評論家を評論すると見えてくるものとは?
「映画を観に行く楽しみ」とは何だろう。
改めて考えてみると、わざわざ映画館まで行って、1800円も出して、一次停止も私語も許されない空間にわざわざ約2時間もいるのは、やはり「特別な何か」を体験できるからだろう。
1人で行く映画も気楽でいいけれど、やはり映画鑑賞の醍醐味は「誰か」と一緒に行くことだと思う。
観た後に膨れ上がった「どうしたらいいかわからない気持ち」をお互いにぶつけ合って盛り上がるのはやっぱり楽しい。
それが期待を裏切った「最低の映画」でも「あれはひでえな」と言って一緒に笑えば、そこそこ「モト」は取れるし、自分の気が付かなかった部分を指摘されて「実は案外いい映画かも」なんてことになるのもいい。
好きな人と一緒の映画鑑賞もいいけど、映画に詳しい人との映画鑑賞もまた格別だ。
同じ映画を見ても、その背景や演出の工夫、関連作品の話などだけでも「得した気分」になれる。
やっぱり「詳しい人」がいると同じ体験でも、より深く味わえるもので、そこに「映画評論家」のニーズがあるわけだ。
最近特に「映画評論家」なるものがもてはやされている裏には、人々の好みが細分化して「みんなで観る映画」が少なくなったのと、ネット環境の変化により「過去の映画」が気楽に観ることができる時代になったからかもしれない。
「その時代」に乗り遅れても、後からは観られる。
そうなると、同時に「解説や分析」も欲しくなる。
外食先で美味しい料理に出会った時に、そのメニューのレシピを知りたいと思う人がいるように、映画も「この映画はいったいどんな人がどうやって作ったのだろう?」なんて思うタイプの人が一定数いるのだと思う。
「そんなもん、ただ観て感じるだけでいいんだよ」と言う人もいるけど、それじゃ面白くないのだ。
「恋した相手のことを徹底的に知りたい」みたいな気分にも似ているのかもしれない。
映画評論家になってしまうような人は、溢れる恋心を抑えきれずに、自分でその情報集めや分析をしてしまうタイプの人だろう。
そんなわけで、今週ほ公式放送のネタが暗めなので、何か面白い企画はできないか、と思って考えたのが「映画評論家を評論してみよう」という企画だった。
普段誰かの作った作品を評価している人を、逆に評価してやる、という企画なので、これは面白くなるに決まってる。
ところがである。
この企画、考えてみるほどに難しい企画であることがわかった。
僕は各評論家の「メソッド」を分析するつもりだったのだけれど、それを伝えるためには、どうしても「その人が抱えているモノの歴史」を語らなければ伝わらないのだ。
そしてわかったのが、それぞれの評論家の人が「越えてきたもの」の大きさと「複雑さ」だった。