ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第15回「『文化系/体育会系』『オタク/ヤンキー』という区分はなぜ生まれるのか――“日本型教養主義”のウィーク・ポイント」をお届けします。
今回は19世紀末の日本の文化状況と野球受容の進展を論じるにあたり、「文化」と深く結びつく「教養」の在り方について分析します。近代日本の教養主義が「没落」したのはなぜか。現代に至るまでの「教養」という言葉の使われ方とその反省点を振り返り、当時の文化状況をまなざす視座を共有します。
中野慧 文化系のための野球入門
第15回 「文化系/体育会系」「オタク/ヤンキー」という区分はなぜ生まれるのか── “日本型教養主義”のウィーク・ポイント
文化をめぐる「教養主義」という問題系
本連載は「文化系のための野球入門」というタイトルであるが、「文化」という言葉は「教養」という言葉とも深く結びついている。そこで今回はまず、この「教養」という言葉について考えてみたい。
「教養」の意味を『新明解国語辞典』で引いてみると、「文化に関する広い知識を身につけることによって養われる心のゆたかさ、たしなみ」とある。そして近代日本における「教養」の観念を強く規定してきたのが「教養主義」という思想である。
現代のインターネット上でも「オタク教養主義」というものの存在が時折指摘される。そもそもの教養主義という思想の意味内容をよりわかりやすくするためにも、まずはオタク教養主義について見ていきたい。オタク教養主義とは、たとえば以下のような思考・行動様式のことである。
もしアニメオタクを名乗りたいのであれば、最近のものばかりではなく初代『機動戦士ガンダム』、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、『機動警察パトレイバー2 the Movie』などは当然観ていなければならない。少年漫画を語りたいのであれば『進撃の巨人』『呪術廻戦』のような最近の作品だけでなく『ドラゴンボール』や『北斗の拳』は当然読んでいなければいけない……。
こういった、「◯◯を語るなら、当然××は履修していなければならない」という発想は、今でも私たちの心の奥に、なぜか深く埋め込まれているのではないだろうか。
教育社会学者の竹内洋によれば、そもそも教養主義とは「歴史・哲学・文学などの人文系の読書を中心[1]」とし、それを通じてゆたかな人間性を涵養しなければならない/涵養できるはずだ、という思考・行動様式であった。
教養主義は前回紹介した旧制高校の学校空間で明治時代後期に育まれ、大正期に旧制高校・帝国大学の学生たちの間で広がった。旧制高校生・帝大生たちは夏休みになると大学図書館や書店で読むべき本を入手して読書計画を立て、故郷や避暑地(高原や海岸)で読書に励む。しかし、遊んでしまったりボーッとしてしまったりして、夏休みの終わり頃になると、当初の計画の3分の1も進んでいないことに愕然とする……というのが毎年のパターンだったようである[2]。今でも大学生の一部に、このような夏休みを過ごしている者もいるだろう。
なお竹内によれば、「教養主義者である」ということと「教養がある」ということは必ずしもイコールではないらしい。
岩波文庫を何冊読んだとかのようなひけらかす教養であったり、教養がないことに劣等感を感じたりする教養をめぐる態度も教養主義である。だから、教養主義者が教養があるとは必ずしもいえないし、教養ある人が教養主義者でない場合もある。教養主義は多分に脅迫的な「所有する教養」つまり教養への強要主義ではあった。教養主義者は文化を味わうよりも所有したい気味の人のきらいがあった[3]。
教養主義は、明治後期に旧制高等学校で育まれ、大正期にはエリート学生たちの間での文化として確立し、いわゆる「大正教養主義」となった。教養主義の「ゆたかな人間性の涵養」という考え方は、戦後に制定された教育基本法にも「人格の完成」という言葉で教育制度のなかにも取り込まれた[4]。戦争の時代に前後して学生たちのあいだではマルクス主義への傾倒が起こり「左傾学生」として問題視されたが、やがてそれは戦後になると学生運動の理論的バックグラウンドとなった。しかし1970年代以降に学生運動が下火となり、1980年代のバブル景気、大学進学率の上昇による大学の大衆化の完成=いわゆる「大学レジャーランド化」によって、教養主義は衰退していった、とされている。
旧制第一高等学校で寄宿舎制度が成立し教養主義の基盤が作られたのが1890年で、高度成長の終わりがおおむね1970年代であるから、教養主義は実に80年にもわたって若者文化を規定し続けたことになる。
だが、ここで疑問が生まれてくる。「教養がある」ということの一義的な意味は「ゆたかな人間性を身に着けている」ということだったはずである。ところが旧制高校に端を発する教養主義は、なぜか〈人文系〉の〈読書〉でなければ「ゆたかな人間性の涵養」ができないかのような雰囲気をまとっている。そして現代のオタク教養主義に至っては、もはや「ゆたかな人間性の涵養」など目指しておらず、趣味仲間とのコミュニケーションツールとしての機能がメインになっている。逆に「趣味」に背を向け仕事に邁進する若手ビジネスマンのあいだでは「成功」を直線的に目指すNewsPicksのビジネスノウハウ本の読書がポピュラーな文化となっているが、そこでもやはり「ゆたかな人間性の涵養」という思想を見て取ることは難しい。以上が、かなり大雑把な“日本型教養主義”の展開である。
「文化系/体育会系」「オタク/ヤンキー」の対立図式
次にもうひとつ別の角度から、本連載のタイトル「文化系のための野球入門」にこだわってみたい。そもそも〈文化系〉〈体育会系〉の二項対立図式は、誰の、どのような意図から生まれてきたものなのだろうか。またそれと近いかたちで語られる〈オタク〉〈ヤンキー〉の二項対立図式とは、どのような関係があるのだろうか。
TBSラジオで長年続いている「文化系トークラジオLife」という番組がある。番組名に〈文化系〉という言葉が冠されているが、この番組のコンセプトは、“学生時代の文化系の部室でのおしゃべりのような空間・時間をつくる”というものだ。ここでは基本的に、学生時代に非スポーツ系の部活/サークル活動、たとえば吹奏楽部、放送部、新聞部、弁論部、文芸部、漫画研究会などに所属していた人たちが〈文化系〉として想定されているようである。
そして〈文化系〉と対置される〈体育会系〉は、野球部、サッカー部、バスケットボール部、剣道部、柔道部などのスポーツ系部活動に所属している(いた)人たちのことを指す言葉である。
より概念的にまとめると、〈文化系/体育会系〉とは、学校文化のなかでお墨付きを得られる部活動・サークル活動を主な軸とし、活動の舞台が「インドア」で「非身体的」であれば文化系で、「アウトドア」で「身体的」であれば体育会系であると言えそうだ。ここでいう「学校文化のお墨付き」とは、「教職員や保護者などの大人たちから活動を支持され、支援を受けられる」ということである。こういった状態は、社会学の言葉では〈規範的〉と表現することができる[5]。
一方で「オタク/ヤンキー」という二項対立図式と、〈文化系/体育会系〉にはどのようなニュアンスの違いが含まれているのだろうか。