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皿うどんボンバーさん のコメント

私も、ゴー宣道場で取り上げられている読者の方々のブログを読むと、
勉強になることが多いです。
「とても自分には書けないことだなあ」と思う一方で、
小林先生の数々の作品や、小林先生と泉美先生の記事が読めるライジングや、
他師範の方々の本、ブログ記事、
或いは道場に纏わる記事など、
読者の方々の感想を読めることが楽しいです。

私がライジングを購読するようになったのも、
ライジングの記事の内容に惹かれたということがまず最初にあるのですが、
他の読者の方々の反応をコメント欄を通じて読みたい、と思ったから、ということもあります。

私も時々拙文をブログで取り上げて戴いたりすることもありますが、
その時は、恥ずかしさと共に、嬉しさもあります。
「のぼせもん」の気質もありますので、
調子に乗りやすいところもあり、
そこから「選民意識」や「謝ったら死ぬ病気」に罹る罠もあることだな、と、
これまでの細やかな人生での経験を振り返ってみても思う事があります。

人間、誰しも「私心」がありますから、
自分で「公」のことを考えているつもりでも、
「私」とのバランスが取れていなかったり、
客観的に見たら「私」が「公」より上に来てしまっていたり、
私憤と公憤を履き違えてしまっていることもあると思います。

人は間違いをおかすものだから、
そこで過ちを認めて初心に帰る、身の程を知る、ということが大事なのだと改めて思います。
文章をブログで取り上げて貰ったからと言って、目をかけられたからと言って、
そこからプロの表現者の土俵に上がれたり、一端の言論人・表現者を気取れる訳もありません。
ネットやスマホの普及で、誰も彼もがお手軽にモノ申せるようになってしまった御時世ですが、
まず、庶民としての自らの生活の現場がある筈です。

恋愛もそうですが、病気をしたりとか、生活環境が大きく変わったりとか、
自分を客観視出来なくなったり、精神のバランスを崩しやすくなる局面は誰にもあると思います。
調子に乗ったり、天狗になってしまう時もあり、
そこで自分を省みて、また立ち上がる、
大した人間でもない自分が偉そうに言うことじゃないと思いますが、
人生って、そういうことの繰り返しなのかな、と思ったりもします。

どうしても長ったらしくて固い文章になりがちですね(汗)。
カレーさんのようにスパッと簡潔に書くべきでした。
私なりにブログを読んで思ったことを書いたつもりです。
No.92
78ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
(号外 2018.6.12発行) 【目次】 1. ゴーマニズム宣言・第280回「水着審査をなくすミス・アメリカ」 2. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第84回「芸術家と偏執性~ハンス・ベルメール編」 第280回「水着審査をなくすミス・アメリカ」  ミス・アメリカが水着審査を止めるそうだ。  その上、イブニングガウンの審査も止めるそうだ。  これを聞いて、瞬間的に 「馬鹿馬鹿しい。そんなものを誰が見るか!」 と思わない男がいるのだろうか?  イデオロギーとしてのフェミニズムに嵌った偽善者ならば、おのれの性的欲求を押し隠して、 「水着審査はセクハラだ―――!」 と叫ぶのかもしれない。  人間の煩悩を断ち切った禅僧のような男なら、 「水着は見たくありませぬ」 と無表情で言えるのかもしれない。  わしはセクハラは嫌いだし、やることもない。イデオロギー抜きでわしは「フェミニスト」だと自認しているし、その手前で「紳士的でありたい」と思っている男ではある。   だが一生、性欲を葬れそうにない煩悩まみれの男でもあるから、「水着審査をなくす」という「設計主義的」な流れには、不快感100%になるのである。    ミス・アメリカは1921年に第1回大会が開かれた、米国を代表するミスコンテストであり、世界で初めて水着審査を導入したミスコンともいわれる。  その主催団体、ミス・アメリカ機構が5日、公式サイトやSNSで、水着審査を廃止することを発表した。  同機構の理事長で、自身も1989年のミス・アメリカ優勝者であるグレッチェン・カールソンはTVのニュース番組で、 「ミス・アメリカはもはや美人コンテストではありません。(単なる)コンテストです。今後は出場者を容姿で審査しません。えぇ、大きな決断ですよ」 と語り、今後の審査基準は 「社会に影響をもたらす取り組みについて自分の言葉で何を語るか」 だと表明した。  水着審査の代わりに、出場者には情熱や知性、ミス・アメリカの役割に対する考えについて審査員からの質問に答えてもらい、判断材料とするらしい。  頭がおかしい!  単なるコンテストって、何のコンテストなんだ?  とにかく立派な人を選ぶ、ただし容姿だけは決して判断材料にしないというのか?  だったら、頭巾でもかぶって顔を隠せ!  いや、それではまだ体形がわかるから、いっそのこと全員にブルカを着せろ!  社会貢献について語る内容を審査基準にするって、それは「弁論コンクール」じゃないか。  だったらもう、ミス・アメリカはブルカを着せた「青年の主張」にしてしまえ!  もう24年前の話になるが、堺市の女性団体が 「ミスコンは女性差別の集大成」 だと言い出し、各地のミスコンが次々に中止に追い込まれたことがある。  わしはこれを「SPA!」の『ゴーマニズム宣言』で、以下のように徹底批判した。  わしは「美」も才能だと思っている。美人は天才なのだ。  人は努力に関係なく、生まれつきのものを与えられる場合がある。  絵を描く才能、曲を作る才能、速く走る才能、知識を吸収する才能、笑わせる才能、肉体で戦う才能、美しさで人の目を楽しませる才能。  これらのどれもこれもがまず才能ありき! それから努力で磨きをかけていくものである。  頭のいいやつはちゃんと受験という学力コンテストを受けて世の中に認められていくが、「東大の入試は頭脳差別の集大成だ!」…と言って抗議するやつはいない。 (ミスコン反対論者が、人を外見で判断するな、「大切なのは人柄よ」と主張しているが、)何が「大切なのは人柄よ」だ!  モーツァルトに向かって「大切なのは人柄よ」なんて言って曲を認めないというのか? 音楽家にとって大切なのは曲の質だ! 美人にとって大切なのは顔とプロポーション。人柄など関係ない!  最近ではおそるおそるやってるミスコンなんか「うちでは教養とか礼儀、性格も見てます」なんてバカなこと言っとるが…  それだともう人間コンテストになって、総合的に質の良い人間と質の悪い人間に分けるという、おそるべき差別を犯してしまうぞ!  美だけ! あくまで美だけで競うから良いのだ。  この資本主義の中で人はいろんなものを消費されて生きてゆく。  漫画を描く才能を…球を蹴る才能を…ブスであること、ブ男であることを消費されるやつまでおる。  なんで「美」だけは消費させてはいかんとのたまう?  差別だ! 美の才能だけはこの世で認めんという才能差別だ!  人は誰しも己に与えられた天賦の才能を利用していく権利があるはずだ。  これは人権侵害である!  美は才能。美人は天才。顔とプロポーションを品評するミスコンは女性差別ではない!  いま見ても、完璧な論理だ。  当時、「この見解にきちんと理屈で返答してくれ」とミスコン反対論者を挑発したのだが、これにきちんと返答してきたものは今に至るも皆無である。そして、ミスコンバッシングの嵐も、なし崩し的に消えていった。   ところが24年経ったら、ミス・アメリカが美人コンテストを止め、今後は外見で判断しない「人間コンテスト」にするという、冗談みたいな事態が出現してしまったのである。  さすが「禁酒法」まで生んだお国柄は、21世紀に入っても変わらないものなのだなあと言いたいところだが、何でもかんでも「アメリカについて行け」がお国柄みたいになっている日本は大丈夫なのか? と思ってしまう。 
小林よしのりライジング
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!