ウクライナ情勢が緊迫する中、たとえ日本に住んでいて、ウクライナやロシアに知人がいなかったとしても、「自分に何ができるのだろう?」と悩む人は少なくないはずです。「中立や客観は強者への加担」といった議論も目にする中、ウクライナ問題に限らず世界中のさまざまなイシューに対して、わたしたちはどのような態度を取るべきでしょうか? テロと紛争の解決に取り組むNPO法人アクセプト・インターナショナル代表理事として、ソマリアをはじめさまざまな地域の紛争解決に取り組んできた永井陽右さんに、当事者ではない「善き第三者」の重要性について寄稿してもらいました。
当事者性が叫ばれる時代で、「善き第三者」の重要性を考える|永井陽右
中立は「強者の眼差し」か?
今日ほど善き第三者の意義が再確認されなければいけない時代もそうないだろう。フックとなるのはやはり、ロシアのウクライナ侵略である。ウクライナのゼレンスキー大統領による国会演説は、国会議員に留まらず多くの日本人の共感を呼んだ。連日報道またはSNSで発信されるウクライナ情勢を目にし、多くの人々がウクライナとウクライナ市民に連帯を示している。国際秩序を揺るがす甚大な事件であるとはいえ、ここまでの日本人が海外の出来事に強い関心を示すのはなかなか珍しいのではないだろうか。
また同時に、こうした中ではロシアへの理解やウクライナの降伏などを少しでも意見した瞬間、インターネット上で袋叩きにあうということも散見される(叩かれた方も大きく反論しバチバチしているが)。私自身、先日テレビで「和平プロセスにおいてはどこか第三者の国が必要になる」など発言したところ、SNSで少なくないバッシングにあったりもした。また、Twitterでは「実は『中立』や『客観』って、マジョリティの立場に立つことなんですよ。それは強者の眼差しなんです」という信田さよ子さんの言葉が大きく拡散をされていた。
たしかに「『中立』は強者の論理」論は、ロシアとウクライナのどちらに非があるかという価値判断の次元の議論において、「中立」が「どっちもどっち」の立場をとるという意味だとすれば、それは然りだ。また、調停や仲介における適切なタイミング(紛争解決の理論ではripeness(熟している具合)と言う)を考えると、今はまだその時ではないかもしれない。現状での一番良い紛争の終わり方はウクライナの勝利というか完全防衛による終結であろう(内戦が増えてからは和平合意による紛争終了が多くなったが、元々紛争の終り方として一番多かったのはどちらかの勝利である)。
しかし、本稿で考えたい「中立」はそういう次元の話ではない。プーチン大統領は然るべき裁きを受ける必要は間違いなくありつつも、実際に起きてしまっている紛争を解決する上での具体的な問題解決の知恵やノウハウとして、非当事者の第三者に何ができるかを、改めて見つめ直そうということだ。別の言い方をすれば「非当事者に何ができるか」という、いわば非当事者がなしうる当事者性とは何かという問いと言える。この意味での「中立」は、価値観の中立を意味するものではなく、別にロシアの暴挙を是認するかどうかというレベルの議論とは本質的に別の問題だ。「中立」の持つ意味がセンシティブになっている今だからこそ、改めて私たちが日常レベルから見直しておくべき、その具体的な必要性と方法論を本稿では考えたいと思う。