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第4回  在来種たちの伸長

(前回までのあらすじ)
アメリカ進駐軍カルチャーの末裔としてのセガ・エンタープライゼスと、
「満州のイスラエル」を夢見た旧日本陸軍特務機関の理想のなれの果てのタイトー。
太平洋を隔てた新旧大陸のユダヤ人たちが創業に携わった両者によって、
戦後日本のアーケードゲームシーンの土台は築かれたのだった。

■三大アーケードゲームメーカーの成立
  『スペースインベーダー』登場前夜の日本のアーケードゲーム業界の草創を語るにあたっては、もう一角のプレイヤーの存在を欠かすことができない。セガ、タイトー両社とならび、ビデオゲーム以前からのエレメカ式アミューズメント機器の最大手として業界を牽引した中村製作所。のちのナムコである。
  その創業者の中村雅哉こそ、大戦による断絶を越え、遠藤嘉一が興した戦前日本の娯楽機器製作の文化に唯一接した、最も正統的な継承者であった。

  1925年に神田の鉄砲鍛冶商の家に生まれた中村は、学生時代に家業を手伝いながら、日本娯楽機器の事務所をよく訪ねていた。そこで遠藤の薫陶の下に、百貨店の屋上遊戯施設経営に興味を抱くことになる。そして第二次世界大戦後の1955年、リサイクルした自動木馬を松屋伊勢崎町店の屋上に納入する仕事を機に、大田区池上で中村製作所を設立。かつての遠藤の来歴をなぞるように、遊園施設の経営から各種娯楽機器のメーカーへと発展を遂げてゆく。
  このようにジュークボックスやフリッパーのような進駐軍カルチャーからではなく、子供向け・家族向け施設の国産遊具の脈絡からアーケードゲーム業界に参入した中村製作所は1971年にエレメカ機のブランド「ナムコ(Nakamura Amusement Machine manufacturing COmpany)」を立ち上げる(1977年に社名化)。その創設には、貿易会社から国産メーカーへと脱皮したタイトーの社名変更とは対照的に、自社開発のゲーム機の国際展開を目指す姿勢がいち早く打ち出されていたと言えるだろう。