本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の新著『水曜日は働かない』(ホーム社)から一部を特別無料公開してお届けします。
「水曜日は働かない」という大胆なライフスタイルを、エッセイ集として提案する本書。今回お届けするのはマラソン「大会」にまつわるとあるエピソードです。「水曜日は働かない」でランニングに励む宇野常寛なりの、走ることを通してみえてくる暮らし方について綴ります。
※本日19:30開催のトークイベント「遅いインターネット会議」では、働き方改革PJアドバイザーの坂本崇博さんと、スキルのマーケットプレイス「ココナラ」代表・南章行さんをお招きして、「働き方」をテーマに議論します。
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マラソン大会は必要ない(「水曜日は働かない」第3話)|宇野常寛
気づいたときは既に手遅れだった。それも、決定的に。その連絡を受けたとき、僕は都内を走っていた。正確に述べれば、走り終わってラーメンを食べていた。その日は例によって水曜日で、僕は相棒のT氏といつものカフェで落ち合って10キロ走った。いつものコースを折り返すあたりで、T氏がラーメンの話を始めた。ちょっと前に僕に勧められた「天下一品」のスープライスセットがとてもうまかったのでまた行きたい、と。スープライスセット。それは全国の天下一品の中でも直営店にしか許されていない禁断のメニューだ。どこが禁断なのか。スープライスセットのラーメンのスープ(あの鶏皮のビスク状の、こってりスープだ)は大盛りになっている。そのため着丼時には、こってりスープの海に麺が沈んで見えないような状態で運ばれてくる。そして麺をすすりきったあと、僕たちはそこにセットのめんたいこご飯をぶちこんで、おじや的に思う存分貪ることになる。人間がラーメンに求める重厚感、ギットリ感、99%の充実感と1%の罪悪感などを完璧に備えた究極のメニュー。それがスープライスセットだ。しかしそのカロリーはもはや計測不能だ。その上僕はいつもそこに豚トロと味玉をトッピングするのでほんとうにとんでもないことになる。それゆえに全国の天下一品フリークからもスープライスセットは禁断のメニューとして恐れられている。そして僕はT氏の話を聞いた途端に、スープライスセットのことしか考えられなくなった。途中でコースを変更して神楽坂に向かった。天下一品の神楽坂店は、都内で2店しかないスープライスセットを出す天下一品の「直営店」だった。
「いいんですか、宇野さん、いつも体重のことを気にしているじゃないですか」とT氏は尋ねた。僕は一蹴した。大丈夫。今僕たちはこうして10キロ走っている。そして週末は軽井沢で20キロ走る。30キロ走れば消費熱量はざっと1800キロカロリー。余裕だ、と。そう、僕はその週末、半年前からエントリーしていた軽井沢リゾートマラソンの、ハーフマラソンの部に出場する予定で準備を進めていたのだ。むしろ体力をつけておかないと、と自分に最高の言い訳を用意して、僕はランニング後に駆け込んだ天下一品神楽坂店でスープライスセットを注文した。
しかし僕がそう豪語して全力で麺をすすり、思う存分白米をスープにぶっこんでいたそのとき、電話は鳴ったのだ。軽井沢リゾートマラソンの中止を告げる、スタッフからの電話が。
ことの発端は僕の主催する私塾「PLANETS CLUB」だ。クラブには僕の趣味を思いっきり反映してランニングチームがあるのだけれど、そこで「みんなで大会に出よう」という話が盛り上がったのだ。マラソン大会か……。僕は一瞬、ひるんだ。世界中のオタクがそうであるように、僕はマラソン大会、というか学校の体育教育自体にいい思い出がない。身体を動かす喜びではなくてみんなと同じように、機械の歯車のように身体を動かすことや、他人と競争して勝つことばかり教えられるあの「体育」の授業の時間が本当に嫌で嫌で仕方がなかった。純粋に身体を動かすことが楽しいことだと思いだしたのは、30歳を過ぎて、気分転換にランニングをはじめてからだ。
だから最初に「大会」と聞いたときは、気乗りしなかった。そもそも僕は走ること自体が目的なので、タイムは一切気にしない。疲れたら水も買うし、歩くし、休む。単に何かのためではなく、街を自分の足で、自分の決めた速度で移動することそのものが楽しくて、気持ちよくて、僕は走り続けている。ランニングやヨガのようなライフスタイル・スポーツでは何かのために運動するのではなく、僕のように運動することそれ自体を楽しみにしている人が多い。そしてこのタイプの人には大会のために練習するという発想は最初から、ない。なので僕もこのとき大会のような「目的」があるとランが純粋に楽しめなくなるのではと一瞬思ったのだ。だが……。
「いいじゃないですか! 去年も軽井沢楽しかったし」──企画が上がった瞬間、スタッフたちは沸き上がっていた。そう、僕らは実は去年も、この軽井沢を走っていたのだ。1年前の11月の頭の連休中のある朝に、僕たちは、軽井沢駅に集合した。僕と編集部のスタッフと、そしてクラブメンバーの有志と合わせて総勢約三十人。学生から50代まで、見るからにオタクから見るからにリア充まで傍目にはまったくなんの集団か分からない一党が軽井沢の地に結成された。
僕たちはバスで星野リゾートのトンボの湯に移動してそこに荷物をおいて、そこから5キロ走った。もちろん大会じゃない。自主的に走ったのだ。ちょうど、紅葉の季節だった。僕たちは赤や黄色に染まった木々の中を抜けて、川を渡って、軽井沢の街を走り抜けた。僕は普段から結構走り込んでいるつもりだったのだけれど、クラブのランチームのメンバーや、編集部の若いスタッフのほうが全然速かった。そしてトンボの湯で汗を流した。走ったあとの温泉、それも露天風呂は格別だった。その後は運良く予約が取れた老舗の蕎麦屋で昼食を摂って、食べ終わったあとは有志で『テラスハウス 軽井沢編』の聖地巡礼に向かった。翔平が聖南さんに告白して振られた教会では、管理の人の厚意で建物の中まで見せてもらった。テラスハウスのファンは数多く訪ねてくるけれど、この人数(二十人ほどまだ残っていた)で来た人たちは初めてだと、管理人は目を丸くしていた。
去年のあの秋の日を思い出して、僕は気づいた。自分はまた、軽井沢に行きたがっている。あの気持ちのいい空間を、今度は20キロたっぷり走って満喫したいと思い始めている。こうして、僕は軽井沢リゾートマラソンに、PLANETS CLUBの有志約二十名と一緒にエントリーした。「大会のために練習する」というのはちょっと違うと言っておきながら、実は結構ワクワクして、それなりに練習していた。月に二回は、都内を21キロ走って感覚を掴んでみようと試みていた。課題は体力じゃなくて、むしろ足だというのも想像通りだった。ある程度走り慣れていると20キロ走っても体力的にへばることは夏場でもまずないが、季節を問わず15キロを過ぎたくらいから「足」が痛くなる。故障して走れなくなるのが一番イヤなので、ここが課題だった。僕のようなタイムを気にしない「走る」ことそれ自体が目的のランナーにとって、マラソン大会は自分の普段のペースを守ったまま、怪我をしないように普段とは違う街を走り、触れることを楽しむイベントだった。
何度か21キロを走って、ペースはつかめてきた。これくらいの距離感と進入角度、そして速度で走れば僕は軽井沢の21キロを満喫することができる……。あとは走るだけだった。ただし、大会が開催されていれば。
先日列島を襲った台風19号は軽井沢にも浅からぬ傷跡を残していた。道路等はほぼ通行が可能だったが、付近には倒木や浸水の被害が散見され、そして停電が続くエリアも多かった。そして運営事務局は2019年の軽井沢リゾートマラソンの中止を決定したのだ。もちろん、僕も軽井沢の被害状況を調べなかったわけではない。その上で、道路網への決定的な被害がないことから大会は決行されるのだろうとタカをくくっていたのだ。この半年の努力は一体何だったのか。ワクワクしながら大会を指折り数えていたこの気持ちは、いったいどこにぶつけたらいいのか。
中止の報告を受けた携帯電話を手にしたまま、脳内の後藤隊長が囁いた。「戦線から遠のくと、楽観主義が現実にとって代わる。そして最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けているときは特にそうだ」……このときの僕がまさにそうだった。でもそのとき、もう一つの声が脳内に囁いた。「宇野くん、諦めたらそこで試合終了だよ」心の中で安西先生が僕の肩に手をおいた。そしてさらにかのシャア・アズナブルの声が響いた。「まだだ、まだ終わらんよ……!」
そう。マラソン大会は中止になった。けれど僕たちの勝負はまだ終わってはいない。リゾートマラソンは中止になった。けれど、僕たちが走れなくなったわけじゃない。僕たちはそもそも大会のために走っているんじゃない。走ることそのものが目的なのだ。僕はスタッフに指示を開始した。正確には麺が伸び、スープが固まる(天下一品のスープは冷めると油が固まり半固形状になる)まえにスープライスセットを平らげると、頭を全力回転させてスタッフに指示を与えはじめた。大会が中止になったのなら、僕たちが勝手に走ればいい。これまでもずっとそうだったし、去年もそうやって軽井沢を走ったのだ。僕は被害の軽微なエリアを、つまり僕らが走っても街の人たちに迷惑のかからないエリアを調べ、そしてハザードマップと照らし合わせ、土砂崩れのリスクのないコースを選定するように指示した。スタッフも、よく動いてくれた。僕はさらに住宅地とかじゃなくてちゃんと軽井沢らしい景色を楽しめるコースを、という無茶な注文を出したのだけど、そこにもよく応えてくれた。約7キロの、予定の3分の1だけどとてもいいコースが半日で上がってきた。
週末はよく晴れてくれて、少し蒸し暑いくらいだった。僕たちは汗びっしょりになりながら、7キロ走った。台風の傷跡はもちろん、そこにあった。けれど、それでもやはり軽井沢は美しい空間だった。去年と違い紅葉は進んでいなかったけれど、緑の中を走るのもとても気持ちが良かった。僕たちのほかにも、同じように勝手に走りにきた人たちが結構いて、ああ、みんな軽井沢が好きなんだなと思った。そして僕たちはその後BBQで思う存分空きっ腹に肉をかっこんだ。我慢しきれずゴール直後から地ビールで酔っ払う大人たちが続出したが、それはまあ、いいだろう。そして去年と同じトンボの湯で汗を流した。まだ新幹線が完全に復旧していなくて、帰りの電車は立ちっぱなしだったけれど、これくらい21キロのランに比べればなんでもなかった。そして来年必ず、リベンジしようと誓いあった。大会にももちろんエントリーすると思う。しかし、それ以上に、なんだか僕たちにとって軽井沢は特別な場所になったような気がしていた。僕たちの目的は走り続けることだ。だからほんとうは大会も要らないし、ゴールも要らない。来年もこの素敵な季節に軽井沢に来ること、そしてこの街を走ることができればそれで十分なのだ。大会が楽しみすぎて、僕はそのことを一瞬忘れそうになっていたけれど、僕たちはどこに行っても勝手に走り続ければいい。僕にとって軽井沢はそんな当たり前のことに気づかせてくれたとても大切な街になったのだ。
[了]
▼プロフィール
宇野常寛(うの・つねひろ)
1978年生まれ。評論家として活動する傍ら、文化批評誌『PLANETS』を発行。主な著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)ほか多数。
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