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『刻命館』『カオスシード』
『moon』『たまごっち』
――〝逆RPG〟から転じた
ジャンルの複合と批評的ゲームの勃興
(中川大地の現代ゲーム全史)
☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
2015.2.19 vol.265

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本日のメルマガは月イチ連載『中川大地の現代ゲーム全史』です。今回は、「ドラクエ」「FF」が一世を風靡して以降、90年代後半の「ポストRPG」の時代のゲーム市場の地殻変動を、ソフト・ハードの両面から振り返ります。

 
「中川大地の現代ゲーム全史」
第8章 世紀末ゲームのカンブリア爆発/「次世代」機競争とライトコンテンツ化の諸相
1990年代後半:〈仮想現実の時代〉盛期(7)
 
前回までの連載はこちらのリンクから。
 
 
■〝逆RPG〟として始まったジャンルの複合と究極進化〜『刻命館』と『カオスシード』
 
 大手メーカーが3DCGを用いた大作シリーズのゲームデザインや演出手法を確立していく一方で、中小クラスのディベロッパーが手がける実験的なスタイルの作品も、着々と独自の洗練を重ねていった。
 とりわけ、ひとつの傾向として指摘できるのが、スーファミ時代に爛熟を重ねてRPGやSLGを中心とするゲームジャンルがいったん飽和状態に達したことを前提に、その構造をシステム的・シナリオ的に捉え返すアイディアで複合させたり、批評的なメッセージ性を込めようとする作風である。
 そうした意識がわかりやすく立ち現れているのが、例えばテクモの『刻命館』(1996年)シリーズであろう。そのゲームデザインは、『ウィザードリィ』以降のいわゆる「ハック&スラッシュ」型RPGの構造を引っ繰り返したものである。つまり、冒険者がダンジョンを探索してモンスターを倒したり財宝を探索するという図式を逆さまにし、主人公が直接戦闘はせず「刻命館」に侵入してくる人間たちを捕獲したり狩ったりしていくもので、迷宮の奧で待ち構えるボス側の立場をプレイヤーに体験させるトラップシミュレーションだ。
 システム面の逆転のみならず、王位を簒奪された亡国の王子が人間狩りをすることについての倫理的葛藤の如何によってエンディングが変わるなど、シナリオ的にも捻ったダークファンタジーが展開されることになり、文芸面での成熟性も高められることになる。

 同様のアプローチから、さらなる究極に到達したのが、『仙窟活龍大戦カオスシード』(ネバーランドカンパニー)である。本作は1996年のスーファミ版『カオスシード 〜風水回廊記〜』を初出に、98年にセガサターンに移植されたタイトルだが、人々から「洞仙」という忌まわしい存在と思われている主人公が「仙窟」と呼ばれるダンジョンを構築して侵入者を撃退するという骨格は『刻命館』と同傾向ながら、それに加えて侵入者と戦闘する部分ではアクションRPG、仙窟防衛のユニット運営面ではリアルタイムSLG、さらに対話式にシナリオが分岐していく部分ではテキストAVGの要素など、2D時代の長編ストーリーゲームで考えられる可能なかぎりのゲームデザインをハイブリッドさせた、きわめて複雑高度な作品となった。
 
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▲『仙窟活龍大戦カオスシード』(ネバーランドカンパニー、1998年)
 
 文芸面では、『刻命館』のようにあからさまに偽悪的なダークファンタジーではないものの、『クーロンズ・ゲート』などと同様、風水を基調にした東洋的な意匠による自然観のもつ力を主人公側の立場として採用して、西洋ファンタジー風の勇者や冒険者が敵になるという図式で、一般的なRPG等の逆を衝こうとする世界観が通底している。
 また、シナリオ毎に異なる平行世界に飛ばされるというストーリー展開を通じて、当初の悲劇的な結末を変えていくという、2000年代のサウンドノベルや美少女ゲームで流行していくことになる「ループもの」の構造を、きわめて早い時期に導入していた点も大きな特徴だ。これは、一定のスパンでのプレイの繰り返しを要請される、他の物語メディアとは異なるゲームならではの特性を最大限に活かした作劇手法と言える。2D時代のゲームシステムの究極的な進化を追求した本作の方向性の帰結として、こうした作劇に辿り着いたわけである。
 
 
■〝ゲーム〟を批評しだしたゲーム〜『moon』という前衛
 
 以上の2作は、家庭用ゲームの王道となっていたJ−RPGにおける「勇者と魔王」の図式を、あくまでゲームデザインの範疇の中で攻守を入れ替えるところから発想された例にあたるが、その批評意識をさらに先鋭化させて、「プレイヤーが家庭用ゲームを遊ぶこと」そのものへの問いかけへと結びつけていったタイトルも登場する。
 その最たる例が、ラブデリックの開発したプレイステーション用タイトル『moon』(アスキー 1997年)である。『ドラクエ』風の勇者が町中の家に入りこんでアイテム探しをするという、誰もがRPGのプレイ時に身に覚えのある風景を実写で再現して「おやめください、勇者さま!」と住民に叫ばせ、「もう勇者しない。愛と平和のRPG」と続けるCMでキャッチーに伝えられているとおり、本作の基本的なコンセプトはRPG(のもつ通俗的なプレイイメージ)への風刺にある。
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▲『moon』(アスキー、1997年)
 
 CMで描かれていた風景は、実際のゲームでは、物語の導入部で主人公の少年がプレイする、スーファミ時代の『ドラクエ』『FF』を露悪的に模したようなドット絵表現の「FAKE MOON」と題されたゲーム内ゲームとして表現される。そこで、勇者が悪の魔物を倒しながら宇宙船を手に入れて月に住むラスボスを倒しにいくまでのプロセスがダイジェストして描かれるのだが、「ゲームなんてやめて早く寝なさい」という母親の呼びかけとともに中断しかけたところで、少年がテレビ画面に吸い込まれてゲーム内ゲームの世界に落ちてゆき、姿のない影のような存在となってゲーム本編がスタートする。
 これ以降の本編は、擬似スーファミ風のドット絵ではなく、プレステ本来のポリゴン表現を活かした、童話絵風のキャラクター陣やパペット調のアニマルたちなど、より生命感のあるタッチのグラフィックで描かれた「REAL MOON」の世界として区別される。そこでは、少年が「FAKE MOON」のプレイを通じて操っていた勇者が、実はCMで戯画化されていたように町の住人たちに迷惑をかけていたり、罪のないアニマルたちを殺戮していたという真相が明らかになる。そして、自分の分身である勇者の足跡を追いつつ、その不始末を少年が解消してアニマルの霊を取り戻して蘇らせたり、住民の抱える問題を解決したり心を通わせたりすることで、世界に「ラブ」を取り戻していくというのが、本作の基本概要だ。

 つまりは、プレステ時代になって実現できるようになった、相対的に精細で深みのある質感の視覚表現での〈仮想現実〉世界を「リアル」と位置づけ、スーファミ時代にRPGのゲームシステムの氾濫とルーティーン化・形骸化によってファンタジーを頽廃させてしまった平板で「フェイク」な体験性を批判するという重層的な表現が採られている。
 ただ、それだけであれば、単に視聴覚表現や容量の向上に任せて前時代までになしえた表現のリアリティレベルの低さにツッコミを入れ、〝勇者するRPG〟の暴力性に対して〝愛と平和のRPG〟の牧歌性を称揚する、ゲームの嗜好についてのイデオロギッシュな価値観表明以上のものにはなりえない。
 

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