ついに最終回を迎える、メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、後編の公開です。
既存の価値体系の周縁にいながら、自然的・「運ゲー」的な環境に身を委ねることで新たな価値を創造する心性を、「マタギ」的と表現し未来社会を論じてきた本連載。これまでの連載を総括しながら、改めて「マタギドライヴ」の原理と成立条件について解説します。(前編はこちら)
落合陽一 マタギドライヴ
終章 マタギドライヴたちが招く未来(後編)
マタギ的なコスモロジーの根本にあるもの
ここで改めてマタギの原義に立ち返ると、それは主に日本の東北地方の北西部などに分布する、土着の宗教観や自然観に基づいた猟師たちのことです。それをどう文明批評的に拡大解釈すれば、我々がデジタルネイチャー下で未来にコミットしていくための指針が得られるのかということが、マタギドライヴの核心です。
マタギの世界においては、アニミズム的な宗教観や生命倫理のもと、生活の糧を得るための行為と宗教的な儀式が、基本的にほぼ同一化しています。狩りの中に宗教的な象徴性がともなうという点で、いわゆるハンターとは異なります。マタギに明確な教義があるわけではありませんが、獲物を授けてくれる山に感謝し、自然の自生性に身を委ねようとする点で、明らかに獲物を征服対象とみなすゲームとしてのハンティングとは異なる心性が共有されています。
マタギは儀式性もはらみ、茶道のような儀式を重視する点で、非常に「道」的でもあります。アニミスティックな宗教性に基づいて、周縁的であり続ける価値観を持つマタギ。それは作物やクリエイションを個人の所有に帰属させる、現代社会の農耕的な価値観とは相容れないものを有しています。
そしてマタギには、「マタギ言葉」というものがあります。自分たちが人間社会の境界線を超えて山に入る際、世俗とは異なる原理で生きていることを確認するために、特殊な言語を作ることが要求されていく。日常語とは違う言葉を使い、自分たちはいま特別な状態にあることを確かめるわけです。
これは茶道にも通じます。お茶を飲むこと自体は一般的な文化ですが、お茶を点てて飲む一連のプロセスの中には、特殊な言語がたくさん出てきます。袱紗を何回か折り曲げて、灰をいじり、茶碗を何度かずらす……そんなプロセスに、ある種の自然崇拝的な宗教性のようなものが表出しています。音楽やスポーツ、格闘技やダンスも同様です。農耕社会的な日常の中に、なにか狩猟民的な非日常の心性を意図的に導入しようとするとき、言葉を独自化し、儀式的/儀礼的な手続きを通じて、ある種の神聖さをともなう狩猟民的なメンタリティが再獲得されていくのです。
そこで農耕民と同じ言語を喋り始めると、最適化のロジックにはまってしまう。だからこそ、デジタルネイチャー下の現代のマタギドライヴもまた、独自の言語体系を確立していくことになるでしょう。異なるカルチャーを求め、プラットフォームの外周部に踏み出していく。きわめて少ない人数で、アニミスティックなインスピレーションに基づいてクリエイションを行うこと。デジタルネイチャー化していく世界においては、そうしたインスピレーションの中からしか、農耕社会的な都市構造と距離を取り、最適化の構造から逃れることはできません。
そして管理的な農園から自生的な森へとデジタルネイチャーの深度が深まることで、そうしたマタギ的なコスモロジーが、思わぬかたちで復権を遂げることも考えられます。
マタギドライヴは「人のネットワーク」の外側から駆動してゆく
そうしたマタギ的なコスモロジーが立ちあらわれるとしたら、どのような局面からか。マタギドライヴがいまだプラットフォームに取り込まれていない未規定性を発見していくムーブメントであるという定義上、そのシナリオを設計主義的に描くことはできませんが、それはおそらく農耕社会的な共同性や人のネットワークではないところから興っていくであろうことは、間違いなさそうに思います。
最近、完成品を売るのではなく過程を見せることで価値を高めるという「プロセス・エコノミー」という言葉が注目を集めていますが、個人的に考えているのは、あの東京五輪2020の狂騒こそは、まさに負のプロセス・エコノミーではなかったのかということです。あのグダグダ過程を全国民的に共有するプロセス・エコノミーが成立したおかげで、アメリカでは史上最低の視聴率だったにもかかわらず、開催国の日本でだけは開会式の視聴率がきわめて高かった。
この事象から得られる示唆は大きいと思います。要するに、プロセス・エコノミーは非常に農耕社会的な世間において共有される文脈に依存的なものであり、文脈を共有していないグローバルな範囲では成立しないのかもしれません。五輪の元々の意義は、世界最高峰のスポーツの祭典に相応しいコンテンツやそれに相応しいセレモニーを発信するものだったはずなのに、みんなが気になってしまった日本ローカルの事情と、結果だけを見て「ショボい」と思って消したアメリカとの違いが浮き彫りになった。比喩的に言えば、オリンピックにまつわる炎上は良い意味でも悪い意味でも、その興味をグローバルで引き止めることができなかった。
対して、基本的に人のネットワークの外側にいて大型動物を狩る存在であるマタギには、プロセス・エコノミーの要素がほぼありません。ジェフ・べゾスがロケットに乗って帰ってきましたが、そこにはプロセス・エコノミー的な要素は一切ありませんでした。過程はどうでもよくて、結果を見せてくれたからです。過程を見せないほうがいいものと、過程を見せないと成立しないものとがあり、どこからかプロセスを見せなくてよくなるボーダーラインがある。すなわち、都市型のクリエイションスタイルと辺境型のクリエイションスタイルの線引きです。
マタギが農耕民と交易する上では、あくまで巨大な熊の毛皮というモノの存在価値がすべてなので、その獲得過程は先述したようにマタギ言葉によって農耕民的な世俗とは隔絶され、消費者に語られることはありません。対して農耕民にとっては、ムラ社会におけるケとしての田植えやハレとしての祝祭を通じて、プロセスを共有することが重要です。もちろんマタギのコミュニティの中では、むしろ農耕民以上に命を賭して獲物を狩ってそれを儀式化していくプロセスの共有が重視されているのですが、それをコミュニティ外の辺境民から農民への交換経済の場に出す際には獲得プロセスが伝達されることはなく、エコノミーとしては結果的に得られたモノとしての強度だけが問われることになります。
すなわち、市場全体に同質の「文脈のゲーム」を拡大させていく志向を持つプロセス・エコノミー的な方向ではなく、むしろ一定の範囲で人のネットワークの文脈を遮断することによって異質なコミュニティ間でも価値を醸成していく「原理のゲーム」のほうをこそ、マタギドライヴは駆動していくことになるでしょう。