分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第4回。19世紀末からの科学と哲学を大きく変えつつあったオーストリア的な知の新展開として、「ウィーン学団」を打ち立てた3人の科学者にスポットを当てます。科学哲学という分野の勃興に結実し、20世紀科学革命とも共振する彼らの交歓。しかしその夢と友情は、2度の世界大戦の荒波に翻弄されていくことに──。
1920年代のウィーン〜アイコンと科学哲学のルーツ
アイコンの元祖とも言われる「アイソタイプ」(引用)
現代のI T機器に欠かせないもののひとつに、アイコンがある。デフォルメされた画像によって特定の内容を明確かつわかりやく伝達できるアイコンなしには、これほどまでにI T機器が広まることはなかったことは間違いない。とはいえ、コンピューターが生まれる前から、アイコンと同様のデフォルメされた画像によって内容をわかりやすく伝えようという試みは存在した。わかりやすい例では、教科書の図説がそうだ。おそらく人類は、その歴史の黎明期からデフォルメされた画像を使ってコミュニケーションを図ってきたのだろう。だが、アイコンのように、内容伝達の効率化を目的として、特定のパターンに従ってデフォルメされた画像のみを用いるという試みは、そこまで古いものではない。ある説によれば、そうした試みは1920年代に遡るとされる。そしてその場所は、オーストリア帝国の首都ウィーンである。
1926年のウィーンで、オットー・ノイラートとマリー・ライデマイスター(晩年にオットーと結婚してマリー・ノイラートとなる)という男女2人が指揮するデザインチームが「アイソタイプ(isotype)」というある種の絵文字を開発する。ノイラートが設立したウィーン社会経済博物館では、一般市民向けに社会学的、経済学的知識を得られる機会が設けられていたのだが、まだ教育が行き届いていたなかった当時の市民でも容易に理解できる方法が必要だった。そのためにアイソタイプが開発されたのだ。
ところで、オットー・ノイラートの名前は、アイソタイプの開発という一点でのみ歴史に残っているのではない。むしろ彼は、ひと昔前に分析哲学を学んだ人の中では知らない人がいないと言ってよいほど広く知られている。ノイラートは、彼に由来する「ノイラートの舟」という比喩によって知られる科学哲学者であり、そもそも科学哲学という分野の確立に大きく貢献した「ウィーン学団」の設立者の一人なのである。
ウィーン大学で世界初の科学哲学の教授となったマッハ
今回はウィーン学団に焦点を当てるが、まずその前に、ウィーン学団誕生に背景にある、オーストリアの科学と哲学の状況について話をしなければならない。
じつは19世紀の著名な科学者にはオーストリア人が少なくない。例えば、ドップラー効果で知られるクリスチャン・ドップラー(1803-1853)。その教え子のメンデルの法則で知られる遺伝学者のグレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)。さらには、速度の単位マッハに名前を残すエルンスト・マッハ(1838-1916)、そしてエントロピー増大則の証明で知られ、統計力学の創設者の一人であるルードヴィヒ・ボルツマン(1844-1906)。彼らはみな、オーストリアに生まれ、オーストリアの大学で活躍し、オーストリアで没した、生粋のオーストリア人である。彼らの他にも当時のオーストリアには著名な科学者が少なくなかったのだが、その理由は一説には、多民族国家であるオーストリア帝国には母語が異なる民族が多数暮らしていたがために、母語が異なっていても差が生まれにくい数学や科学が広まっていったとも言われている。