どこまでも遠くへ届くもの
―― 宇野常寛、
『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論』を読む
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2014.12.18 vol.225
本日のほぼ惑は、「ダ・ヴィンチ」に掲載されている宇野常寛の批評連載「THE SHOW MUST GO ON」のお蔵出しをお届けします。今回は『おぼっちゃまくん』『ゴーマニズム宣言』などで知られるよしりんこと、小林よしのりという作家について考えます。「ネトウヨ」が存在感を増しているいま、「物語」の復権に力を尽くしてきた小林氏が取り組む新たな試みとは――?
先日、小林よしのり氏の勉強会(ゴー宣道場)のゲストに招かれ、登壇してきた。
僕たちの世代にとって、よしりんは、小林よしのりという作家は避けては通れない存在だ。『おぼっちゃまくん』がテレビアニメ化もされ大ヒットしたとき、僕のクラスの男子はたいてい朝学校で顔を合わせると「おはヨーグルト」と挨拶を交わしていた。こうした「茶魔語」の流行にたいていの親と教師は眉を顰めていた。僕たちは、あのマンガの根底に当時のバブル的なものへのアイロニカルな風刺精神が横たわっていることになんか、まるで気づいていなかった。ただ、大富豪の息子と設定された主人公の自分の欲望に正直すぎる言動(そしてそれを実現し得る財力)と、そこから生まれるグロテスクな笑いに、とにかく圧倒されていた。
そんな小林よしのりという作家が『SPA!』で時評マンガをはじめたときもやはり、僕たちは気がついたらすっかり目が離せなくなっていた。ある社会問題を考えるときに、人間がたどる思考の一歩一歩と、その原動力となる感情のゆらぎのひとつひとつを、小林よしのりは恐ろしいほど繊細なセンサーで捉え、そしてそれを卓越した力量で戯画化していった。ギャグ漫画家ならではのユーモアも交えて描かれるその誌面は、やはりグロテスクだった。グロテスクに誇張されることで、ものごとの本質を露呈させる力をもっていた。もちろん、その主張には同意できることもあるし、できないこともある。ただ、ここで僕が訴えたいのは、小林よしのりという作家の力は、何よりその高い表現力とそれを下支えする、人間の心情や業を捉える鋭敏なセンサーに支えられている、ということなのだ。僕の知る限り、小林よしのりはもっとも繊細な作家のひとりだ。
さて、その日の「ゴー宣道場」のテーマは「幼児化する大人たち」と設定されていたが、議論は次第に現代における公共性をめぐるものへと進んでいった。小林氏が1990年代後半に参加した(そして後に決別した)「新しい歴史教科書をつくる会」の運動、そしてその流れで発表されベストセラーになった『新・ゴーマニズム宣言 戦争論』シリーズは、団塊ジュニア以下の世代の言論空間に絶大な影響を与えた。いわゆる「ネット保守」「ネット右翼」と呼ばれる層は、その後の2002年、日韓同時開催のワールドカップを契機に活性化し、現代においては一定の集票力を持つ政治勢力と言えるまでに成長している。そして、そのヘイトスピーチや、反社会性がたびたび問題視されるこの「ネトウヨ」のルーツと言われているのが、当時若者たちに絶大な影響力をもっていた小林よしのり氏の活動だっだ。もちろん、小林氏はヘイトスピーチを肯定していないし、するはずもない。むしろ、近年は戦前から続く正統派保守の立場から「ネトウヨ」的なヘイトスピーチ、カルト志向を徹底的に批判し、「ネトウヨ」たちの最大の標的の一人になっているくらいだ。
しかし、いやだからこそ、小林氏は責任を感じているようにも思う。それが間接的な影響であったとしても、そしてそのメッセージが大きく誤解されていたとしても、結果的に自分の仕事が現在の「ネトウヨ」たちに結びついているのなら、自分が先頭に立って批判しなければならない、そんな覚悟のようなものを僕は小林氏から感じるのだ。僕は「ネトウヨ」たちのそれはもちろん、小林氏の語る歴史観や「公」の概念にも同意できないことのほうが多い。実際、僕も「左翼」「リベラル」として(!)何度か氏の批判の対象になったことがあるし、僕が反論を書いたこともある。しかし、それでもこの人の言論人としての、作家としての責任の取り方、時代の引き受け方にはどうしようもなく惹かれている、と言っていい。
当時、小林よしのりという作家は「物語を語れ」と主張していた。