リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回歩いたのは中野周辺です。
数々の災害や戦災に見舞われ、形を変えながらも現在まで歴史を紡いできた東京。その基盤となる近代インフラはどのように作られたのか、中野の街を歩きながら振り返ります。
白土晴一 東京そぞろ歩き
第11回 中野駅から四季の森公園、平和の森公園へ〈前編〉
こんな連載をやらせてもらっているので、お分かりの方もいるだろうが、都市論の本を読むのが相当に好きである。
都市論というのは、一つの都市を歴史だけでなく都市工学や社会学の知見などを横断的に論じること。英語ではUrban studiesと言い、近代都市論は欧米の都市とその郊外の発展を研究したものから始まったらしい。
日本でも、イタリアの建築や都市史研究から現在は東京の都市論の著作も多い陣内秀信さんや、東北大学院教授であり現代都市の諸相をユニークな視点で論じる五十嵐太郎さんなど、読んでいて刺激を受ける都市論の論者はたくさんいる。
最近読んで個人的に面白かった都市論は、ケンタッキー大学人類学助教授であるクリスティン・V・モンローの著作である『The Insecure City: Space, Power, and Mobility in Beirut』という本。
▲出版元のサイトより
実に面白い本なので、誰か日本語訳を出版してくれないだろうかと思う。読後はちょっと興奮したが、やや頭が冷えてくると、「こういうリスクを前提とした都市生活は、東京都民にはまったく想像がつかない」などと漫然と思ったりした。
現在の東京は、問題がないわけではないが、内戦の勃発した都市に比べれば、地域コミュニティー崩壊の危機もないし、命の危険を日々感じるようなリスクもないだろう。しかし、もうちょっと深く考えてみると、こういう安心で安全な東京が自然に出来たわけではないと思い至る。
東京の歴史を考えれば、大震災や戦災、戦後の混乱などの危機に何度も見舞われている。そうした危機を乗り越えて、なんとか今の状態を維持してきたのだ。ベイルートは内戦という悲劇によって、モンロー氏が言うところの「Insecure city」(安全ではない都市)になったが、現在の東京がそれなりに安定した「Secure city」(安全な都市)なのは、東京という都市をそうなるように設計維持したからである。社会学などで「社会統制」という言葉があるが、これは人類が社会の秩序を築くために、その社会の構成員に一定の同調と行動の規制を促すメカニズムを指している。倫理の共通化を行う教育や規範を助長する生活環境なども含む大きな概念だが、より具体的には行動を規定する法律、法律違反を取り締まる警察、容疑者を裁く裁判所、犯人を収監する刑務所、より大きな暴力に対応する軍隊などは、「社会統制」の直接的な手段であるだろう。例えば、内戦などで社会が崩壊した地域の国連PKO(平和維持活動)などでは、警察や刑務所などの再建が最重要視されている。無秩序な地域に「法の秩序」を回復させるのが、地域安定には必須だからである。
巨大な人口の東京の治安を安定させ、「法の秩序」を維持するためには、かなり強固な「社会統制」インフラを構築する必要がある。
そうしたインフラによって、東京は「Secure city」になるような努力が行われている。では、そうした「社会統制」の歴史を東京で感じたいと思うならばどこだろうか? あれこれ考えて、これは東京では中野区が最適ではないかと思い当たった。
なので、今回は中野駅から街歩きを始めてみる。
こうしたイベントなどの参加で中野を訪れる人と、出勤などで駅に向かう人が交差するのは、実は歴史的に繰り返されてきたこと。大正11年刊の東京近郊の観光ガイドである「東京近郊めぐり」には、中野についてこう記述されている。
「新宿の西は中野町で、此地も電車が通ふやうになつてからずんずん開けて行く。江戸時代には六阿彌陀詣、又は新井の薬師や堀之内のお祖師さまへ詣る善男善女の影がつづいたものだが、今は市中に勤める洋服姿の勤人が朝夕に往来する数が日に増加してゆく」
しかし、厄除け大師で有名な堀之内妙法寺、眼病平癒で有名な新井山梅照院など、江戸時代から人気のあった参詣寺もなくなったわけではなく、参拝者が中野駅で下車することも多かったとのこと。
▲著者撮影 新井薬師こと新井山梅照院
こうした参拝客と、通勤で駅に向かう住民が中野駅で交差するという構図は、100年以上が経った現在では、アイドルのコンサートに向かう人(推しのアイドルを見にくるのも参拝と言ってもいいのでは)と都心に向かうサラリーマンに変わっただけで、同じような形で続いていると言える。