その昔から、神戸で肥育してないのに何故、「神戸牛」な訳よ、と疑問を抱いていました。1981年=昭和56年に「an・an」の特集で神戸を訪れた頃から。
 これまた、のっけから脱線すると(まっ、それが当ブロマガの魅力と申しますか、売りでもあるのですがw)創刊は1970年=昭和45年の3月ですから、日本万国博覧会=大阪万博の年なんですね。
「人類の進歩と調和=Progress and Harmony for Mankind」大阪万博で物議を醸(かも)した岡本太郎画伯の「太陽の塔」は今にして思えば、まさに優れた芸術家は凡百の“政事屋w”や“傾営屋w”と異なり、文明や歴史に対する洞察力と直感力の持ち主なのだ、と証明しています。
 僕が好んで用いる惹句で表現すれば、「科学を信じて・技術を疑わず」と誰もが思い込んでいた時代の博覧会で既に、「科学を用いて・技術を超える」心智を抱かねば「未来」は未来たり得ない、と警句を発していたのが「太陽の塔」な訳ですから。
過去の遺産にもならぬ大阪万博の「違算」というか「太田胃散」を引っ提げて大阪の行政に巣くう池口小太郎=堺屋太一なる御仁とは大違いですなぁ。

話を戻せば、創刊当初はマガジンハウスならぬ清水達夫氏が率いる平凡出版の時代。月2回刊。9年後の1979年5月に月3回刊。更に1981年8月に毎週金曜発売(現在は水曜発売)と週刊化しています。
学生時代から僕が謦咳(けいがい)に接していた清水氏との邂逅を詳述したい衝動に駆られますが、それは余りに紙幅を要するので、申し訳ない、回を改めるとして、ポートピア=神戸ポートアイランド博覧会が開催中の神戸を「an・an」で特集するべく、1週間近く滞在したのが1981年です。
 その後、「1985年夏季ユニバーシアード」で、六甲山麓を更に切り崩す「山、海へ行く」を実施中の須磨区へも「POPEYE」の特集で足を踏み入れ、改めて「神戸牛」は一体、何処で肥育しているのだ、と疑問を抱いたのですね。
 これまた余談ながら、ユニバーシアードで掲げたのが「友好と平和」。
まあ、106カ国から4千人を超える学生が集ったのだそうで、当然の助動詞“べし”的にそうした惹句を冠したのでしょうが、今にして思うと、北朝鮮のマスゲーム大会でも掲げそうで、少し寒い。
 ポートピアの時も、「新しい“海の文化都市”の創造」がメインテーマで、「魅力ある未来都市」「21世紀の港とくらし」「広場としての太平洋」「手をつなごう世界のふるさと」の4本がサブテーマ。これはこれで、「1・17」で露見した「山、海へ行く」と大言壮語していた「未来都市」の脆弱(ぜいじゃく)性を暗示しているとも言え、深いですね。

 まあ、1981年から1985年の間や、その後も、東京から運転して、或いは伊丹=大阪国際空港からレンタカーで、神戸の中心街に留まらず、夙川(しゅくがわ)や芦屋や御影(みかげ)へと、往時、交際中の相手とお出掛けしていた訳です。地図無しでも難なく「阪神間」を運転出来る程に熟知するに至り、その「成果」を活かして、50ccバイクで被災地を駆け巡る支援へと展開していきます。
 「神戸空港建設の是非を問う住民投票」で、ウルトラ無党派層の皆さんと一緒に「神戸市民投票を実現する会」を結成し、30万人を超える有権者が署名・捺印、若しくは署名・拇印したのは1998年。
それまで足を踏み入れた経験も無かった北区や西区に象徴される六甲山系の裏側や西側へも繁く出掛ける中で、「疑問」は確信へと変化しました。何故って、神戸市内で肉牛を肥育しているのは僅か数軒だったのです。
 にも拘らず、百貨店の地階では「神戸牛」を名乗って販売されているって「原産地『偽』呼称」じゃないの? せめて兵庫牛とか淡路牛とか丹波(たんば)牛、但馬(たじま)牛を名乗るならばいざ知らず。

 それが、「長野県原産地呼称管理制度」の創設に繋がる訳です。


生産情報の開示による品質の高い農作物及び農産物加工品を提供するために、長野県が始めた制度。2002年(平成14年)10月2日に創設した。
ワイン、日本酒、米、焼酎、シードル(制定順)の5品目を運用している。

と記された「ウィキペディア」には「当時の県知事だった田中康夫が提唱して2002年10月2日に創設」、ってな記述は何故か1行も記されていませんがw、当時の長野県庁ホームページの「魚拓=バナーサイト」を改めて確認してみると、

長野県では、従来の生産振興中心の農業施策から一歩踏み出し、消費市場にターゲットを定めた独自のマーケティング戦略を推進し、信州農産物のブランド確立等を図ることを目的として、平成13年度(2001年)から、玉村豊男氏及び田崎真也氏を「あぐり指南役」にお願いし、「信州農産物マーケティング戦略推進プロジェクト」に取り組んでいます。 

という展開だったんですね。
 知事に就任したのが2000年=平成12年10月ですから、早くも翌年には「原産地呼称管理制度」の創設に向けて具体的に動き出しています。
「ソムリエに訊け」の共著を1993年にTBSブリタニカ・現在の阪急コミュニケーションズから上梓(その後、1998年に文庫化)していた田崎真也氏と、上京の折に打ち合わせを重ねた記憶も、う~む、甦(よみがえ)ってきましたw。
 確か、2001年に両名を「あぐり指南役」に任命した際も、田崎氏は世界的に著名なソムリエかも知らんが県外の人間をどうして起用する。玉村氏も東部町(現在の東御市)で葡萄畑を始めたか知らんが、元々は“よそ者”じゃろうに、と県議会の皆々様が「嫌疑塊」w状態な反応を示したのも、今は懐かしい想い出ですねw。
 ともあれ、2002年=平成14年は知事不信任決議が7月5日に可決し、出直し知事選が「敗戦記念日」の8月15日告示・関東大震災の9月1日投票で実施されています。その間も有り難くも有為(ゆうい)な担当職員が着々と準備を進めてくれていた、って訳です。感謝ですね。


ここで今一度、復讐じゃなかった復習としておきましょう。

田中康夫長野県知事不信任決議

 田中康夫知事は、就任以来、「長野モデル」の発信と称して、県民の生命や財産を守ることよりも自己の理念の実現を優先させ、市町村長や県議会との合意形成を軽んじる一方、理念を同じくする一部の意見のみを重んじ、独善的で稚拙ともいえる政治手法により県政の停滞と混乱を招き、多くの県民の期待を裏切る結果となった。
 この責任は極めて重大であり、誠に遺憾の極みである。
 よって、本県議会は、田中康夫長野県知事を信任しない。
 以上のとおり決議する。
平成14年7月5日 長野県議会

そぉかぁ、「長野モデル」として、
「従来の生産振興中心の農業施策から一歩踏み出し、消費市場にターゲットを定めた独自のマーケティング戦略を推進し、信州農産物のブランド確立等を図る」「信州農産物マーケティング戦略推進プロジェクト」
なあんて企てをされては、既得権益集団は不都合だった訳ですね。
 葡萄酒を造っている県内の生産者をランク付けするなんて失礼千万だ、と本会議で口角泡を飛ばして質問を受けた記憶も甦ってきましたw。でもね、確か質問した議員は常日頃は、日教組が主導した戦後の悪平等教育を打破せねば、と叫んでいた人物で、ありゃま、矛盾してな~ぃ?と議場で微苦笑を禁じ得なかった記憶も。
 もう少し再録を続けると、

 平成14年10月2日に、より高い品質の農産物及び農産物加工品を提供していくことで生産情報を消費者へ開示し、消費者の信頼を得ながら地域の振興を図ることを目的とした「長野県原産地呼称管理制度」を創設しました。まず、平成14年度にワインと日本酒から制度をスタートし、続いて平成15年度に米、平成16年度に焼酎の制度をスタートしました。
 この制度では、農産物の原料や栽培方法、飼育方法、味覚による区別化を行い「長野県で生産・製造されたもの」を自信と責任を持って消費者にアピール、消費者の信頼を得ながら生産者の生産意欲を更に醸成し、長野県産農産物のブランド化を目指しています。
 ワインと日本酒に関して、初回の認定審査会を2003年=平成15年4月15日に開催しています。

 猶、
をクリックすると、
「長野県非公式ホームページ」と銘打って、「これまでの田中県政に関する長野県のホームページデータ抜粋」をアップしているサイトへ入れます。色々と面白いので、お暇な方はどうぞ。
更に、この冒頭にリンクを張った
は、碩学・宇沢弘文氏を恐れ多くも起用して策定した「未来への提言 ~コモンズから始まる、信州ルネッサンス革命~」の全文78頁を閲覧可能です。

 で、話はバビュ~ンと、「何故、福島県沖合で採れたズワイガニが『金沢市や富山市などに出荷することにしています』なのかな?」と御紹介したNHK福島放送局の「スクープ」へとジャンプします。

試験操業ことし初水揚げ

原発事故の影響で自粛が続く漁の再開を目指し、相馬市沖でことし初めてとなる試験的な漁が行われ、震災後では初めとなるズワイガニをはじめ2トンあまりが水揚げされました。
福島県沖の試験的な漁は、相馬市の沖合を中心とした水深150メートル以上の海域でタコやイカ、カレイなど13種類の魚種を対象に去年の6月から行われています。ことし初めての出漁となる16日は、未明に出発した20隻の漁船が午後2時半ごろから、次々に相馬市の松川浦漁港に戻りました。港では、震災後では初めてとなるズワイガニ450キロをはじめ、5種類の魚介あわせて2トンあまりが水揚げされ、隣接する市場では地元の漁協などの職員が、カニを大きさごとに分けて重さを量るなど2年ぶりの冬の味覚の水揚げに活気づいていました。
県によりますと、震災前、松川浦漁港でのズワイガニの水揚げは年間およそ200トンと、太平洋側の港では全国で最も多く、首都圏や北陸地方での需要もあったということで、漁協では16日に水揚げされたカニを放射性物質の検査をしたうえで、金沢市や富山市などに出荷することにしています。相馬双葉漁協の南部房幸組合長は「震災と原発事故から2年が過ぎようとしているが、本格的な操業を目指してあきらめずに取り組んでいきたい」と話していました。

01月16日 23時09分 NHK福島放送局

一読して思ったのは、「関さば・関あじ」と「岬(はな)あじ」の事例と異なり、明らかに「原産地『偽』呼称」でしょ。

御存知、大分県大分市(旧佐賀関町)の関崎と愛媛県伊方町(旧三崎町)の佐田岬によって挟まれる豊予(ほうよ)海峡で漁獲されるのが「関さば」。
但し現在は、佐賀関で水揚げされる「さば」「あじ」のみが関さば、関あじを名乗れる訳ですね。

高級ブランドとしての認知が高まるにつれ、関あじ・関さばの偽物が出回るようになった。このため、佐賀関町漁協(現大分県漁業協同組合佐賀関支店)では、関あじ・関さばの商標を出願し、1996年に水産品として全国初となる商標登録が認められた。そして、出荷する関あじ・関さばの尾に一匹ずつタグシールを付け、関あじ・関さば料理を提供している全国の料理店には特約加盟店の看板を掲示する等、ブランドの保護・育成に努めている。また、2006年10月には、地域団体商標(地域ブランド)の第1弾として関あじが登録されている。
豊後水道の対岸にある愛媛県佐田岬で採れ、三崎漁港に直送されるあじは、岬(はな)あじと呼ばれ、三崎漁業協同組合が商標登録している。関あじと岬あじは、魚自体は同じものだが、面買いや活けじめといった取り扱いの厳格な管理と相まって品質が高く評価され、全国的にブランドが浸透している関あじに比べ、岬あじは安価で取引される。

まあ、同じ漁場で捕獲されるのに名前が違うだけで値段が違うのはどうよ、という違和感を抱かぬ訳ではありませんが、企業努力というか創業者利益みたいなもんですね。
「ブランド」という付加価値の話に関しては、VANジャケットの石津謙介氏の逸話を記し、「長野県原産地呼称管理制度」にも言及した「週刊SPA!」連載「その『物語』、の物語。」77回目の「『標章=ブランド』云々を超越した神戸牛ステーキの至福 みやす
PDF⇒
で詳述しています。

又しても話を戻すと、福島県相馬市の松川浦漁港に水揚げされた「ズワイガニ」が何故、遠路遙々、金沢市や富山市に出荷されるのか?
ズワイガニはケセンガニ科に属し、マツバガニはオウギガニ科に属すると“物の本”には記されていますが、一転、「松葉ガニ」はズワイガニの地域ブランド名。詰まりは、「関あじ」同様に、水揚げした場所で決定。同じく「越前ガニ」もズワイガニの地域ブランド名。ややこしい。
 実にややこしい。が、少なくとも太平洋側で漁獲されたズワイガニが、日本海側で漁獲された訳でもないのに「松葉ガニ」や「越前ガニ」の標章を冠して販売されたら、これは「原産地『偽』呼称」です。

 加えて、東京電力が「健気(けなげ)」?にも1月18日に公表した以下の事実も勘案したなら、真っ青な話でしょ。
 時事通信社の配信記事を転載した「最大濃度の汚染魚捕獲=第1原発港で、セシウム基準2540倍-東電」と題する「ウォール・ストリート

東京電力は18日、福島第1原発の港で捕獲した魚「ムラソイ」から、1キロ当たり25万4000ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表した。魚では過去最大で、国の食品基準値の2540倍。1キロ食べた場合、内部被ばく線量は4ミリシーベルトという。
 東電によると、港は第1原発の東側にあり、海水や海底の土は汚染の度合いが高い。外側の海と仕切られていないため魚が自由に出入りできる状況で、東電は仕切り網の設置や魚の駆除を行う。 

「福島第1原発の港」は「第1原発の東側にあり」「東電は仕切り網の設置や魚の駆除を行う」と“お貸し下げ情報”を「誤送船団・忌捨クラブ」は各メディア共に「報じ」ています。
東京電力のホームページには、
ムラソイの写真

「魚介類の核種分析結果<福島第一原子力発電所20km圏内海域」全10頁
がアップされています。
 件の数値は9頁目に掲載されていますが、1頁目の最初に記されている「太田川沖合1km付近」で捕獲されたクロソイも基準値の4.8倍。2番目のコモンカスベも1.84倍。
 1頁目の下から2番目の「小高区沖合3km付近」で捕獲されたケムシカジカは2.21倍。コモンカスベも1.18倍です。小高区は南相馬市の地名。ズワイガニが水揚げされた松川浦漁港は北側の相馬市。
 イタイイタイ病や水俣病の悲劇は再来しないのか、と僕は警告を発してきました。

一昨年12月8日「国会事故調」
昨年1月27日「本会議代表質問」

福島第一原子力発電所港湾内魚類対策の概略工程(案)
もアップされていますが、なもの抜本的解決にはならんでしょ。
繰り返し申し上げているように、「無色・透明・無臭の放射能は煮ても焼いても流しても半永久的に消え去らない厄介な存在」なのですから。
誤解無き様に申し上げておけば、僕は目を吊り上げて物申すイデオロギー的原理主義の脱原発派、とは一線を画している心算(つもり)です(苦笑)。
が、この件の続報も流れぬ奇っ怪さというか鈍感さというか腑抜け振りには切歯扼腕しています。
「目に見える形」で水俣病を上回る惨状が続出してから、「だから、言わんこっちゃない!」と言ってみた所で詮方ないのです。

(2013/1/21)