皿うどんボンバーさん のコメント
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第298号 2019.1.8発行 「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、著名なる言論人の方々が出版なさった、きちんとした書籍を読みましょう!「御意見拝聴・よいしょでいこう!」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが現代社会を鋭く分析「トンデモ見聞録」や小説「わたくしのひとたち」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)
【今週のお知らせ】
※「ゴーマニズム宣言」…昨年12月26日、日本政府は国際捕鯨委員会(IWC)に脱退を通告、今年7月より30年ぶりに商業捕鯨を再開することとなった。IWC脱退という結論が正しかったかどうかは未だわからないが、日本の「食文化」を守るという意識がない連中には心底腹が立つ。「クジラごときで国際協調を崩していいのか」「他に美味しい肉はある」「商業捕鯨再開を歓迎するのは、クジラ漁をしている漁師だけだ」etc.…大間違いである!!これは捕鯨だけに止まらない深刻な問題を孕んでいるのだ!!
※「泉美木蘭のトンデモ見聞録」…昨年12月25日の朝、父が亡くなった。肝硬変の合併症でできた食道静脈瘤が破裂したことによる失血死で、74歳だった。命に関わる病を家族に隠し、まったく迷惑をかけず、元気に暮らして、最期は自分で始末し、たちまちのうちに逝ってしまった父。父の人生、家族、そして死について考えるうちに、見えてきたこととは?
※よしりんが読者からの質問に直接回答「Q&Aコーナー」!立憲的改憲に賛同しそうな、認知度の高い著名人や芸能人を巻き込むべきでは?煽り運転など悪質なものには極刑を求刑できるようにすべきでは?護憲派が権力を縛り直す立憲的改憲までも拒む理由とは?普天間基地移設問題、辺野古に移設できたとして普天間は本当に日本に帰って来る?伊勢神宮参拝をした立憲民主党が非難されている件をどう思う?2019年はキャッシュレス社会化がさらに加速!?…等々、よしりんの回答や如何に!?
【今週の目次】
1. ゴーマニズム宣言・第307回「IWC脱退 クジラを食うべし」
2. しゃべらせてクリ!・第255回「天高く凧上がるお正月ぶぁ~い!の巻〈前編〉」
3. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第109回「父のこと、家族のこと」
4. Q&Aコーナー
5. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
6. 編集後記
第307回「IWC脱退 クジラを食うべし」 昨年12月26日、日本政府は国際捕鯨委員会(IWC)に脱退を通告、今年7月より30年ぶりに商業捕鯨を再開することとなった。
年末に、何の国内論議もなく重大なことをやっつけてしまうというのは、もはや安倍政権の年中行事である。
捕鯨については17年前に個人雑誌『わしズム』の創刊号に描いた。その年・平成14年(2002)は下関でIWCの会議が行われ、そこで日本が商業捕鯨の再開を訴えることになっていたため、その前に世論を盛り上げようとしたのだ。
ところが、その後IWCで商業捕鯨が認められそうな気配は全くないまま時間が流れていき、むしろ反捕鯨国のペースに拍車がかかる一方となってしまい、ついにIWC脱退という結論に至ったわけだ。
商業捕鯨ができるのは日本近海と排他的経済水域(EEZ)に限られ、これまで南極海などで行われていた「調査捕鯨」はできなくなる。
日本近海とEEZ内ではこれまでも、IWC管轄外の小型のクジラを捕獲していたが、今後はそれに加え、この水域に入って来るミンククジラ、イワシクジラ、ニタリクジラの三種を捕獲する予定だという。
水産庁は、漁獲量はこれまでと変わらないと試算しているが、調査捕鯨ができなくなったことで、漁獲量はむしろ減少するのではないかという懸念もあるらしい。
IWC脱退という決断が吉と出るのか凶と出るのかは、まだ現時点ではわからない。
だが、ここでわしが最も腹の立つのは、「クジラごときで、そこまで強硬な手段を取ることないじゃないか」という意見が出てくることだ。
今さら商業捕鯨を再開しても、鯨肉の消費量が増えるわけじゃないとか、わざわざ鯨肉なんか食べなくても、他に美味しいものはいくらでもあるとかいう声が普通に出てくるのは、実に不快である。
クジラの刺身は、わしが小中学生の頃、父親が生姜醤油に漬け込んだものが特に好きで、しばしば食ったものだ。クジラのベーコンは、今でも福岡に帰った時は博多料理で出されるから食っている。これは抜群に美味い。
昔はステーキというと鯨肉だったが、牛肉のステーキが普通に食えるようになったら、食わなくなった。竜田揚げも好きではない。
しかし、そんな鯨肉であっても、料理人というものはどうにかして美味しく食べさせる方法を開発してしまうものである。
わしは以前、ヒツジが臭くて食べられなかったのだが、今では美味しいヒツジ料理を食べられる店がいくつもある。
ジビエだって、素材自体は決して美味いものではないはずなのだが、それをいろいろ工夫して、ブームにまでしてしまっている。
クジラの美味い食べ方など、まだまだ開発できる余地はあるはずなのに、もうどうせ誰も食わないとか言って放り出そうとするのは、あまりにも浅はかなことである。
クジラが食べたいという程度の理由で、国際協調を崩していいのかという意見にも、全く賛成はできない。
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
お疲れ様です。
「ゴー宣」読みました。
私の地元では、スーパーにも普通に鯨肉が売ってあります。
赤身の刺身、さえずり(舌)、オバイケ(尾)、鯨ベーコン・・・
後は、鯨カツもあります。めちゃくちゃ美味しいです。
学校の給食でも竜田揚げとか出て来ましたが、
大人になってからも普通に食べれます。
ヒツジ肉は、昔食べたことあります。
ジビエには臭みを気にすると抵抗が生じたりする方も多いですが、
自分的には特に抵抗はありません。
というか、臭みを感じる肉に今まで当たっていないのかもしれません。
猪肉も割と頻繁に食べます。
鯨が増えすぎると生態系が壊れる可能性があるという問題、
鯨が禁止されたら、次はマグロが禁止されるだろうという問題、
どちらもよく耳にします。
私のように、地元でよく食べることが出来るから慣れ親しんでいて、
食べられなくなるなど、あり得ない!・・・と考える人ばかりでもないようです。
私とは別のところの出身で、やはり鯨肉が普通に食べられているところの生まれの友人にも、
国際的な流れがそうだから・・・と、反捕鯨国の理屈に取り込まれつつある人もいたりします。
その友人は、ニュース等に敏感で、政治の話を好む傾向にありますが、
もしかすると、本来持っていた筈の庶民的な感覚が鈍って、
マスコミやネットの声に扇動される「大衆」になりつつあるのかもしれません。
そうならない為にも、自らの生活の現場に根差す感覚を、よりしっかりと意識する為に、
自らを律していくことも大切なのかなと考えました。
安藤百福氏の姿勢は素晴らしいですね。
氏の思いとは裏腹に、パン食は日本にその後すっかり根付いて行きましたが、
その一方で、カップラーメンは、日本発信の食文化として、
現在広く根付いています。
これを、ジャンクフードが根付いた風潮と捉えるのか、
それとも、安藤百福氏の最初の精神が今も根付いていると考えるのか・・・
言語と共に、食文化も、日本国や日本人を、日本国たらしめる、日本人たらしめる上での、
基本的にして大きな礎だと改めて思います。
グローバリズムへの抵抗は、即ち、太古の日本が外国からの侵略に対して示して来た、
自主独立と自主防衛の精神へ繋がるものだと思います。
何と言っても、人の基本は、衣食住だと思いますので。
そして公の最大範囲は、やはり国だと思うので、
国がダメになってしまえば、秩序はあっという間に崩壊してしまいます。
しかし、その精神は、今の自称保守・右派が打ち出しているような、国粋主義ではなく、
国民主義で護っていかなければなりません。
旧来の左右対立も時代と共に意味を成さなくなっていきましたが、
現在の左右対立(主に国内)も、共に米国の庇護ありきなので、
これもまた、意味を成しません。
安藤百福氏が戦って来たものは、食文化における米国の侵略であったということからも、そう思います。
食文化という国家と国民を為す為の礎について考えることで、
改めて考えさせられたことです。
「トンデモ見聞録」読みました。
自らの生死が係る時、最期の時、咄嗟の行動など、
その人が試されて、その人の人となりが生々しく出る時は、
やはり、死(生)について否が応でも考えざるを得ない時になるのかな、と改めて思いました。
最期まで好きなものを食べたり飲んだりしながら一生を終える、というのも、
とことん「私」に執着して、みっともなく「快楽」に縋るという姿もあり、
自分などは、そうなってしまう恐れがあるのですが、
泉美先生の御父様のように、美学を貫いて、一生を全うする、という姿は、
本当に気高いと思いますし、終末期医療や延命治療の是非についても、
ここから考えさせられるところがあります。
「好きなことも自分の節度の範囲内で楽しむ」という姿勢も、
自らの死期が近づいたり、病で苦しい思いをしたら、
どうしても自分の「我」が抑えきれなくなりそうですが、
そこを真摯に守り続けるという姿勢は、
本当に真似が出来ないですし、崇高です。
また、御家族の様子や、これまでの一家の様子を文章で読ませて戴きますと、
そこに偽らざるリアルな悲喜交々を感じて、
「葬儀」という荘厳な儀式で、それをお互いに確認されたところもあるのかな、と感じました。
私自身も、親族を亡くした時のことや、友人の葬儀の時のことなどを思い出しました。
生涯の最期に、その人の生の足跡が如実に示されるのだと思いました。
泉美先生の御父様の御冥福を慎んでお祈り申し上げます。
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