には、人間以外の知的な存在がそこかしこに潜んでいるわけですが、そうした状況下で人間はどのような意味をもちうるのか、考えてみたいと思っています。
最後のトピックは、これからの「学び」についてです。いままで「学び」と言うと、情報を取得する知識習得型の学習が真っ先にイメージされることが多かったわけですが、いまはその「学び」のあり方が変容しつつある。では、われわれはどのように学んでいけばいいのか。また、学びが変容する時代に、大学にはどのような役割が求められるのか、話し合っていきたいと思っています。それでは、よろしくお願いいたします。
人知・身体・大学
土屋 実は私は、学長になる前から電子書籍をどう大学のなかに取り入れるのかを考えていました。いまから5年前に明治大学に総合数理学部ができた時には、大学のテキストを全部電子書籍にできないかと提案したことがあります。実際には、それはなかなか難しく、いまだにそうなってはいませんが。
私がテキストを電子書籍にしたかったのはなぜかと言うと、現在の大学の教科書がもつ完結したスタイルを、情報技術や電子書籍を通して、変化するテキストとしてつくり直してほしかったからです。
いまは、教科書を学生に渡して、教員が授業のなかで解説をしながら伝えていき、時には議論をし、最終的にテストでどう理解したかを見るというスタイルになっています。それを私は、電子書籍が常に書き換えられていくというスタイルにできないかと提案したわけです。電子書籍として渡したものが、授業のプロセスのなかで書き換えられていく。教員も書き換えていくし、同時に学生自身もそのテキストに介入して書き換えていく。それが層として残っていって、最終的には、最初に与えられたテキストがまったく違ったテキストに変容していく、同時にそのプロセスは残っていくというような、いわば多層のテキストがつくれないだろうかと考えたわけです。
これはふつうの印刷媒体では不可能なんですね。ふつうの印刷媒体とは、つまり紙ですから、そうした書き換えのプロセスはなかなか実現できません。しかし、いまの電子書籍ならばできるのではないか、あるいは電子書籍を通じて教員と学生のネットワークがつくられていけば、これがテキストのかたちで反映されていくことが可能なのではないか、と提案してみたのです。いままでのカノン化されたテキストではなく、ネットワークのなかで拡散し、同時に変容していくテキストができあがっていくと、大学教育のなかでの学生と教員の関わり方、あるいは学生どうしの関わり方が変わっていくのではないかと思ったわけです。
さらにその電子書籍が完全にオープンにされていれば、もともとの制作時に参加していない人や、海外の研究者なども参加していって、教室の中のテキストから最終的には世界という教室の中のテキストにまで変容していくかもしれません。それをまずは教員と学生のあいだで、権威的ではないフラットな関係のなかでやっていけたら非常に面白いものになるのではないかと思ったのです。
教科書がオープンテキストとしてできあがり、教室もそれに近いかたちになっていくのが、おそらくこれからのインターネットの社会のあり方でしょうし、電子媒体を通して協力がなされていくことが、非常に面白い展開を生み出していくことになるはずです。
そのなかで、「教える-教えられる」という関係も当然変わっていきますから、そこでは過去の権威的関係は消えているし、また消えていくことでしょう。その象徴として、電子書籍におけるオープンテキストという発想がこれから定着していくといいのではないかと思っています。