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東京で見つけて気になったもの|白土晴一
2022-09-20 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」、今回が最終回です。今回はこれまでの連載では語り尽くせなかった、白土さんが街歩きをするなかで見つけた「何か変なもの」たちを紹介。「そぞろ歩き」の真の楽しみを語っていただきます。
白土晴一 東京そぞろ歩き第18回 番外編 東京で見つけて気になったもの
「東京そぞろ歩き」というタイトルをつけて、東京のあちこちを歩いてきたが、読み返してみると、東京は本当に広くて多種多様だと思う。高層ビルが立ち並んだ都心だけでなく、武蔵野原野の桑畑から新興住宅街になった土地、大きな河川の流域で水害対策がガチガチに施された下町、旧街道沿いに高層マンションが渓谷のように立ち並んでいる場所もある。 東京と一口に言っても、その景観や雰囲気は土地によってまったく違う。 大学入学を機に上京してから、かれこれ 30 年以上東京に住んでいることになるが、それでもいまだに行ったことがない場所もあるし、ずっと知らなかった東京の歴史的な事実というのもあるだろう。 この連載では街並みから行政の都市計画や住宅政策を考えるのも面白かったし、思わぬ場所にある歴史の痕跡を見つけるのも興味深かった。 しかし、私個人が楽しかったことは、道端で何か変なもの、奇妙なもの、違和感があるものを見つけた時だろう。そこまで目立つものではないけど、近づいて見てみると、ちょっと不思議な感じがするものである。 例えば、下の千駄木で見つけたコミュニティーゾーン表示の看板。
初めて見た時は「なぜ亀が描いてあるの?」と疑問に思ってしまった。 こういうものを見つけると、調べずにはいられない性分なので、ネットで検索してみる。 すると、国土交通省道路局が行っている、大きな幹線道路に囲まれている住宅地などを対象に、警察と連携して車両の流入を制限し、歩行者・自転車優先の道路環境を整備し、商店街などの活性化を目指す「くらしのみちゾーン」という事業が見つかった。 東京都文京区千駄木三、四、五丁目地区は、この事業の対象地域で、特にたまり空間なども設置するコミュニティ道路整備に力を入れているとのこと。 そして、この亀はこの千駄木三、四、五丁目地区「くらしのみちゾーン」のシンボルマークで、「ゆっくり歩こう」という意図があるらしい。こういう小さなものに気づき、その背後にどういう意図があるのかを調べるのは楽しい。これこそが街歩きの醍醐味と思う。 しかし、「東京そぞろ歩き」という連載でその地域を語っていくと、どうしても枝葉末節になってしまうこともあるので、泣く泣く小さなものは省いてしまう。何だか勿体無い感じがするが、字数と時間に限りがあるので仕方がない。 私の街歩きはこういう街の中に潜んだ瑣末なものを読み解くことが喜びなので、今回は、連載では書かなかったが個人的に気に入っている、東京で見つけた目立たないがよくみると変わっている、興味深いものを紹介していこうと思う。 では、さっそく、水害対策取材で葛飾区亀有を歩いていたときに、見性寺というお寺の中で見つけたものから。
「狢塚」とある。 狢はアナグマやハクビシンなどのことだが、地域によっては狸のことを狢と呼ぶところもある。狸や狢は日本の伝承では妖怪の一種とするのはご存じだと思うが、そういう妖怪じみた狸や狢の遺骸を祀ったり、塚にしたりすることは、全国でよく見られる。 しかし、ここの「狢塚」の由来は、ちょっとだけ近代的である。 明治時代の都市伝説の一種に「偽汽車」というものがある。これは存在するはずのない場所や時間に、線路の上を謎の汽車が走っているという怪現象。 明治 20〜30 年代の常磐線が開通した時期に、汽車の走っていない筈の夜中に謎の汽笛が聞こえたり、走行中の汽車の機関士が前方から突っ込んでくる謎の汽車を見つけて緊急停止したが、その汽車が忽然と消えてしまったということがあったらしい。 これこそ「偽汽車」なのだが、ある日、常磐線の線路脇に汽車に轢かれた狢の死骸が見つかる。人々は「これが偽汽車の正体か」と驚き、このお寺に塚を作って供養したとのこと。 こう考えると、江戸から続く伝承怪異の動物と鉄道という近代インフラの接触した痕跡と言えると思う。 動物といえば、小金井市の小金井公園桜遊歩道で見つけた、服をきた小鳥付きの車止めも面白い。
この小鳥が上に乗った車止め自体は、あちこちで見かける。しかし、普通は服を着ていない。
実はこの車止めの小鳥が服を着せられているのは、神奈川県の江ノ電江ノ島駅の前に設置されたものでも見たことがある。
この小鳥付きの車止めは、旗ポールや車止めなどを製造している株式会社サンポールさんの「ピコリーノ」という製品。 この「ピコリーノ」自体は人気製品で全国各地に設置されているが、なぜか関東でこの小鳥に服を着せられることが多いらしい。ここ小金井公園の他に、東京では等々力陸上競技場などで服をきた「ピコリーノ」を見ることが出来る。 これは東京に限らないが、銅像やモニュメントに服を着せるという習慣(?)はあちこちで見かける。 例えば、 宿区神楽坂には四コマ漫画「コボちゃん」の主人公のコボちゃんの銅像が立っている。これは原作者の植田まさし先生が神楽坂に長年居住していて、「コボちゃん」の連載も神楽坂で始めたことを記念しての銅像である。 しかし、ご近所の方が季節に合わせてコボちゃんの服を着せ替えている。
こういう銅像や彫像に着せ替えを行う文化がどこから出てきたかは分からないが、民間信仰などで神仏の像の服を着せ替える「お召し替え」という風習はあるので、人や動物の姿をしている造形物に服を着せたいという意識が日本にはあるのかもしれない。
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浅草駅から吾妻橋、隅田公園、言問橋、桜橋へ |白土晴一
2022-08-26 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回は都内屈指の都市河川、隅田川周辺を歩きます。「隅田川テラス」をはじめとして、自然の景観を保護すべくさまざまな土木建築が施された隅田川周辺。スカイツリーを眺めながら、庶民の生活感が汲み取れる竣工の歴史をたどります。
白土晴一 東京そぞろ歩き第17回 浅草駅から吾妻橋、隅田公園、言問橋、桜橋へ
二十代の頃、アメリカのシカゴに行った。 SF 関連のコンベンションがシカゴで開催され、そこに参加しに行ったのだが、これが 最初の海外旅行だった。 一番安い航空券を利用した単独旅行で、トランジットで降りたアンカレッジ空港で十二時間ほど次の搭乗便を待ち、シカゴ・オヘア空港から宿泊予定のホテルまではタクシーに乗った。いま思えば、そんな大したことではなかったのだが、初めての海外旅行で同行者もいなかったので、なんだかんだドキドキしていたと思う。 それに、これが有名な観光地ならば、まだ気分が楽だったのかもしれないが、そのコンベンションが行われた場所は、アメリカ中西部の新聞として知られたシカゴ・トリビューン本社ビルの近くにあって、完全にビジネス街のど真ん中。コンベンション会場の中は SF ファンばっかりだったので気にならなかったが、会場の外に一歩出れば、二十代の世間知らずの貧乏青年だった私には完全な場違いという感じがした。。
しかし、初めての海外旅行だったし、怖いもの知らずでもあったので、コンベンション会場だけではなく、見れるものはなんでも見てみようと、時間を見つけては一人でシカゴ市内を徒歩で散策しに行った。 建築好きの方ならご存じだろうが、1871 年の大火で建物が広範囲に消失した影響で、 19 世紀末から多くの商業高層建築が建設されており、その鉄骨構造のデザインや表現はシカゴ派と呼ばれている。その頃から建築好きだった私は、散策中にこのシカゴ派の高層建築を見てテンションが上がり、ダウンタウンをあちこち歩き回った。 そのうちに、やたらに橋が並んでいる川に行き着く。その橋群が跳開橋や旋回橋など日本だとそんなに見ないタイプの橋があったのも驚いたが、それ以上にその川の両側には高層ビルが乱立している景観に驚いた。 地図で見ると、その川の名前がシカゴ川だと分かった。
▲出典
シカゴ川は元々は五大湖の一つであるミシガン湖に流れていた川だったが、都市の発展 に伴い汚水が湖に流れ込む問題が発生し、19 世紀に環流工事が行われ、川の流れを反対にし、湖へ汚水が流れないようにされた河川である。これは 19 世紀の土木工事の中でも屈指のものであると言える。 当時の私はそんなことは知らなかったが、シカゴ派の印象的なビルが両岸に聳える、この都市河川にかなり心を持ってかれてしまった。 私が都市河川というものに興味を持ち始めたのは、このシカゴ川の景観を見たからではないかと思う。 さて、今回は我が東京の誇る都市河川、隅田川沿いを歩いてみる。シカゴ川ほど両岸に有名なビルが乱立しているわけではないが、それでも東京都内ではランドマーク的な建築物を見ることができる立派な都市河川である。 まずは地下鉄銀座線浅草駅から吾妻橋に向かう。
吾妻橋は昭和6年竣工のソリッドリブタイドアーチ橋だが、色合いからあんまり古い橋には見えない。これは東京都が 2020 年の東京オリンピック前に色彩変更の塗装作業を行ったからで、この赤色は浅草の雷門や仲見世の色を意識したものらしい。 結構、好みが分かれそうな色のようにも感じる。 橋の上から対岸を見ると、東京スカイツリーやアサヒグループ本社ビルが並んでいる。 そして、橋の下には隅田川下りの水上バスの船着場。
ここから隅田川の上流方向に歩くために、隅田公園へ。
隅田公園は隅田川の両岸に跨っており、右岸は浅草から花川戸、今戸まで、左岸の墨田区向島、元々は徳川御三家の一つである水戸家下屋敷小梅邸の跡地が利用されている。左岸の水戸藩下屋敷の遺構として池泉回遊式庭園が残っており、見どころも多いが、今回は長く伸びた右岸側を歩いてみる。
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江古田公園から哲学堂ハイツ、上高田公園、落合公園へ |白土晴一
2022-07-22 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回は、都内のあちこちにある「知られざる水路」をたどります。暗渠(あんきょ)となった河川跡や調整池を見渡しながら、いたるところで水害対策が施されている東京の、普段とは違った姿を解説します。
白土晴一 東京そぞろ歩き第16回 江古田公園から哲学堂ハイツ、上高田公園、落合公園へ
東京をあちこち歩いていると、掘削されてコンクリートで川底まで覆われた河川がたくさんあるが、上部だけ蓋をした暗渠も多い。 転落事故防止や交通の妨げにならないよう、水路に蓋などをして地下に埋設させてしまう工事が行われた水路を暗渠という。元々はどぶ川であったり、郊外ならば水田の用水路であった田川であったり。現在ではそうした水路の多くが地下に押し込められて、通行人の目にはなかなか入らないようになっている。 しかし、あちこち歩いていると、「ここは元は水路、暗渠だ!」と気づくこともある。道が蛇行していたり、水路っぽい地形であったり、家の並びの雰囲気だったり、なかには橋の欄干が残っていてすぐに分かるところもある。 こういう暗渠の痕跡が分かってくると、ついつい暗渠探しをしてしまう。 例えば、下画像は南阿佐ヶ谷で撮影したものだが、これなどは U 型側溝にコンクリート蓋を被せている暗渠で、水路の上を覆うコンクリート蓋が並んでいるのですぐに気づいた。
鎌倉に行った時には、下馬交差点付近という場所で地上に残された欄干を見つけて、「ここは暗渠だ!」と一人で合点してしまった。
この欄干はもともとは下馬橋と呼ばれた橋。現在では暗渠化された「佐助川」に掛けられいた。こういう欄干が残っていると、暗渠であることがすぐに分かる。 こういう暗渠の道を辿っていくと、暗渠ではない開渠(埋設されていない水路、河川)に行き着くこともがある。時間がある時にこういう暗渠を見つけて、どこに繋がっているかを調べる水路探索も楽しい。
ある時、杉並区の清水(そういう町名)を自転車で走行していたら、「あれ?この道は暗渠だな?」と気づいたことがある。蛇行している水路っぽい曲線の道で、あちこちに昔の側溝の際に作られる擁壁ものが残っているので、なんとなくそう感じた。 とくに清水という場所は、その町名が示す通り、この周辺の旧家の敷地から湧水が出ていたことで名付けられたというのは知っていた。なので、こういう清水から湧き出た水は流れていた水路があったはずで、今では暗渠化された井草川の支流か何かではなかったかと推理した。 そして、この暗渠を辿って自転車を走らせていくと、やはり大きな開渠(川)に行き着いた。
画像中央にある排水溝がコンクリートで塞がれているのがわかると思う。これがこの暗渠の終着点らしい。現在ではどうやらほとんど水が流れていないか、違う水路の方に流されているかで、塞がれてしまっているのだろう。 この開渠は、一級河川の妙正寺川という川。 妙正寺川のことは、付近に住んでいる人以外、東京に住んでいても知らない人は知らないだろう。名前は知っていても、どんな川かはよく分からない人の方が多いと思う。それくらいの知名度だと思う。 妙正寺川は荒川水系で、杉並区の妙正寺公園の中にある妙正寺池を水源に、新宿区下落合あたりで神田川(正確には高田馬場分水路)で合流するまでの流路延長 9.7km の河川である。江戸時代は江戸の近郊農村を流れる川だったが、戦後の高度経済成長以降はその流域は都市化によってほとんどが住宅地になっている。掘削で川底を掘り下げ、護岸や川底すらもコンクリートで固められている典型的な都市河川という風貌の川である。
戦前に撮影された写真では田んぼの脇を流れている、のどかな田川という感じだったが、その後は周辺の景観含めて激変してしまった河川である。 こうしたガチガチの河川整備が行われているのは、妙正寺川がかなりの暴れ川だからである。1958 年(昭和 33 年)の狩野川台風や 1966 年(昭和 41 年)の台風 6 号では氾濫し、 2005 年の首都圏大雨でも流域で浸水が発生しまっている。都市化によって住宅地が拡大したことで、その安全を保つために妙正寺川の治水事業は重要度を増し、行政は長年にわたって改修や拡幅工事を重ね、現在のような姿になったのである。 下画像は、哲学堂公園付近の、晴天時の妙正寺川と 2016 年 7 月の局地的な集中豪雨が発生した後の妙正寺川である。この時は氾濫などは起こらなかったのだが、集中豪雨が発生すれば、かなりの水が妙正寺川に流れ込んでくるのが分かると思う。
近年では「ゲリラ豪雨」という言葉が使われるようになったが、環境の変化で都市部で短時間で集中的な豪雨が発生し、都市の下水道などの排水インフラの許容量を超える雨量のために、処理が追いつかずに浸水など被害が生じてしまう都市型水害が増えている。 街全体で舗装やコンクリートなどが地面を覆っているために、地面に吸い込まれず、大量の雨水が都市河川に集中されてしまうという理由もある。 この近年の都市型水害を考える上でも、東京の住宅地である杉並、中野から、 新宿まで流れるこの妙正寺川を歩けば、いろいろな治水対策を見ることができるだろう。 そこで今回は、中野区松ヶ丘付近の江古田公園付近から下落合までの妙正寺川沿いを歩いていこうと思う。 まず、江古田公園内を流れる妙正寺川、ちょうど江古田川との合流点から歩き始めてみる。 画像手前の側溝のような流れがあるが、これが江古田川。 一級河川で、練馬の豊玉からここまで 2km ほどの川である。しかし、画像でも分かるように普段の水量はそこまで多くはない。反対側の橋から見た風景を下に。ここに水害対策が一つ施されている。
水位観測用に色分けされたスケールが描かれているのが分かると思う。妙正寺川には水位観測用のライブカメラがネット上で公開されているが、この合流地点付近にもライブカメラが設置されており、画面上で水位がすぐ分かる工夫がなされているのである。
https://nakano-city.bosai.info/s/live_camera/CAM-JP-NKAN3 ▲中野防災・気象情報 ライブカメラ妙江合流
水位観測用のライブだけでなく、江古田公園には電波を使った河川水位監視システムも設置されている。 ラッパのような形で微弱な電波で水位を観測する電波式水位計で、九州の株式会社マツシマメジャテック製。レベルセンシングなどのセンサー機器のメーカーで、治水インフラなどでよく製品を見かける企業である。水位計はフロート式、投げ込み式、超音波式などがあるが、比較的水面から離して設置できる電波式水位計は増水に強く、いろんな都市型河川で見かけるようになってきている。
ライブカメラや電波式水位計のような監視ネットワークだけではなく、江古田公園には水害対策資材の保管場所である江古田水防倉庫も設置されている。
特に目を引くのは土のう倉庫。 妙正寺川・江古田川流域には土のう配備箇所が 18 箇所あるが、「一時配備」と「長期配備」に分かれている。「一時配備」は「土のうステーション」などと呼ばれて、台風大雨が予想される 6 月上旬から 11 月下旬まで期間限定で土のうが置かれるが、「長期配備」は一年を通じて土のうが置かれている。
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福生駅から横田基地第二ゲートへ |白土晴一
2022-06-14 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回歩いたのは東京都福生駅周辺。都内としては珍しい在日米軍基地のあるこの土地の風景から、占領期以降のこの国の歴史に思いを馳せます。
白土晴一 東京そぞろ歩き第15回 福生駅から横田基地第二ゲートへ
地元から東京に出てきてもう数十年が経つが、上京当時に驚いたことの一つに聴取出来るラジオ局が多いことがある。 地元ではNHKかAMラジオ局一つくらいだったが、東京だとFMとAM、かなり選択肢があることに気づき、やたらいろいろな局の番組を聴いていた。まだネットでラジオが聴ける時代ではなかったので、ラジオのつまみを回して周波数を合わせていたのだが、神奈川や埼玉のラジオ局の電波も拾えることが面白かった。 しかし、一番驚いたのが、英語のラジオ局があったことだろう。FMだとDJが英語を交えた言葉で曲紹介をする番組もあったが、その局の番組はすべて完全に英語。それまでも、電波環境の具合で海外の短波ラジオ局が切れ切れで聞こえることもあったが、この英語のラジオ局はくっきりはっきり聴ける。 しばらくそのラジオ局を聴いていると、どうやらそれはAmerican Forces Network、アメリカ軍放送網という在日アメリカ軍のラジオ放送であるということが分かってきた。番組の内容はリスナーからのリクエストで音楽をかけたり、ニュースや基地内のイベント情報などで、日本の番組構成と大きく違っているとは感じなかったが、ときどき東京近辺の骨董市についての宣伝が入るのが印象に残っている。 骨董市のCMは、どうやら日本に駐留している軍人さんの中には、日本に来ているなら日本の古いものを購入したいと思う人も多いらしく、そういう人向けということが分かってきた。 ちなみにAFNはラジオ局だけではなく、本国から購入した番組などを流すケーブルTVのサービスなども行っているが、海外で働くアメリカ軍人やその家族などが本国に帰国した際の情報格差をなるべく無くすためのものでもあるとか。 現在ではネット経由でラジオも聴けるので、興味がある方は。 https://www.afnpacific.net/local-stations/tokyo/
このANFの放送を聴くようになってから、東京は意外に近くにアメリカ軍が存在しているということを実感するようになった。沖縄や青森の三沢、神奈川の横須賀などが米軍基地と近い土地であることは知っていたが、それまで東京にそういうイメージがなかったのだ。 以来、西武新宿線に乗っているときに、あんまり旅行者っぽくない軽装のアメリカ人らしき集団を見かけると、「あれは軍の人たちが都心に遊びに来ているのかも」などと考えてしまう。 そのため、私の中では東京はアメリカ軍基地の街という意識がある。
なので、今回は東京のアメリカ軍基地の本丸と言える在日米軍司令部のある横田基地周辺を歩いてみようと思い立ち、JR青梅線の福生駅に降りてみる。
駅に併設されたカレー屋のCoCo 壱番屋だが、看板に「YOU CAN TAKE IT OUT」、カレーうどんの広告に「Please try our noodle!! They are delicious!!」とある。 こういうCoCo 壱の英語の表記はあまり都内で見たことがない。英語圏の人間が多い場所用のものだと思うが、駅のカレーチェーン店からも基地対応を読み取れるのが、福生という土地柄だろう。 実はこの日は土曜の午後だったのだが、短パン半袖の若いアメリカ人と思われる集団が何組も駅に入っていく。週末であるし、JR青梅線に乗って都心に遊びに出るために横田基地から出てきた兵士たちではないだろうか。 私はその反対に基地の方向に向かって歩いていく。 やなぎ通りを越えて都道165号伊奈福生線に入ると、右手に工場となにやら山小屋風の店がある。
ここは福生の名物の一つと言える「大多摩ハム」の工場と、その直売店兼レストランの「シュトゥーベン・オータマ」。 「大多摩ハム」の創業者の小林榮次氏は、大正時代に来日したドイツ人マイスター、アウグスト・ローマイヤー氏に本格的なハム製造を学んで戦前から独立し、戦後にはいち早くGHQ指定工場に認められ、日本に進駐してきた軍人とその家族にハム、ベーコン、ソーセージなどを提供してきた。 2011年から福生市内で製造された材料を使ったホットドッグ、「福生ドッグ」という企画が商工会等によって進められているが(アメリカ軍基地の街でホットドッグということらしい)、ソーセージには福生ハムとこの大多摩ハムのものが使われている。 直売店の「シュトゥーベン・オータマ」でも、この福生ドッグは購入可能。 なので、一本購入してみる。
ここから都道伊那福生線を外れ、多摩川によって作られた段丘の途中にある福生不動尊から基地西側の住宅地に入ってみる。
そうすると、住宅地の中にちらほらと平屋で矩形(角が直角で長方形)の建物が目に入ってくる。
そこまで新しい感じではなく、すっきりしたデザインで、屋根はコンクリート瓦、長方形の長い一辺側の真ん中に玄関が設置されているものが多い。 こういう住宅は横田基地周辺の福生からお隣の拝島や瑞穂町でもよく見かけるが、何か一つの規格に沿って作られている感じがする。
これはアメリカ軍人家族向けに作られた「米軍ハウス」。英語では「Dependents house」(扶養家族住宅)や「Offbase house」(基地外住宅)などと呼ばれる住宅で、最初は第二次大戦後に進駐してきた軍人家族のために建てられ、多くのアメリカ軍人が基地に配置された朝鮮戦争当時には、基地ゲート周辺などはこうした住宅が隙間なく並んでいたらしい。むろん、基地内にも兵舎や家族向け住宅が建設されたが、それだけでは足りず、当時基地周辺に土地を持っていた日本人は米軍の住宅不足を見越し、畑があった土地などを利用し、米軍軍人向けの賃貸ビジネスに乗り出したため、こうした住宅が建設されていったのである。つまり、福生周辺の米軍ハウスは民間が不動産投機的に建設したものなのである。 その後、1970年代に入ると日本に駐留する米軍人の数が減って基地内居住が進むようになると、日本人にも貸し出しされるようになり、アメリカの生活を趣向する若者や音楽家、芸術家などが好んで移り住んだことでも知られている。
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JR浜松町駅から芝大門、増上寺へ 〈後編〉|白土晴一
2022-05-23 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。前回に引き続き、増上寺周辺を歩きます。徳川将軍家の墓所がある増上寺ですが、現存する文化財は再建されたものも少なくありません。現存する建築物と地形から、当時の風土を探る白土さんの眼が光ります。
白土晴一 東京そぞろ歩き第14回 JR浜松町駅から芝大門、増上寺へ 〈後編〉
芝の街歩きの続き。 芝名物とも言える芝大門を抜け、そのまま東へ向かうと、通り沿いに小さな駐車場がたくさんあるのを見ることが出来る。
この地域はオフィス街で、停められているのは営業用らしき車両が多い。付近に警察署もあるので、路上駐車が難しい場所でもあるし、駐車場の需要は高い土地だと思う。 しかし、この駐車場群が他の地域と違うのは、ほとんどが寺院が経営していることだろう。ほとんどの駐車場が、本堂や庫裏などの寺院の建物と併設するように駐車スペースが作られている。お寺や神社が自らの土地で事業を行うのは珍しくないが、都心のオフィス街付近にあるお寺は、わずかな空間でもこのように利用して駐車場を経営していることが多い。 そのため、ここ芝はお寺の数が多いのだ。 昭和 16 年の「大東京區分 芝區詳細図」(日本統制地図株式会社)で戦前のこのあたりを見ても、この周辺に寺院マークがたくさんあるのが分かる。
▲著者蔵
前編で書いた通り、このあたりは江戸時代は将軍の菩提寺だった増上寺の広大な境内だったが、その中には最盛期には50寺以上の山内寺院が存在していたというのが、お寺が多い理由である。 山内寺院というのは、簡単に説明すれば、大きなお寺の境内にある小さなお寺のことで、方丈(長老僧侶の居室)、学寮(僧侶の学問寄宿所)などなど、それぞれが独自の役割と由来を持っている。 例えば、現在の港区区役所の通り沿いにある常行院は、増上寺の法主が天台宗の僧侶をわざわざ招くにあたって創設された山内寺院である。
古い増上寺の境内図を見ると、本当にびっしり山内寺院が並んでおり、巨大寺院の中に小さな寺院が乱立する寺院都市の様相を呈している。 こうした山内寺院の中には特定の大名と関係を深めているお寺もあり、寄進などを受けその大名家の宿坊や江戸登城前の支度場所などとして機能していたものもあった。 明治時代になって増上寺の境内の多くが上地(政府による接収)されたが、これらの山内寺院は宗教法人として今も多くが存続している。 江戸時代に大名の貸していた空間を、今では周辺会社などに駐車場として貸しているというのも、ある種の芝地区の歴史的な連続性を感じなくもない。 そう考えると、芝のお寺の塀には「空車」の張り紙をよく見ることがあるが、これも歴史的な背景込みで考えると、なかなか感慨深い。
この駐車場のある山内寺院の通りを、さらに西へ移動すると、日比谷通り沿いに都内有数の大きさを誇る山門が現れる。
国の重要文化財である増上寺の三解脱門。 この門は、江戸時代には増上寺の中門(楼門と本殿の間の門)であったが、実は二代目で最初の門は慶應16年(1611年)に徳川家康の命で建立されたが、大風のために倒壊し、11年後の元和8年(1622年)に現在の二代目門として再建された。 再建されたものと言っても、都内有数の古い建造物でもある。 三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗という威容を誇る門で、明治や大正でも東京の名所としてよく観光ガイドや絵葉書の題材になっている。
▲芝公園案内図より この巨大な三解脱門の下を通ると、これまた巨大な増上寺の大殿本堂が現る。
階段の上にあるこの大殿は、後ろの東京タワーの位置にもよる印象もあるだろうが、武蔵野台地のキワ、若干高い地形に建てられており、まるで見下ろされるような印象を受ける。
ただし、こちらの大殿も昭和49(1974)年に建築されたもの。元々の大殿本堂は昭和20(1945)年5月の東京大空襲によって焼失してしまっている。 下は、絵葉書の昭和期の消失前の増上寺大殿。
▲著者蔵
分かりにくいかもしれないが、本堂と後ろの樹木の地形が少しだけこんもりしていて、これが武蔵野台地のキワ、台地の先っぽなのである。 この緩やかな傾斜の地形は、大殿の後ろ側にある徳川将軍家墓所だともっと見てとれる。
芝に限らず、港区は台地と段丘の間を縫うように低地があるという地形が多い。そして、台地段丘と低地の境目は、斜面か崖になっていることが多い。これらは大昔に海や川によって大地が削られた痕跡である。 この痕跡は、芝公園南側の古川沿いにある前方後円墳である芝丸山古墳を見るとより顕著になっている。
この古墳は標高16mの台地に造られた古墳なのだが、江戸時代に円頂部が削られ、現在では環状3号線が崖下を通っているため、擁壁でガチガチに固められている。 しかし、近くを流れる古川で削られて出来た台地の崖であることを今でも感じることが出来る。 文政3年(1820年)に「江戸城内并芝上野山内其他御成絵図」の中で描かれた芝増上寺を見ても、川で削られた台地の舌状のような場所に増上寺が建設されているのが分かるだろう。
▲国会図書館デジタルコレクション
この台地のキワ、緩やかな傾斜に造られた徳川将軍家墓所であるが、もともと増上寺には二代将軍秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の将軍6人を始め、将軍の兄弟、正室、側室、子女などが多数の徳川家の方が埋葬されていた。 現在増上寺には、特に6人の将軍とそれぞれの正室の墓所が設置されている。
▲徳川将軍家墓所の鋳抜門
この墓所は公開されているので拝観冥加料を納めれば、入ることが可能なのだが、「かつて日本を統治した徳川将軍家の墓所としては、小さくないか?」という印象を受ける。 将軍家の墓所ともなれば、初代の家康が祀られた日光東照宮の規模とは言わないまでも、将軍一人ひとりにもっと大きな霊廟があったとしてもおかしくない。実は、今は無くなってしまったが、かつてこの将軍たちにはそれぞれ荘厳な霊廟があったのである。 再び前述の昭和16年の「大東京區分 芝區詳細図」を見てみる。
地図上の増上寺本堂の南と北に徳川霊屋という文字が書かれているのが分かると思う。 特に北側は、広大な敷地を有している。 現在この場所がどうなっているかを確認するために、三解脱門を出て日比谷通りを北に向かって歩くと、そこには西武グループの東京プリンスホテルが。
東京プリンスホテルは、1964年の東京オリンピックの海外客の来日を見越して建設され、当時のプリンスホテルの中では序列第一位という最先端のホテルである。 しかし、このプリンスホテルが建てられる以前は、ここに将軍家の広大な墓所が存在していたのである。この敷地の中には各将軍ごとに当時では最高の建築技術が投入された霊廟が建設され、日本中の大名が寄進した石灯籠が数千も立ち並んでいたらしい。
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JR浜松町駅から芝大門、増上寺へ 〈前編〉|白土晴一
2022-04-19 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回はJR浜松町駅周辺から増上寺へ向かって歩きます。徳川将軍家の菩提寺として知られる増上寺。建設に関わった"ニコニコ銀行王"牧野元次郎のエピソードからは意外な歴史が紐解けるようです
白土晴一 東京そぞろ歩き第13回 JR浜松町駅から芝大門、増上寺へ 〈前編〉
20代の頃、バイトで浜松町付近によく通っていた。 大学を卒業しても就職はせず、金はないけど暇だけはあったので、バイトが終わるとこの辺りで遊んでいた。 とはいえ、浜松町は当時からビジネス街だったので、20代フリーターの私が遊ぶような場所はそれほどなかった。 駅前にはサラリーマンの集まる飲食店はたくさんあったが、そういう店に入るのもなんとなく気が引けた。一つ向こうの駅である田町には、90年代バブルを象徴するかのようなディスコ「ジュリアナ東京」もあったが、あまり興味もなかったし、そもそもそんなところに行けるような金もない。 JR浜松町駅前にある世界貿易センタービルに入り、地下にあった飲食店街でカレーを食べ、2階にあった大型書店「文教堂」で本を物色し、お金に余裕があるときはビル40階にあった展望台シーサイドトップに登り、夜の東京をボーーっと眺めてもしていた。 しかし、貿易センターに通うのも限度がある。そこで、金はないが暇と体力が余っていた私は浜松町を中心に歩き回り、人の流れや街の景観を観察するようになっていった。 そういうことを始めてみると、街並みや建造物の背後にいろんな歴史や都市計画者の意図があると認識し始めた。特に浜松町から芝地区は、東京の中でも歴史的なものが密集している地域なのでそういう歴史や意図が読みやすくて面白い。 20代の私はやがて都市観察に熱中するようになっていき、こういう連載をやるくらいにハマって、今に至るという訳である。 そう考えると、浜松町は私の街歩きの原点であるような気がする。
そこで久しぶりに芝界隈を歩いてみることに。
JR浜松町駅を降りる。目前には浜松町のランドマークであった世界貿易センタービルが見える。前述したように、このビルの展望台にはよく通ったが、今は昇ることが出来ない。
1970年に完成し、当時は日本一高さである40階建て152メートルの超高層ビルであった世界貿易センタービルは、この地区が都市再生特別地区(自由度の高い開発が土地利用が行われる地区)に指定されたことにより再開発が始まり、新たなビルを建設するために現在の建物は解体工事が行われているためである。 超高層ビルの解体としては日本最大になるらしく、超大型のジャッキで持ち上げて一階づつ壊しては下げていく「だるま落とし」のような「鹿島カットアンドダウン工法」が採用されている。 かつては高層ビルの解体は非常に難しく、期間も長くかかり、周辺に大きな影響が出るのでは? と言われたが、この工法だと穏やかかつ効率的に解体ができるらしい。 その証拠に貿易センタービルの隣にある「日本生命浜松町クレアタワー」(2018年竣工、地上29階、地下3階、高さ156m)との距離も結構近い。この近さでも解体ができるのか! という感じ。
かつて、何度も訪れたビルがなくなるのも悲しいが、こういう大規模で最新の高層建築物解体技術が見れるのも面白い。 そこから第一京浜(国道15号線)を渡って東京タワーや増上寺方面に向かうと、何やら地面にめり込んだ怪しいものが。
瓦屋根でかなり瀟洒で和風なデザインの公衆便所である。 正式な名前は「大門脇公衆便所」。こうした半地下型の公衆トイレはけっこう昔の形態で、昭和の頃にはあちこちにあったが、最近は姿を消しつつある。ここはその数少なくなった地下公衆トイレの一つである。 地下に造ることで臭いを多少なりとも封じめるためであったと聞いているが、事実、このトイレが建設されたのは昭和7年とのこと。その頃は「大門通不動銀行前街道便所」と呼ばれていた。 そして、このトイレがある芝大門交差点には、この地区を象徴する建造物である増上寺大門がある。
区道の上に立脚するという都内でも珍しい門で、当然その下を自動車が行き来している。車二台が並んでも余裕ある広さだが、ドライバーの中にはちょっとこの狭さに恐怖を覚える人がいるかもしれない。 しかし、この大門、実はこれでも新たに大きく広くして作り直されたものなのである。そもそも現在の大門は、徳川将軍家の菩提寺であった増上寺の惣門(敷地の外郭にある最も大きな入口の門)があった場所に造られている。
▲江戸時代の増上寺惣門。大門脇の案内板より撮影
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中野駅から四季の森公園、平和の森公園へ〈後編〉 |白土晴一
2022-03-18 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。前回に引き続き中野の街を歩きます。治安が保障された「Secure city」としての東京はどのように作られてきたのか。社会統制を担った警察や監獄といった施設の戦前から戦後にかけての歴史を探ります。前編はこちら。
白土晴一 東京そぞろ歩き第12回 中野駅から四季の森公園、平和の森公園へ〈後編〉
さっそく、前回の続きから。 前回は中野を歩き、近代日本の軍事施設跡について解説しながら、スパイ学校として名高い「陸軍中野学校」が昭和14年に中野へ移転したことについて述べた。 「陸軍中野学校」は昭和12年(1937年)に、「謀略の岩畔」こと科学的諜報組織創設の推進者であった岩畔豪雄中佐、戦時中のヨーロッパで「星機関」という諜報ネットワークを作り終戦後にソ連で獄死した秋草俊中佐、理論派の憲兵将校として名高かった福本亀治中佐を中心に設立されたスパイ養成学校である。 変装、潜入、尾行や破壊工作、錠前破りなどのスパイ技術を習得した工作員を養成するための陸軍参謀本部直轄の学校で、講師にはスリや鍵師、甲賀流忍術第14世を名乗る武術家の藤田西湖のような多種多様な人材が招かれている。 当初は九段坂の愛国婦人会本部の別棟を拠点にしていたが、昭和14年(1939年)にこの中野囲町にできた軍事施設群の中に移転。しかし、秘密機関であるため存在は秘匿されており、隣接する中野憲兵学校の生徒たちもまったく知らなかったらしい。 スパイ養成学校なので、一般の人々の間で目立たずに行動しなければならず、生徒は髪を伸ばし、敬礼もせず、普通の服装。 戦後に出版された憲兵学校卒業生の回顧録などを読むと、隣は軍関係の施設らしいが、軍人っぽくない髪の毛が伸びた男たちが出入しているため、「何の建物なのだ?」と不審に思う者もいたという。 この「陸軍中野学校」の出身者たちは、戦前戦中に世界中に送られ、中には外交官としての身分でアフガニスタンに潜入した者や、ドイツに亡命していたインド独立運動の闘士スバス・チャンドラ・ボースをトップに据えたインド国民軍(INA)を支援した特務機関「光機関」の要員となった者など、情報戦の最前線で戦うことになっていく。 日本史上最大規模のインテリジェンス要員養成所であったのは間違いない。 こんな秘密のスパイ学校、現在の中野に何か痕跡が残っているのか? と思われる方もいるだろうが、一つだけある。 それは中野四季の森公園の道路を挟んだ向こう側にある東京警察病院の敷地内。
この警察病院の北側の隅、早稲田通りから覗けるところに、「陸軍中野学校跡」と記された記念碑がある。 戦後に卒業生有志によって組織された中野学校校友会が作ったもので、後ろ側には創設者の1人である福本亀治氏の謹書もある。
植え込みの中にあるため、早稲田通りを通る人もほとんど気づかない。 しかし、秘密戦士を送り出すという学校の記念碑だけに、この身を隠しているような佇まいは何かを感じさせるものがある。 この「陸軍中野学校跡」の碑の隣には、「摂政宮殿下行啓記念 大正十二年五月二十八日」と記された記念碑もある。 大正12年で摂政宮殿下ということは、のちの昭和天皇のことを指している。大正天皇は体が丈夫ではなく、皇太子であった裕仁親王、のち昭和天皇はこの時期は摂政として父の公務を代わりに執り行っていたが、この中野にも公務で訪れており、その記念ということになる。摂政時代の昭和天皇がどこを訪れたかは、後ろを見ると「軍用鳩調査委員会」という文字で分かる。
日本では明治から軍事用の伝書鳩(軍鳩)を使用し始め、大正8年にこの碑にある「軍 用鳩調査委員会」が軍用鳩の飼育と訓練を調査と普及を行うための組織として創設された。 この組織の事務所は中野電信隊の中に設置されていた。電信も伝書鳩も、当時の軍隊にとっては重要な通信インフラなので、一緒なのも不思議ではない。 しかし、スパイと鳩の記念碑が並んでいるのは、何かシンボリックではある。 旧約聖書「創世記」に登場するノアの方舟の物語では、大洪水に備えてノアの一家はすべての動物のつがいを乗せていたが、陸地を探すために鳩を放つとオリーブを咥えて戻ってくるという下りがある。 このため、鳩は平和の象徴以外に、偵察兵やスパイに喩えられることもあるからだ。 情報を持って行き来するという意味で、スパイと軍鳩は同じ情報戦に従事したもの同士で、今は仲良くひっそりと中野の片隅に並んでいるというのも運命的ではあるのだろう。この記念碑のある東京警察病院は平成20年(2008年)に千代田区富士見から移転してきたもので、病床が400床を超え、救急隊から搬送される傷病者を担当する基幹的病院であり、国が定めた災害拠点病院にも指定されている。
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中野駅から四季の森公園、平和の森公園へ〈前編〉 |白土晴一
2022-02-21 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回歩いたのは中野周辺です。数々の災害や戦災に見舞われ、形を変えながらも現在まで歴史を紡いできた東京。その基盤となる近代インフラはどのように作られたのか、中野の街を歩きながら振り返ります。
白土晴一 東京そぞろ歩き第11回 中野駅から四季の森公園、平和の森公園へ〈前編〉
こんな連載をやらせてもらっているので、お分かりの方もいるだろうが、都市論の本を読むのが相当に好きである。 都市論というのは、一つの都市を歴史だけでなく都市工学や社会学の知見などを横断的に論じること。英語ではUrban studiesと言い、近代都市論は欧米の都市とその郊外の発展を研究したものから始まったらしい。 日本でも、イタリアの建築や都市史研究から現在は東京の都市論の著作も多い陣内秀信さんや、東北大学院教授であり現代都市の諸相をユニークな視点で論じる五十嵐太郎さんなど、読んでいて刺激を受ける都市論の論者はたくさんいる。 最近読んで個人的に面白かった都市論は、ケンタッキー大学人類学助教授であるクリスティン・V・モンローの著作である『The Insecure City: Space, Power, and Mobility in Beirut』という本。
▲出版元のサイトより
長年の内戦が続いたレバノン首都ベイルートの住民たちのインタビューとフィールドワークを重ねて、安全確保が難しい社会情勢の中で都市空間がどうなったかを追った労作である。激しい暴力の中で、都市がどう情景を変え、住民がどんなライフスタイルを形成し、どんな交通手段が生まれていったかを論じている。 実に面白い本なので、誰か日本語訳を出版してくれないだろうかと思う。読後はちょっと興奮したが、やや頭が冷えてくると、「こういうリスクを前提とした都市生活は、東京都民にはまったく想像がつかない」などと漫然と思ったりした。 現在の東京は、問題がないわけではないが、内戦の勃発した都市に比べれば、地域コミュニティー崩壊の危機もないし、命の危険を日々感じるようなリスクもないだろう。しかし、もうちょっと深く考えてみると、こういう安心で安全な東京が自然に出来たわけではないと思い至る。 東京の歴史を考えれば、大震災や戦災、戦後の混乱などの危機に何度も見舞われている。そうした危機を乗り越えて、なんとか今の状態を維持してきたのだ。ベイルートは内戦という悲劇によって、モンロー氏が言うところの「Insecure city」(安全ではない都市)になったが、現在の東京がそれなりに安定した「Secure city」(安全な都市)なのは、東京という都市をそうなるように設計維持したからである。社会学などで「社会統制」という言葉があるが、これは人類が社会の秩序を築くために、その社会の構成員に一定の同調と行動の規制を促すメカニズムを指している。倫理の共通化を行う教育や規範を助長する生活環境なども含む大きな概念だが、より具体的には行動を規定する法律、法律違反を取り締まる警察、容疑者を裁く裁判所、犯人を収監する刑務所、より大きな暴力に対応する軍隊などは、「社会統制」の直接的な手段であるだろう。例えば、内戦などで社会が崩壊した地域の国連PKO(平和維持活動)などでは、警察や刑務所などの再建が最重要視されている。無秩序な地域に「法の秩序」を回復させるのが、地域安定には必須だからである。 巨大な人口の東京の治安を安定させ、「法の秩序」を維持するためには、かなり強固な「社会統制」インフラを構築する必要がある。 そうしたインフラによって、東京は「Secure city」になるような努力が行われている。では、そうした「社会統制」の歴史を東京で感じたいと思うならばどこだろうか? あれこれ考えて、これは東京では中野区が最適ではないかと思い当たった。 なので、今回は中野駅から街歩きを始めてみる。
JR中野駅を下車し、駅北口から出ると、巨大な「中野サンプラザ」が目に飛び込んでくる。
建物の上層が宿泊施設、下層はコンサートホールや大型イベント会場なども行える複合施設であり、新宿から近い交通の便の良さと収容人数2000人程度という使い勝手もあって、アイドルのコンサートやアニメ、ゲーム系のイベントがよく開催されている。建物前の広場では、それに参加する人々が列を作って並んでいる姿をよく見る。 こうしたイベントなどの参加で中野を訪れる人と、出勤などで駅に向かう人が交差するのは、実は歴史的に繰り返されてきたこと。大正11年刊の東京近郊の観光ガイドである「東京近郊めぐり」には、中野についてこう記述されている。
「新宿の西は中野町で、此地も電車が通ふやうになつてからずんずん開けて行く。江戸時代には六阿彌陀詣、又は新井の薬師や堀之内のお祖師さまへ詣る善男善女の影がつづいたものだが、今は市中に勤める洋服姿の勤人が朝夕に往来する数が日に増加してゆく」
江戸時代の中野村は石灰を運ぶ道として始まった青梅街道沿い、大都市江戸の近郊を利用した農業や産業で栄えていたが、明治22年(1889年)に甲武鉄道の中野駅が開業(その後のJR中央線中野駅)したことで人の流れが大きく変化し、明治30年(1897年)の東京市豊多摩郡中野町の町制施行などを経て、明治後期には急激な宅地化、都市化が進んでいた。 しかし、厄除け大師で有名な堀之内妙法寺、眼病平癒で有名な新井山梅照院など、江戸時代から人気のあった参詣寺もなくなったわけではなく、参拝者が中野駅で下車することも多かったとのこと。
▲著者撮影 新井薬師こと新井山梅照院
つまり、明治後期の段階で、まだ中野は観光地と近郊住宅街が入り混じった土地だったのである。 こうした参拝客と、通勤で駅に向かう住民が中野駅で交差するという構図は、100年以上が経った現在では、アイドルのコンサートに向かう人(推しのアイドルを見にくるのも参拝と言ってもいいのでは)と都心に向かうサラリーマンに変わっただけで、同じような形で続いていると言える。
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渋谷駅から渋谷リバーストリート、恵比寿へ |白土晴一
2022-01-31 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回は、渋谷の街並みを川沿いに歩きました。道玄坂や宮益坂などの高低差のある地形や渋谷川を暗渠化した道々から、河川地帯の名残が随所に垣間見える渋谷。再開発の歴史に触れながら、「若者の街」ではなく「谷の街」としての渋谷を歩きます。
◯お知らせ 明日2/1より、リニューアル準備のためDaily PLANETSの配信日を「水曜日を除く毎平日」と変更させていただきます。今後とも各媒体での記事・動画の配信や書籍刊行を含め、さらなるコンテンツの充実に努めてまいりますので、引きつづきPLANETSをよろしくお願いいたします。
白土晴一 東京そぞろ歩き第10回 渋谷駅から渋谷リバーストリート、恵比寿へ
その昔、渋谷を舞台にしたゲームの制作に関わったことがあって、渋谷という街には少し思い入れがある。何度も時間帯を変えて道玄坂を取材したり、ハチ公前で人の動きを見たり。 中でも、実写の映像で展開するゲームだったので、エキストラとして撮影に参加したことが一番記憶に残っている。混雑する日中に撮影するわけにはいかないので、ほとんど人がいない早朝のわずかな時間を利用していたが、撮影内容よりも人影がほとんどない早朝の渋谷が印象的で、谷間に出来た傾斜地という地形がより際立って見えた。 ご存じのとおり、JR渋谷駅は道玄坂や宮益坂、金王坂などの長い坂に囲まれた場所にある。これは渋谷川などの河川で出来た谷という地形だからである。 渋谷というとハロウィンやワールドカップがあると若者たちが集まってくる街というイメージが一般的かもしれないが、個人的には「日本で一番発展している谷の街」と思っている。 なので、「若者の街・渋谷」ではなく、「谷の街・渋谷」という観点で渋谷を見ているが、これがなかなか面白い。渋谷川やそれが作り出した谷、その痕跡を見つけると興奮してしまう。 例えば、下画像は 2016年に撮影したもので、渋谷駅北側、旧大山街道沿いにあった駐輪場。
微妙に曲がっているのが分かると思うが、実はこれは二級河川である渋谷川の上に蓋をした暗渠の上に造られた駐輪場だったのである。 東京の河川の多くは高度経済成長時代に多くが蓋をされて暗渠化されているが、川筋まで消すことは出来ないので、「この曲がり具合は元は川だな。ここは暗渠だな」などと、かつての水路を推測しながら歩くことが出来る。 ちなみに、現在この場所は、 新しくなった宮下公園の入り口として整備されて、駐輪場は無くなっている。ただ、それでも微妙な川の流れの曲線、痕跡は残っている。 こういう場所を見ると、水路好き、地形好きとしてはグッときてしまう。 渋谷はこういう場所が結構あるが、それは日本有数の新陳代謝が激しい地区、開発が繰り返されている渋谷のような場所でも、元々流れていた河川の歴史を完全に消し去るのは難しいということだろう。 そして、2013年には JR東日本と東京メトロが東京都に提出した「駅街区開発計画」に、現在暗渠化されている渋谷川の移設工事が行われると発表された。 「渋谷駅街区土地区画整理事業」のサイトに、渋谷駅と渋谷川移設の将来予想図があるので参照されたい。
これは河川マニアには大変に大きなニュース。渋谷駅のJR東地下広場を広げるにあたって、現在暗渠化されている渋谷川が邪魔になるので移設してしまおうという計画で、JR側の地下一階と、ヒカリエに向かう地下二階の東横・副都心線の改札口の間に人工的な水路が作られるというのである。 これは地形好き、河川好き、地下構造物好き、都市計画好きにはたまらない。渋谷のような繁華街で、川が移設されるという土木事業を見ることはそうそうない。なので、しばしば渋谷に出かけては、地下広場と渋谷川移設の工事の様子を見に行くようになった。下の画像は 2016―2017年にその工事を見に行って撮影したもの。
2022年1月現在は、この「駅街区開発計画」の工事も大きく進んで、渋谷でも最も高い230mの複合商業施設「渋谷スクランブルスクエア」も完成している。
渋谷川の移設もほとんど完成しているらしい。 さすがに表示されていないので、建物の形などから推測するしかないのだが、下画像の天井の上に移設された渋谷川があるのではないかと思う。
他の人間はあまり気にしないだろうが、私個人としては川の下を歩くというのは面白い。 しかし、わざわざこういう手の込んだ工事が行われたくらい、渋谷は「日本で一番発展している谷」と言えるかもしれない。 移設された渋谷川を見たので、もう少しだけ渋谷川沿いも歩いてみる。 なので、渋谷駅南の「渋谷ストリーム」へ向かう。 この高層複合商業施設は、東急東横線の渋谷駅が地下化されるにあたって、地上駅および線路跡地(及び周辺地域)の再開発の目玉として建設された。
渋谷川を見て歩くのに、なぜこの「渋谷ストリーム」に行くのかと言えば、その名前が答えになっている。 建設された当初、「なぜストリームなのか?」と思っていたが、英語のstreamは小川や水の流れという意味で、答えが下の画像。
これは「渋谷ストリーム」前の稲荷橋広場から渋谷川を撮影したものであるが、なにやら壁の上から水が出ていて、川に流れ込んでいるのが分かると思う。 実はこの壁からの水、「壁泉」が現在の渋谷川の水源になっているのだ。この「壁泉」だけでなく、稲荷橋広場下に別の放水口もあるのだが。
東京都内の河川の多くは、整理されたり、暗渠化されたりで、他の川との繋がりを失っていることも多い。こうなると川というよりも、雨水や排水などが流れるだけの水路になってしまうこともある。 渋谷川も同じで、大雨なので一次的に水が流入する以外、現在は上流で違う川と繋がりがない状態なのである。そこで平成7年(1995年)に東京都は清流復活事業の一環として、落合水再生センターからの再生水を流すことで、歴史ある渋谷川を復活させたのである。 ただし、清流復活事業当初は、この「渋谷ストリーム」よりも南にある 並木橋付近の放水口から再生水が放出されていた。
並木橋には、今でもこの事業開始時に設置された、渋谷川と下流の古川の清流が復活したことを記す表示板がある。ちなみに並木橋下にある、かつての放水口の現在は下に。今では放水されていないのが分かる。
しかし、東急渋谷駅が地下化され、渋谷駅南側にあった地上の高架線路も撤去されるため、2015年にその跡地を利用した「渋谷駅南街区プロジェクト」が始まり、その中心となる「渋谷ストリーム」の建設が決まると、渋谷川のリバーサイドという立地条件を積極的に打ち出すために、わざわざここを新たな水源場所とすべく工事が行われたのである。 2017年の工事中の稲荷橋広場、そして 2021年現在の稲荷橋広場。
現在の正式な渋谷川は、この「渋谷ストリーム」脇の稲荷橋広場を起点に、広尾の天現寺橋で笄川に合流して古川になるまでの約 2.4kmほどの流れを指す。 再開発による高層ビル建築と同時に、河川らしい水源が作られ、川が少し伸びるというのも珍しいことだと思う。 ちなみに、「ここからが渋谷川ならば、渋谷駅前の移設される地下の渋谷川は、渋谷川じゃないのでは?」と思う人もいるかもしれないが、ここはちょっとややこしい。
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小菅駅から古隅田川緑道、綾瀬川、東京拘置所、荒川河川敷へ|白土晴一
2021-12-27 07:00550pt
リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回は、小菅駅から荒川に向けて歩きます。水害対策のために荒川放水路と綾瀬川に挟まれた小菅地区。用途を変えながらも長い間地元住民と接してきた川沿いの地形から、下町に暮らす人々の歴史を探ります。
白土晴一 東京そぞろ歩き第9回 小菅駅から古隅田川緑道、綾瀬川、東京拘置所、荒川河川敷へ
東京に出て、最初に住んだのは JR金町駅の沿線であった。 葛飾区金町は東京の東側の端っこで、水元公園を越えれば埼玉県三郷市、江戸川を越えれば千葉県松戸市という場所である。 今から数十年前なので、当時は田んぼがけっこう残っていて、大都会東京に出てきたというよりも、都市の近郊農村に引っ越してきたような気がした。 江戸川に近い場所であったため、窓を開ければ延々と伸びている高い堤防が眼に飛び込み、休日には河川敷のグランドで草野球の試合がいくつも行われ、堤防の上の道路を犬の散歩やランニングをしている人などがひっきりなしに通行しているというような土地で、山に囲まれた盆地の地方都市で生まれ育った私には、まったく馴染みのない風景が物珍しかったと記憶している。 特に驚いたのは、散歩がてらに河川敷を歩いている時に、30cmほどのデカいネズミのような動物が葦の中から飛び出してきたことだろう。東京に来て、そんな得体の知れない動物に遭遇するとは想像もしていなかった。 のちに、その動物は一部では「マツドドン」となどと呼ばれていて、1940年代に毛皮用に輸入されたものが逃げ出して繁殖したマスクラットという外来生物であることを知るが。 金町から都心に向かうにしても、常磐線の上り電車に乗って、中川、荒川、隅田川という大きな河川を渡っていかねばならない。 そのうち、常磐線に乗っていると、「今、三つ目の鉄橋を渡ったから、北千住が近いな」などと、越えた川で場所を把握するようにもなっていった。 つまり、私が最初に受けた東京の洗礼は、人混みでも、超高層ビルでもなく、関東平野の大きな河川とその周辺の生活環境ということになる。なんとなく意識下に「東京は平らな土地にデカい川が流れている」と刷り込まれてしまったのだ。 当然こういう風景は東京全体ではなく河川が集中する下町の話なのだが、高い堤防の連なる大きな川を見ると、今でも東京に出てきた頃の10代の自分を思い出す。 都心の繁華街や高層ビルよりも、都内の大きな河川の河川敷を歩くと、今でも「ああ、東京にいるんだな」と思ってしまう。
だから、しばしば大きな川沿いの街を歩きたくなる。 そこで浅草から東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)に乗車し、荒川を越えた小菅駅で降りてみることにする。 葛飾区小菅は、下町を水害から守るために作られた人工の迂回水路の荒川放水路と、昔の荒川の分流であった綾瀬川に挟まれた三角形の地区である。
上は駅前に設置された周辺地域案内の地図を撮影したものだが、これを見れば川に挟まれた土地というのが良くわかると思う。 現在は東京下町となったこの辺りは、古来から河川が集中しており、江戸時代からいくつもの大規模な工事によって川がまとめられたり、流れが変えられたりしているので、川の来歴を説明するだけで大変な場所。しかし、だからこそ、水害を防ぐため、川沿いで生活するためのインフラ施設や景観が顕著に見てとれる土地と言える。
ホームを降りてすぐに目に飛び込むのは、巨大な要塞のような東京拘置所。 小菅といえば、この東京拘置所抜きでは語れない。下りの東武伊勢崎線やJR常磐線の電車に乗れば、嫌でもこの巨大な施設が眼に飛び込んでくる。
ちなみに手前の茶色の団地のような建物は、拘置所職員用の官舎。刑務官は、万が一の事態の際の緊急招集を想定して、拘置所に隣接もしくは施設内に官舎が建設されることが多い。 ホームから改札に向かうために階段を降りるが、この小菅駅ほど「高架駅とはこういうものである」と感じさせてくれる駅はないだろう。
橋脚や梁が丸見えで、剥き出しコンクリートの高架下に、駅に必要最低限な改札と階段、エレベーター、トイレなどが設置されただけと言っていい。しかし、線路下の高架の床板が事実上の天井なので、上の空間がえらくオープンで解放感を生んでいる。仮設の駅という訳ではないが、経済性を追求したが故の奇妙な開放的な雰囲気がある。 ここ小菅駅は荒川放水路(現在の荒川のこと)の建設にともない、北千住―小菅間に鉄道橋を建設するための路線変更が行われたことで、大正13年(1924年)に建設された駅。この駅自体も河川の影響で生まれた施設と言えるだろう。 戦後の一時期営業が休止されていたが、昭和25年(1959年)に再び営業が開始された。そういう意味では路線選定の際にあらかじめ計画された重要駅というよりも、何かの都合で慌てて開業した駅という歴史を感じさせる作りだろう。 ホームに昭和の小菅駅を撮影した写真があったが、これを見ると昔は一つのプラットホームの両端に線路が隣接している現在の「島式ホーム」ではなく、向かい合うようにプラットホームが二つ並んでいる「相対式ホーム」であったらしい。
また、現在の橋脚を連ねた高架ではなく、土を台形状に築き、その上に線路やプラットフォームを置く「盛り土方式」の高架駅だったことが分かる。荒川の堤防を越えて鉄橋近くに作られた駅であるので、この高さのプラットフォームになってしまうのだろう。駅舎やプラットホームに向かう階段も、後から無理やり作ったようで、現在の駅と同様に、最低限の駅として成り立てばよいという感じが、個人的には面白く感じてしまう。
改札を出て駅前に出てみるが、そこは駅前というよりも住宅街の路地という感じで、コインロッカーと自販機が並んでいる程度。駅前というのにはあまりに殺風景である。
古い地図で確認すると、そもそも明治の終わり頃は田圃しかないないような場所で、駅が建設された後の昭和前期にちらほら住宅が作られるようになったらしい。 その駅前の住宅地の中を南に進むと、東京拘置所の官舎が現れる。しかし、その官舎の前には、敵を防ぐ中世城館の堀のような水路がある。
東京拘置所の周りだけに収監者の脱走を防ぐために作られた堀ではないか! と思ってしまうが、そんなことはない。 これは古隅田川と呼ばれる河川。現在の隅田川とは当然違う。 先ほども書いたが、このあたりは江戸から何度も河川改修や水害対策の工事が行われいる場所で、いくつかの河川がまとめられたり、流れの方向を変えられたりして、かつては川があったが今は違う場所を流れているということが多い。 しかし、川自体が完全に無くなった訳ではなく、暗渠化されたり、水量がかなり少なくなっているが、わずかに川として残っている所もある。そうした川は、「元○○川」や「古○○川」などと呼ばれることがある。 この古隅田川も、そうしたかつての大きな流れの痕跡のような川で、武蔵と下総の国境となっているほどの大河だったが、中川の灌漑工事などで工事によって水量が徐々に失われた結果、一時期は雑排水路(ドブ川)となるが、下水道整備でその役割もなくなり、現在はこのような姿で親水公園や親水遊歩道などが併設されている。 ただ、安政の大地震(1850年代に連続して発生した大地震)では、この古隅田川沿岸で液状化現象が大きな被害が出たという記録が残っている。今は小さくなっていても、川というのは何がしかの影響を土地に残しているので侮れない。 ちなみに現在の隅田川はかつては旧入間川の下流部分で、江戸時代の瀬替などの河川改修工事を経て大川と呼ばれたが、昭和に入って荒川の分流として隅田川と名付けられた河川。 このように江戸東京の河川はひどく入り組んだ歴史を辿っているこの古隅田川沿いを東の綾瀬方面に向かって歩く。
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