「自分」とは何か?
何よりも「自慢」は嫌われるのに、人は自慢をしたくなる。
少し前に、松本人志がラジオで「宮迫は嫌いやねん」と、話していたのを聞いた。
宮迫の何が嫌いかと言うと、なんだかんだ言って最後は必ず「自分の自慢話」をしたがるからだと言うのだ。
関係ない話を巧妙に繋げつつ、最後には必ず「俺ってすごいんですわ」という話で終わるらしい。
彼はいつも「もっと自分を誉めてくれ」と言っているから、それがうっとうしいのだと松本は言っている。
なんともありがちな話だけど、この話。宮迫の気持ちもわからなくはない。
どこか自分に自信がなくて、不安を抱えているから「お前はすごいで」と、尊敬する先輩に言ってもらいたいのだと思う。
反対に「大先輩」が後輩に「俺ってすごいんやで」と言っているケースも多く見られる。
後輩からすると、そんな時間は苦行でしかないのだけれど、この「大先輩」もまた「自分」の社会的評価に不安を感じていたりするのだと思う。
一方で、細野晴臣さんのトークを聞いていると、そういう「自分はすごいんだ」という話はまずもって出てこない。
すごい事をして来たことすら「どうでもいい」か「忘れちゃったんだよ」みたいに言っている。
細野さんのラジオでは何回も、ゲストの人が「細野さんそれすごいことなんですよ!」なんて逆に言っている。
こういう人には本当に憧れる。
僕はどちらかと言えば、かつては「宮迫側」の人間だったと思う。
「自分」を世間に認めて欲しいし、やたらに自信はあるのだけど、その反面とにかく不安だった。
「自分はすごいんだ」と、自分で言うのはかっこ悪いので、意識して避けるようにしてきたつもりだけど、そんなもの周囲にはバレていたに決まっている。
まあどんな人にでも「自慢の要素」は会話に入っているものだし、「卑屈の要素」よりはマシだとは思うけど、問題はバランスだ。
特に自分は優位な立場なんかにいる時は危ない。
そもそも先輩が後輩に(漫画家がアシスタントや編集者に)何かを自慢して「すごいっすね」なんて言われている姿は、とにかくみっともない。
力関係で言わせているだけだから、完全に「裸の王様」だ。
後になってジワジワと「なんてみっともない自慢をしていたんだ・・」なんて気がつけばまだ良い方で、いい年していつまでも自慢ばかりしている人も多い。
先輩の自慢話にはうんざりしていたのに、自分が先輩になると同じ事をしている。
僕はそんな事に気づいてから、そんな「自慢」を制御するようにしたけれど、これがどうにも難しい。
そんなの当たり前だ。
他者からの「すごいね」は、自分の不安を減らして、気持ちを前向きにしてくれる「魔法」なのだ。
がんばって「結果」が出た時くらいは賞賛されたい。
いいことがあった時なんかも、それを共感して欲しくて周りが見えなくなりがちだ。
だからこそ「自慢される側」の気持ちを想像する事は、とにかく重要だ。
彼女ができなくて毎年寂しいクリスマスを耐えてる友人に「自分の恋人がいかに可愛いか」なんて自慢はしてはいけないのだ。
女の子の中には「同性の敵が多い人」ってのがいるけど、敵を作っている原因の多くが、この「相手の気持ちを考えないで自慢してる」行為にあると思う。
「彼がくれるプレゼントはいつもセンスがないのよ」なんて愚痴を、彼氏ができたことがない女友達にしている人がいる。
これは敵が増えても仕方ないだろう。「言葉の残酷さ」に気づいてないのだ。
どうにも面倒くさい話なんだけど、誰にだって「自慢衝動」はあると思う。
大好きだった有名人から電話がきたりした時なんかは、僕も抑えられなくなる。
仕方ないので、10年位前から僕は「ごめん、自慢させて!」と、先に謝ってから報告していた。
聞き役のアシスタントは、決まって島根出身で人あたりの良い「山田裕太」だった。
彼は些細なことで幸せを感じる才能があって、根に持たないタイプの人だ。
「くそー・・それにくらべて俺なんか・・・」みたいな回路にいかない人なのだ。
今は中国人の彼女と結婚して、その事を漫画で描いているので見て欲しい。
それはともかく、この話には続きがある。
僕は「そんな事ばっかり意識しているみっともなさ」にも気づくのだ。
慣れてくると大抵の人は、相手の自慢を聞いてあげた分だけ、自分の自慢を聞いてもらう「バランス感覚」を身につけるものなのだ。