M.Oさん のコメント
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第279号 2018.8.7発行 「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、著名なる言論人の方々が出版なさった、きちんとした書籍を読みましょう!「御意見拝聴・よいしょでいこう!」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが現代社会を鋭く分析「トンデモ見聞録」や小説「わたくしの人たち」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)
【今週のお知らせ】
※「ゴーマニズム宣言」…自民党衆院議員・杉田水脈の「LGBTは生産性がない」発言が炎上し続けている。リベラルの者たちは当然、これを猛烈に非難している。一方で保守の側は炎上に怯え、こそこそと杉田から距離を置こうとしている。LGBTに対する差別や偏見はいけないということについては、保守もリベラルもない。ただし、そこから先は保守として警戒しておかなければならないこともある。弱者至上主義になり、マイノリティの主張は何でも正しいとする「弱者真理教」に嵌ってしまう危険性を自覚せよ!
※「泉美木蘭のトンデモ見聞録」…私の身の回りにはLGBTと言われる人々がたくさんいる。当然ながら杉田水脈の「生産性」発言には憤っている。しかしデモやパレードに参加したり、権利主張をしたりしている人というのはほとんどいない。LGBTにも様々な人がいて、それぞれの考え方がある。短絡的に「社会的弱者」として扱うことが、逆にLGBTに対する理解への妨げとなっていないだろうか?
※よしりんが読者からの質問に直接回答「Q&Aコーナー」!法相が事件の内容を考慮して死刑執行を命令したというのは、三権分立から逸脱しているのでは?自信のない人に自信をつけてあげる方法とは?洗脳によって犯罪に手を染めてしまった人達は本当に罪を償うべき?本物のアイドルやスターが生まれないのはSNSがあるから?スポーツ選手のタレント化をどう思う?…等々、よしりんの回答や如何に!?
【今週の目次】
1. ゴーマニズム宣言・第287回「LGBTを巡るリベラルと保守の違い」
2. しゃべらせてクリ!・第236回「灼熱の夏休み! お散歩も命がけぶぁい!の巻〈前編〉」
3. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第91回「マイノリティと権利と願望とエゴ」
4. Q&Aコーナー
5. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
6. 編集後記
第287回「LGBTを巡るリベラルと保守の違い」 自民党衆院議員・杉田水脈の 「LGBTは生産性がない」 発言が炎上し続けている。
リベラルの者たちは当然、これを猛烈に非難している。
一方で保守の側は、ただ杉田から距離を置こうとしている。
そんな中、自民党衆院議員・谷川とむが、同性愛は 「趣味みたいなもの」 と発言し、さらに火に油を注いだ。
谷川は、男と女が結婚して子供を授かるのが「伝統的な家族のあり方」で、男が男だけを好きになり、女が女だけを好きになっていたら、国が滅びると発言している。
「伝統的な家族のあり方」は否定しないが、同性愛カップルがそんなに増えるはずもなく、この議員、同性愛は本人の意思でやめられると思っているようだ。
同性愛は趣味の問題ではなく、先天的な脳の問題であり、本人の意識では、どうにもならない。
この認識が一般に浸透し、常識となってからもう20年以上は経つというのに、未だにその知識が皆無の国会議員がいるという事実には驚くしかない。それも、ジジイならまだ仕方ないかもしれないが、谷川は42歳だというから二度びっくりである。
生まれつき女しか愛せない女(L=レズ)、男しか愛せない男(G=ゲイ)、男も女も愛せる人(B=バイセクシャル)は、一定の割合で存在する。
男の体に女の脳、女の体に男の脳を持つ人(T=トランスジェンダー)も、必ず一定の割合で生まれてくる。
生物学的にそうなっているのだから、認めるしかない。
これは保守とかリベラルとかいう観念を超えている。
生物学的に全くやむを得ない、先天的な脳内の問題であり、それを差別したり、偏見を持ったり、その人たちが普通に抱く感情を、不道徳だと言うことはできない。
昔はわしもそういうものとは知らなかったから、ヘンな趣味があるものだと思っていたが、もうその認識はすっかり変わっている。
最初にはるな愛を見た時は、可愛いなあと思ったものだ。だが、その後のコミカルな挙動に失望してしまったのだが。
最近は見なくなったが、椿姫彩菜などは元男性とは思えない美しさで、この人となら付き合えるかもと思ってしまった。それを『ゴー宣』の中で言ったら、宮崎哲弥が読んで、小林よしのりがあなたを好いてるよと本人に伝えてしまったようだ。
そのように、すっかり綺麗な女になっている人もいるのだから、普通の男でも、気づかぬまま惚れてしまい、のちに元男性と知っても、結婚してしまうことだってあるかもしれない。
こんなに美しいなら、出生時の性なんかどうでもいいと思えるようになり、手術して、ちんこもなく、おっぱいがついているのなら、あとは子供が生まれないということさえ覚悟すれば、それは、十分いけるかも…
…って、LGBTに対する差別意識はもうないと言おうとして、何かヘンなことをつぶやいているようだ。
とにかく、LGBTに対する差別や偏見はいけないということについては、保守もリベラルもない。
ただし、そこから先は保守として警戒しておかなければならないこともある。
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
今まで積んであったのは、大きな反響を呼んだ「第14章 運動の功罪ー日常へ復帰せよ!」が、当時大学生だった私には理解出来なかったからです。
その後の『戦争論』も消化不良だったので、読解力のなかった私が『ゴー宣』に戸惑いを感じ始めたきっかけだったのかもしれません。
でも、「現場」を持つ庶民となった今なら、当たり前のように理解出来るんです!
あの頃は未熟だった……。
では、何故今になって読み始めたのかというと、今週の『ゴー宣』のオウム総括を読んで、「純粋まっすぐ君」についてあらためて自分で考えてみたくなったからです。
特に「仲間内の同調圧力があったら、人は良心をマヒさせて何でもやってしまう」という記述から、日大アメフット部の悪質タックル事件に触れてあったのを見て、「ああ、やはりアレは『オウム的』と解釈すべきだったか」と思い直し――以前にこのコメント欄で「オウムの洗脳と日大の恐怖支配は違う」と強弁していたことを反省し――その節は申し訳ありませんでした。今も未熟だ――日本人ってやはり同調圧力に弱いのだろうか、ということが気になったわけです。
こうして読んだ『脱正義論』は、内容がずっしり詰まった「支える会」のリアルな記録であり、日本の「市民運動論」であり、そして小林先生が『ゴー宣』で「個と公」について大きくクローズアップするようになった端緒となる作品なのかなと思います。
この時点では「私」も「個」と同じ意味で用いられていたようですが(違っていたらすいません)、細かい部分はともかく、「保守」という立場や、「強者」だからこその「弱者」への優しさなど、現在と何ら変わることなく一貫されている揺るぎなさに、あらためて「さすが」と感じます。
いまだにこのコメント欄にはアンチ小林よしのりが乱入しているようですが、「小林よしのりは変わった」というのならば、過去の作品をあらためて読み返してみろ、と言いたいです。
何がどう変わったのか説明できるのか?
過去と同じ感想なのだったら、それは自分が何ら成長していないということではないのか?
そして、「小林よしのりは変わった」という意見を抱くアンチは、それをこのコメント欄ではなく、「よしりん企画」に直接ぶつける勇気はあるのか?
執拗に重箱の隅つつき、揚げ足取りをコメント欄に書き込む行動は、いわば「何でも反対する左翼」の「運動」そのものです。
「運動」が目的化しているんです、アンチは。
「運動」によって「気持ちよさ」を味わっていた、「支える会」の学生と同じなんです。
今はこうしてネット上で、ほぼノーリスクで言いたことを言ってますが、小林先生が「失敗だった」と評した「Views」での「支える会」の学生との座談会のように、小林先生を目の前にしてアンチは「先生の主張は、ここがおかしい」と言えるのでしょうか。
自分は「個」が確立している、その上で小林よしのりを批判しているのだ、というのならば、その矛先はこのコメント欄じゃあない、「先生へ直接」であるはずです。
そして、自分も「現場」を持つプロであるのならば、表現者としてのプロである小林先生に対して相応の礼儀をはたらきつつ、「今の先生の言論はおかしい」と訴えればいいんです。
もし目にとまる文章があれば、ひょっとしたらブログで取り上げてくれるかもしれない。
それをせずに、こそこそと「自分は小林よしのりが間違っている所が分かっている」というコメントをこの場でばらまいてばかりいるのは、「プロ」に相対する気持ちがないんです。
「プロ」を尊重していない。
「運動」に酔いしれている学生と同じです。
普段は自分の「現場」を大事にしつつ、政治や社会の問題には関心を抱いている「物言わぬ市民」と真逆。
「プロ」に徹し切れていないから、「プロ」に任せられない、「プロ」を尊重できない。
「そんなことよりも~、小林君はこの前はあんなこと言ってたのに~、最近はこんな言い方するのはおかしいんだから~、それを考えるのは大切だと思いますぅ~」って、学級会みたいに主張するのか?
もしこれを読んでいるアンチがいたとして、反感を感じたのであれば、すぐさま『脱正義論』や『戦争論』を読み直してみればいいんです。
『脱正義論』は、小さな字でびっしりと綴られた「秘書カナモリの日記」まで読むべきです。
そこまで読まないと、小林先生の立場や人間性のようなものは理解出来ないし、その上でそれでも「小林はブレた」と言えるのか、自分たちで考えてみればいい。
とっくに社会に出て「プロ」になっているはずの自分たちが、「支える会」の学生たちよりも卑怯で矮小な人間に成り下がってることに気付くかもしれない。
すいません、少し話題がずれてしまいましたが……。
私自身も本当に未熟で、まだまだ勉強しないといけないことが山ほどあるわけで、でも仕事もあるからなかなか時間が取れないし――ということを考える中で、やはり「プロ」の言論や表現は何かに気付かせてくれる、刺激を与えてくれる、というのは確実なわけであり、そして自分も「プロ」としてお客様に接しているという事実を振り返っていました。
するとやはり、ネトウヨは「プロ」というものを尊重しておらず、「プロ」が背負っている責任や覚悟にも無自覚なわけであり、それはすなわち組織にからめとられてしまった当時の厚生省の役人やオウム信者とも同列であるのだろう、と思いました。
『ゴー宣』の「オウム総括シリーズ」は非常に意義のある内容です。
残念ながら、現在の日本にも全く通用してしまう、という意味において、「個と公」というのは永遠のテーマなのだろうかと感じました。
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