皿うどんボンバーさん のコメント
このコメントは以下の記事についています
(号外 2018.6.12発行) 【目次】
1. ゴーマニズム宣言・第280回「水着審査をなくすミス・アメリカ」
2. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第84回「芸術家と偏執性~ハンス・ベルメール編」
第280回「水着審査をなくすミス・アメリカ」 ミス・アメリカが水着審査を止めるそうだ。
その上、イブニングガウンの審査も止めるそうだ。
これを聞いて、瞬間的に 「馬鹿馬鹿しい。そんなものを誰が見るか!」
と思わない男がいるのだろうか?
イデオロギーとしてのフェミニズムに嵌った偽善者ならば、おのれの性的欲求を押し隠して、 「水着審査はセクハラだ―――!」 と叫ぶのかもしれない。
人間の煩悩を断ち切った禅僧のような男なら、 「水着は見たくありませぬ」 と無表情で言えるのかもしれない。
わしはセクハラは嫌いだし、やることもない。イデオロギー抜きでわしは「フェミニスト」だと自認しているし、その手前で「紳士的でありたい」と思っている男ではある。
だが一生、性欲を葬れそうにない煩悩まみれの男でもあるから、「水着審査をなくす」という「設計主義的」な流れには、不快感100%になるのである。
ミス・アメリカは1921年に第1回大会が開かれた、米国を代表するミスコンテストであり、世界で初めて水着審査を導入したミスコンともいわれる。
その主催団体、ミス・アメリカ機構が5日、公式サイトやSNSで、水着審査を廃止することを発表した。
同機構の理事長で、自身も1989年のミス・アメリカ優勝者であるグレッチェン・カールソンはTVのニュース番組で、 「ミス・アメリカはもはや美人コンテストではありません。(単なる)コンテストです。今後は出場者を容姿で審査しません。えぇ、大きな決断ですよ」 と語り、今後の審査基準は 「社会に影響をもたらす取り組みについて自分の言葉で何を語るか」 だと表明した。
水着審査の代わりに、出場者には情熱や知性、ミス・アメリカの役割に対する考えについて審査員からの質問に答えてもらい、判断材料とするらしい。
頭がおかしい!
単なるコンテストって、何のコンテストなんだ?
とにかく立派な人を選ぶ、ただし容姿だけは決して判断材料にしないというのか?
だったら、頭巾でもかぶって顔を隠せ!
いや、それではまだ体形がわかるから、いっそのこと全員にブルカを着せろ!
社会貢献について語る内容を審査基準にするって、それは「弁論コンクール」じゃないか。
だったらもう、ミス・アメリカはブルカを着せた「青年の主張」にしてしまえ!
もう24年前の話になるが、堺市の女性団体が 「ミスコンは女性差別の集大成」 だと言い出し、各地のミスコンが次々に中止に追い込まれたことがある。
わしはこれを「SPA!」の『ゴーマニズム宣言』で、以下のように徹底批判した。
わしは「美」も才能だと思っている。美人は天才なのだ。
人は努力に関係なく、生まれつきのものを与えられる場合がある。
絵を描く才能、曲を作る才能、速く走る才能、知識を吸収する才能、笑わせる才能、肉体で戦う才能、美しさで人の目を楽しませる才能。
これらのどれもこれもがまず才能ありき! それから努力で磨きをかけていくものである。
頭のいいやつはちゃんと受験という学力コンテストを受けて世の中に認められていくが、「東大の入試は頭脳差別の集大成だ!」…と言って抗議するやつはいない。
(ミスコン反対論者が、人を外見で判断するな、「大切なのは人柄よ」と主張しているが、)何が「大切なのは人柄よ」だ!
モーツァルトに向かって「大切なのは人柄よ」なんて言って曲を認めないというのか? 音楽家にとって大切なのは曲の質だ! 美人にとって大切なのは顔とプロポーション。人柄など関係ない!
最近ではおそるおそるやってるミスコンなんか「うちでは教養とか礼儀、性格も見てます」なんてバカなこと言っとるが…
それだともう人間コンテストになって、総合的に質の良い人間と質の悪い人間に分けるという、おそるべき差別を犯してしまうぞ!
美だけ! あくまで美だけで競うから良いのだ。
この資本主義の中で人はいろんなものを消費されて生きてゆく。
漫画を描く才能を…球を蹴る才能を…ブスであること、ブ男であることを消費されるやつまでおる。
なんで「美」だけは消費させてはいかんとのたまう?
差別だ! 美の才能だけはこの世で認めんという才能差別だ!
人は誰しも己に与えられた天賦の才能を利用していく権利があるはずだ。
これは人権侵害である!
美は才能。美人は天才。顔とプロポーションを品評するミスコンは女性差別ではない!
いま見ても、完璧な論理だ。
当時、「この見解にきちんと理屈で返答してくれ」とミスコン反対論者を挑発したのだが、これにきちんと返答してきたものは今に至るも皆無である。そして、ミスコンバッシングの嵐も、なし崩し的に消えていった。
ところが24年経ったら、ミス・アメリカが美人コンテストを止め、今後は外見で判断しない「人間コンテスト」にするという、冗談みたいな事態が出現してしまったのである。
さすが「禁酒法」まで生んだお国柄は、21世紀に入っても変わらないものなのだなあと言いたいところだが、何でもかんでも「アメリカについて行け」がお国柄みたいになっている日本は大丈夫なのか? と思ってしまう。
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
お疲れ様です。
「ゴー宣」読みました。
最近、ゴー宣読者の友人と、過去のゴー宣シリーズについて
「あれは凄かった!」「20年以上経っているのに今の時世を予言しているかのような内容が凄い!」というような話をすることがあったのですが、
「ミス・アメリカが水着審査を無くす」というニュースを知った時に、
過去のゴー宣シリーズの、今週のライジングでも取り上げられている話が私も脳裏に過りました。
確か、教条的フェミニズムのおばちゃん達が、男性のイチモツに物差し(定規)を当てて測ってやろう、
ミスコンで審査員の男共が女性に対してやっていることは、そういうことなんだ!
みたいな、変な歌みたいなのに合わせて主張している図が狂っていて滑稽だったのを思い出します。
あくまで「美だけ」で競うミスコンやイケメンの審査がダメだっていうのなら、
他にも「漫画の才能だけで」競う漫画賞や、「歌唱力だけで」競う歌のコンテストや、
「大食いの実力だけで」競う大食いコンテストや・・・様々なものが極論、ダメになってくる筈です。
何故、ミスコンだけが槍玉に挙げられるのか・・・いや、
「禁酒法」を生んだことがある「お国柄」ですし、
これが過剰なポリコレの行きつく先の一つの現れだということだと思います。
そして「反リベラルのマグマとなって、いつか爆発する時が来る」・・・という、
よしりん辻説法での小林先生の予言が当たって欲しくないのですが、
当たってしまいそうな恐ろしさがあります。
左派の自虐史観が世を席巻していた時代から、
ネトウヨ本が売れて、ネトウヨ系まとめサイトがアクセス数を伸ばす時代になってしまったという現実があります。
極端から極端に振り切れてしまう恐ろしさがあるのが、今の日本だと思います。
過剰なポリコレが全体主義化していけば、その反動がやってきてしまうと思います。
現に、5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)は侮蔑のスラングが普通に飛び交い、感覚が麻痺して、
差別の温床のようになっていっていると思います。
ネトウヨ系まとめサイトも、SNSを利用する人がリンクを貼ったりすることが多いので、
その入り口に普通になっていっていると思います。
年配層だってそうです。
自称保守論壇誌を頻繁に読む年配層の情報源は、5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)と似たような劣化した情報になっていますし、
50~60代の高齢のネトウヨ層も形成されつつあるようです(ネットで情報に触れた際の警戒心が、若者よりも希薄な人が多いのかも・・・)。
その一方で左派・自称リベラルはどうなのかというと、
あまり変わらないというか、同じような蛸壺化を辿っているので、
そこからまた極端に振り切れる人達が出て来ると思います。
右派も左派も、大きくバランスを欠いていると思います。
というか、どうして、どっちかにしかポジション取りが出来ないのでしょうか。
小林先生がギャグ漫画を描く時の精神のバランスの話をされていたゴー宣のエピソードが印象的でした。
常識の柱に命綱をつけて、そこからどれだけ飛べるか、という話だったと思います。
右に左に、極端から極端にブレる「大衆」は、常識の柱がグラグラしているのだと思います。
その常識の柱とは、自らの生活の現場に根差した柱だと思います。
共同体の繋がりから断ち切られてしまった者が、獣性を染み出し、殺人鬼や犯罪者になっていくということとも繋がりがあると思います。
最後のごーまんにあった、「男女平等」イデオロギーの危険性も、そのあたりにあるのだと思いました。
「トンデモ見聞録」読みました。
日本の人形文化というのは、確かにありますね。
リカちゃん人形とか、男の子の玩具の人形とかにも、その文化の影響が色濃くあると思いました。
「新八犬伝」「真田十勇士」「三国志」などのNHK人形劇は大好きでした。
私の世代ですと「紅孔雀」とか「新諸国物語 笛吹童子」とか「ひげよさらば」とか「プリンプリン物語」とか「地球防衛軍テラホークス」とかありました。
「サンダーバード」も再放送で見ていました。民放だと「Xボンバー」とか好きでした。
「球体関節人形」については、ヒーローもののフィギュアとかは好きで幾つか持っています。
他の人形についても、詳しくはないのですが、浅い知識としては知っていました。
私の個人的な趣味嗜好の話ばかりでスミマセン(汗)。
「ハンス・ベルメール」については、詳しく知りませんでした。
画像を見て、ギョッとしてしまいましたが、
しかし、物凄く背徳の気持ちがある一方で、そこに畏怖と共に不思議なものを感じてしまう自分も一方ではいました。
また、ベルメールがこうした作品を生み出すに至った背景を、泉美先生の文章で知って、
狂気の表現の奥に潜む「深さ」の一端のようなものを感じました。
こういう、人間の狂気をえぐってみせる表現を、悪しき表現として規制して、
それが最後にいきつくところに、のっぺりとした、表面上は誰も傷つかない(ようにみせた)ディストピアに世が変わっていってしまうことが恐ろしいです。
内面の自由を縛る「共謀罪」と共に、
過剰なポリコレに対する警戒心も持ち続けることが重要だと改めて思いました。
泉美先生の連載に、再び「お笑い砂金すくい」みたいな連載(「小説・わたくしの人たち」のような)が出来るようになることを密かに希望しつつ、
しかし、表現・芸術・芸術家の内面を抉ることで、人間の深淵に迫るような今回のような話も好きなので、
また楽しみにしております。
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