メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、いよいよ最終章(前編)の公開です。
今世紀における情報社会の徹底によって、人間関係をも含むあらゆる事物が「最適化ゲーム」に巻き込まれるなか、新たな価値基準を生み出しうる「マタギ」の本質とは何か。「ノマドからマタギへ」というロードマップを示しながら論じます。
落合陽一 マタギドライヴ
終章 マタギドライヴたちが招く未来(前編)
40年越しに蘇る「ステーショナリー・ノマド」の精神性
1980年、ビデオ・アーティストのナム・ジュン・パイクは美術誌「アートフォーラム」に載せた寄稿文で「ステーショナリー・ノマド(定住する遊牧民)」というコンセプトを提唱しました。地球上のさまざまな場所に置かれた、電子的なキャンバスからプログラムを送信することで、エネルギー消費を抑えてアート活動を行う人たちを指す概念です。
これは奇しくも、現代の私たちが向かおうとしている脱炭素的な持続可能経済における価値創造のあり方とも通ずるものがあります。もちろん、パイクの提唱したステーショナリー・ノマドは、オイルショックなどを契機に、全世界的に石油消費の減少を目指していた1970〜80年代の潮流から出てきたものであり、Zoomやオンラインカンファレンス、NFTといったテクノロジーを前提とした、地産地消のサステナビリティを目指す今日の議論とはかなり異なる文脈から生まれてきたものです。しかし、そこで目指されている世界のあり方はかなり酷似しています。
パイクの定義に従えば、たとえばデジタルデバイスを用いて創作活動を行っている私は、かなりステーショナリー・ノマドに近い。もちろん、ディスプレイの解像度がまだ十分に高くないという問題はあります。空間上の創作物をイメージする際、リアルなデジタルツインが存在するわけではないので、たとえデジタルキャンバスを使っていたとしても、毎回現場に行かざるを得ません。現時点においてはシミュレーションされたデジタルなものを見たときより、実物を観に行ったほうが情報や体験の解像度が高いがゆえに、チームラボは巨大な専用ミュージアムや歴史建造物、あるいは自然環境といったロケーションを活用しているのです。ゆえに、パイクが言うほど価値創造の世界はいまだ「ステーショナリー」な段階には到達していません。
しかし、こうした解像度の問題も、長期的には解消されると思います。建築模型のBIM(コンピューター上に現実と同じ建物の立体モデルを再現し、建築に活用する仕組み)やデジタルツインの正確性はどんどん上がっています。建築家の隈研吾はコロナ禍になってから、ビデオ越しでテクスチャが分かるようになったので、海外に行かなくなったと語っていました。
その意味では、ステーショナリー・ノマドは、序章から第1章にかけて詳述したマタギドライヴのコンセプトを40年ほど先駆けたものだったと言えるでしょう。
とはいえ、パイクはあくまでもビデオアーティストであり、インターネットカルチャーが開花する以前の発想だった点には、大きな差異もあります。パイクの発想は、電子的なキャンバスにデータを送れば映像が出てきて油絵や彫刻の代わりになるという個々のクリエーションの範囲に留まっていますが、たとえばプラットフォームの限界費用が擬似的な自然環境のように低下する中で多くのプロシューマーたちがデータをやりとりしてコ・クリエーションしたり、その中で出てくる新しい地産地消を考えたり、オルタナティヴなエネルギー消費のあり方を考えたりするところまでは、パイクの視野には入っていません。
ただし、パイクが思想的なバックボーンとして依拠した仏教や茶道の文化は、そうした現代的な発想と本質的に近しいものを抱えています。40年越しにパイクの考え方を再照射してみると、サーキュラー・エコノミー下におけるデジタルフォーメーションと同じ方向性での文明批評性を有しているのです。
したがって、ステーショナリー・ノマドからマタギドライヴに何が受け継がれて何が変わったのかを検証することで、改めてマタギドライヴという生き方の可能性と課題を逆照射し、本書の議論を総括したいと思います。