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「テクネに魂を惹かれて」(落合陽一『魔法の世紀』第7回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.345 ☆
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「テクネに魂を惹かれて」(落合陽一『魔法の世紀』第7回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.345 ☆

2015-06-16 07:00

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    「テクネに魂を惹かれて」
    (落合陽一『魔法の世紀』第7回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.16 vol.345

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    本日はメディアアーティスト・落合陽一さんの好評連載『魔法の世紀』の最新回をお届けします。 GoogleやApple、ジャスコといったプラットフォーマーが生み出す「多様性」の内実とは? そして、パソコン革命が終わった「次の時代」のアート観とはなにかについて原理的に問い直していきます。

    落合陽一『魔法の世紀』これまでの連載はこちらのリンクから。
     
     
    お久しぶりです落合陽一です。6月も半ばになってきました。新緑の季節ですね。
     
    僕の方は東京大学の博士課程を無事に飛び級で卒業、今月から筑波大で研究室を開きました。今はもう研究論文を書いたり、授業やゼミや月一の公開授業(「魔法使いの研究室 vol.1 テーマ:光」 「vol.2 テーマ:映像と物質」)を行う毎日です。
     
    最近、僕は「人間性を捧げる生活をしているんだよね」とよく口にしています。ここでの「人間性を捧げる生活」とは、「健康で文化的な生活を諦める」という意味ですから、さしづめ僕は人権を研究に捧げているのでしょう。
    そんな僕が今回書くのは、魔法の世紀の文化や芸術がどう人間性をアップデートしていけるのかという話です。と言っても、ここでの人間性は、もっと人類の価値観や暮らし、思想、人類に関わること全般を指しているので、ご安心ください。
     
    そもそも有史以来、芸術や文化は、この人間性をどうやって更新するかを目標に存在してきました。そして現在、コンピュータテクノロジーは我々の文化に深く介入しています。ここで重要になるのが、プラットフォームという概念です。というのも、前回の連載で僕は、あらゆるコンテンツはジャスコに吸収されるということを書きましたが、ジャスコとは――コンピュータ文化でこそないものの――プラットフォームそのものだからです。
    このジャスコ的なもの=プラットフォームというコンテンツ吸収装置の前で、どうやったら我々は文化的閉塞感を打開していくことができるのでしょうか。
     
     
    1.Googleに見るジャスコの思想
     
    前回(『魔法の世紀』第6回:早すぎた魔法使いと世界を変えた四人の弟子)、僕はあらゆる機能を包括する「都市」という存在の象徴として、ジャスコを論じました。
    しかし、インターネットにおけるGoogleのようなプラットフォームの存在もまた都市におけるジャスコと同じような振る舞いをしているように思います。というのも、ジャスコは都市に生きる人々の導線を制御して、コンテンツへとデリバリーしていきますが、同様にグーグルもインターネット上のコンテンツにまつわる導線を制御して、あたかもネット上のあらゆるコンテンツを吸収しているかのように振る舞っているからです。
     
    また、Googleのようなプラットフォームの凄いところは、「土台」を共通化することでコストの最小化を実現しながらも、ユーザーがその上で行う活動については最大限の多様性を保証してしまうことです。しかし、これもジャスコに似ています。モールの中にある服もレストランもスーパー銭湯も、どれも小さいコストで多くのニーズに応えられる場所です。
     
    故に、いまやプラットフォームから得られるコンテンツは最適解に近くなっています。言わば、iPhoneやApple Watchを身につけて、OSやハードを共通化しながらもその上のアプリは多様化していくことで、体験の多様化が起きるというわけです。
     
    しかし、ここで立ち止まって考えてみましょう。それは、本当に「多様化」なのでしょうか。
    そもそも、ジャスコでみんながやっているのは、一体どんなことでしょうか。
    結局はシネコンに行って、イオンモールでご飯を食べて帰るという以上のことはしていないようにも見えます。一見して多様化した体験とは言われながらも、その上に乗っている限りにおいては、プラットフォームに規定されたコンテンツ表現の域を出てはいないのです。僕たちは、ジャスコ的なもの、イオンモール的なもの、Google的なものに吸収されていくコンテンツ体験の中にとどまっています。
     
    もちろん、だったら何が問題なのだ……というのもひとつの見解です。規定された枠の中で、その"お作法"を知った上で感動を生み出していく「文脈のゲーム」というのは、昔からある楽しみ方の一つです。
    例えば、週刊少年ジャンプは昔からずっと、漫画の掲載順位を連載の人気順で決めて、王道の漫画をメディアミックスで提供しています。こういうポップカルチャーにおいては、ジャンプのような形での多様性は大事にされてきましたし、ニコニコ動画のようなCGMプラットフォームにおいても、運営が提供する仕組みによるコスト低下と価値観の最大化のもと、民主化された表現が多様に生まれています。
    確かに、既に可能なことが判明したメディアの上で、こういう民主化された多様性を楽しみ合う表現も大事なものです。しかし、表現の定義を、ひいてはメディアの定義そのものを更新していくような運動もまた重要だと思います。今では特に珍しくもない油絵も、映写機の上でのシネマトグラフも、当時は最先端のメディアであり、各々の時代のアーティストたちがその文法を作り上げてきました。
     
    そのことを我々が忘れてしまったのは、油絵や映画のようなメディアの寿命が長かったからです。
    例えば、映画が分かりやすいでしょう。映画は元々トリックアートのような短編映像が作られていたジャンルでしたが、やがてストーリー的な表現手法が混ぜられていくようになっていきました。これは、映画がそのメディアそのものの更新ではなくて、コンテンツの文脈それ自体の更新で自らを定義するようになった歴史といえるでしょう。その果てに生まれたのが、映像表現によるメディアアートでした。
     
    でも、ジャスコやGoogleが問いかけてくるのは、その先にある世界です。
    なぜなら、もはやメディアの上に乗ったコンテンツは、全てプラットフォームの下位存在にしかならない時代だからです。どんなコンテンツも、プラットフォーム上の多様化でしかなく、その下にあるプラットフォームそのものの刷新には何も影響を及ぼせない。プラットフォームを越えようといくらあがいても、僕たちはプラットフォームの一部分にしかなれない――。
    この連載で指摘してきたような、20世紀的な文脈主義のアート観に乗れば乗るほど、アーティストは単なるジャスコやグーグルの一プロバイダに落ちていくのです。しかし、文化とは果たしてそういうものなのでしょうか?
     
    しかも、この連載でも書いてきたように、ニコニコ動画やYouTubeのようなプラットフォームが複数のコミュニティを生成するようになったことで、僕たちの周りにある「文脈」は飽和状態になりました。その結果、僕が関わってきたメディアアートのような、文脈を複雑に練り上げていくアートは見向きもされなくなりました。そして、本来はメディアそれ自体の刷新を目的にしていたメディアアートは、単なる狭いコミュニティの同業者同士の議論の場以上のものでは、なくなってしまったのでした。
     
     
    2.パソコン革命の終わり
     
    さて、このプラットフォームにあらゆるコンテンツが吸収されていく時代に、一つの回答を示してきた企業があります。それが、Apple社です。
     
    Apple社の思想は、パーソナルコンピュータを開発してきた人々――アイバン・サザランドから、アラン・ケイ、そしてスティーブ・ジョブズへと連なっていくような、人間の能力を拡張する「エンパワーメント」の存在としてコンピュータを捉えていく系譜の中にあります。これは、人間を雑事から開放しようとコンピュータを使い、現在では人工知能へと接近しているグーグルとは異なる系譜の思想にあります。黎明期のコンピュータ史を見れば分かるように、思想として見たときにパソコンの思想と人工知能の思想は、実は似て非なるものです。
    実際、スティーブ・ジョブズはAppleの目指すコンピュータを聞かれて、「人にとっての自転車のようなものを目指す、早く走れたり遠くに行けたりするための道具」と回答しています。人間の身体的特徴や知的能力、表現の自由をコンピュータでいかに拡張していくか――これこそが、パーソナルコンピュータの開発者たちの思想なのです。
     
    そして、彼らのこの姿勢は連載で論じてきたような、コンテクストに依存しない、原理主義的な感動をハードウェアにおいて与えて、人間の新たな可能性を発見していく一つの事例になっているように思います。
    ところが、アップルのCM映像を見れば分かりますが、彼らはこれを20世紀後半のヒューマニズムの文脈で捉えようとしています。その結果、そこに流れる映像はスピリチュアル系のようなものになっています。それは本当に豊かな精神性の獲得といえるのでしょうか?
     
    いくらアップルが「お前らしくあれ」「Think different」と呼びかけても、結局はプラットフォームの上に乗せられたアプリで体験できることには限りがあります。Apple WatchもiPhoneも結局のところ、昔からある営みの中に収まる体験がほとんどなのが良い例です。それを彼らは、自身の出自であるカリフォルニアンイデオロギーから来たスピリチュアルな文脈によって正当化しようとしているようにも見えます。
    しかし、それは彼らがモノのちからを信じきれなくなりつつあるから、とも言えはしないでしょうか。ハードウェアによる原理的な体験の更新を志向していたはずのAppleが、文脈主義的なブランド戦略に傾いてしまっている――そんなようにも思えるのです。
     
    Macという素晴らしいデバイスを使うことは、本来は人間の個性を浮き彫りにして、根本的に人間性を拡張するはずでした。しかし、現状ではせいぜいリンゴマークのそばに貼られたシールの数という程度にしか、ユーザーの間には違いがありません。
    実際、ジョブズの死後に出たApple Watchを僕は3章で好意的に取り上げましたが、あのデバイスが実際に出てきて明らかになったのは、むしろAppleがテクノロジーによる人間のエンパワーメントを諦めて、ブランド戦略に向かったということでした。
    それは、Mac、iPhoneと、パーソナルコンピュータの革命を先導してきたApple社が告げた、革命の時代の終わりだったようにも思います。今や人々にGUIのユーザーインターフェイスは浸透して、開発のためのプラットフォームも行き渡りました。その時代に、Apple Watch程度のハードウェアの革新では、人間性のアップデートにつながるほどのインパクトは持てなかったのだと思います。
    とすれば、この「Apple以後」の世界において、僕たちアーティストはどうやって自らを刷新していけばいいのでしょうか? 
     
    僕はここで再びデジタルカルチャーの大元に戻りたいと思うのです。それは、マウスの発明者であり、ハイパーテキストなどの生みの親であるダグラス・エンゲルバートです。彼は、マウスの発明について聞かれたときに、以下のように答えました。
     
    Mouse was a tiny step of larger project aimed at augmenting human intellect.
    ――マウスは人間の知性を拡張するためのもっと大きなプロジェクトにおける小さな一歩にすぎなかった。
     
    彼にとって、マウスは単なる操作しやすいユーザーインターフェースの発明ではなかったのです。彼は、人間の知性をコンピュータでいかに拡張していくかという発想から、それを生み出しました。コンピュータは、他の自動車や自転車や冷蔵庫のような装置や単なる道具ではない――そういう確信が、エンゲルバートにはあったのです。
     

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