希蝶さん のコメント
このコメントは以下の記事についています
(号外 2019.3.12発行) 【目次】
1. ゴーマニズム宣言・第316回「あらゆる差別のない社会は左翼の目標」
2. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第118回「ヌードモデルというもの」
第316回「あらゆる差別のない社会は左翼の目標」 今回は「差別なき社会」や「寛容の精神」や「多様性を認める」などの耳障りの良い言葉に疑念を呈しておく。
「寛容」は保守思想の権威・オルテガが重要なリベラルの概念としたものだが、オルテガとて権威主義で捉えてはならない。
「非寛容」も多様性の一つの価値として認めるのが「寛容の精神」ならば、価値相対主義に陥らざるを得ない。オウム真理教の「ポア」も多様性の一つとして「寛容」に認めるなんてことができるはずがない。
そもそも宗教には原理主義的な側面があるので、移民が増える中で、「非寛容」も一つの価値として認めなければならないときだって来るだろう。
3月2日、部落解放同盟の全国大会に、立憲民主党を代表して福山哲郎幹事長が出席し、挨拶をした。
同党のブログにその挨拶の言葉が載っていたが、わしはそれをBLOGOSで読んで、疑問を持った。 福山は、こう言ったのだ。
「われわれが作った党の綱領では、あらゆる差別に反対して断固として戦うことを誓い、一人ひとりがかけがえのない個人として尊重され、多様性を認めつつ互いに支え合い、全ての人に居場所のある、ともに支え合う社会の実現を目指すとうたっている」
わしは立憲民主党の綱領を読んでいなかったのだが、綱領には 「私たちは、あらゆる差別に対して断固として闘います」 と明記されていた。
あらゆる差別に対して断固として闘う…そんなことを大した思慮もなく、正義と信じ込んで言われると、わしは不快でならない。
なぜならば、あらゆる差別に対して断固として戦った国こそ、スターリンのソ連であり、毛沢東の中国であり、ポル・ポトのカンボジアであり、その行き着く先は必ず大虐殺だったからだ!
あらゆる差別をなくし、平等にしようとしたら、大虐殺をするしかなくなるというのは20世紀の貴重な教訓であり、特に政治家なら誰でも知っている常識だと思っていたのに、なんと野党第一党にその認識が全くないということに、わしは愕然としたのである。
あらゆる差別をなくし、完全平等を実現しようというのはマルクス主義の思想である。
完全平等が実現するのは完全なる社会主義が達成された世界だけであり、ソ連や中国、カンボジアはそれを目指したのだ。
わしは『戦争論』で、漢字の「左翼」とカタカナの「サヨク」を区別した。
漢字の「左翼」は、マルクス主義に影響され、社会主義国家を目指す者。
カタカナの「サヨク」は、マルクス主義は信奉していないが、無意識に「人権」「平等」「自由」などの価値に引きずられる者である。
あらゆる差別と闘うということを綱領に掲げている立憲民主党は、社会主義国家を目指すマルクス主義の政党と近似性が強い。
枝野幸男代表は立憲民主党を保守だと言うが、これではとても「保守」とはいえず、それどころかカタカナサヨクですらなく、漢字で書く完全な「左翼」といわざるをえない。
立憲民主党は、とっくに「社会党」になっていたのだろうか?
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1. ゴーマニズム宣言・第316回「あらゆる差別のない社会は左翼の目標」
最初に、立憲民主党の綱領や幹事長の発言、幼稚だと私も思います。そのことを踏まえて、自分の考えを述べると、私は、「差別のない」と「平等」は正反対の観念だと思っています。
なぜなら、その人の能力を無視し、すべてを均一化するところに、差別が生まれると感じるからです。均一化により、個性やその人固有の能力を無視した「平等」という差別が生まれるのではないでしょうか。しかし、これらを混同する人間のなんと多いことか。
人間には、その人の経験や知覚でしか感じ取れない世界があり、それを補うのが他者の観点であり、客観性であるのだから、「差別」の完全撤廃はあり得ないと思うのです。歴史的に見て、多数派の意見となった「常識」があるから、この世の中は成り立ち、規範が定められ、動かされてゆくのだろうと。誤差が生じたら、その都度是正してゆくしかないのではないか、と。
自分の経験をこの場で記すと、どうも顰蹙を買いそうですが、「平等」という言葉では嫌な思い出があります。とあるスーパーでアルバイトしていた際に、上司から「自分はみんなを平等に、差別を設けないで見ている」と言われた後で、自分の作業がなっていないとか、仕事をなめている、といったことを言われたことです。
正直言って、自分は自分のしている作業や仕事を「なめて」はいません。常に全力投球しています。確かに能力的に劣っている面もあるのでしょうが、それはその上司が下した客観的判断なのですから、仕方がない、とも思います。アルバイトを掛け持ちしていたのもいけなかったのでしょうし、この場ではあまり言いたくないですが、自分の特徴(障碍)についても、その当時はよく分かっておりませんでした。
しかし、その時以来、「平等」という言葉を聞くたびに、不快な気分になります。人には得て不得手があり、できることとしにくいこととがあるのだから、それを均一の物差しではかるのは、不可能だと思うのです。
人は個々に異なっており、常識の範疇の中で、個人の基準を持っているのだから、それに当てはまらないものは、劣っているとか、「非常識」だとかいうふうに見てしまうのも当然なのでしょう。だから、私は偏見を持たず、「言葉」で互いに語り合うことでその溝が何とかならないか、と思うのですが、その考えは幼稚なのでしょうか。
話がずれましたが、私はこうした差別が生じるのは、結局のところ、「平等」という「常識」があるからで、カンボジアのポルポト政権も、社会主義も、無能なものも能力のあるものも一緒にして見てしまったからこそ、起こった悲劇のような気がしてなりません。毛沢東は蝗を殺せと命じたために、返って農作物を不作にした、といいますが、何もかもを等しくすることは不可能で、故に社会規範としての「客観性」や「常識」が生まれるのだと思うのです。
「多様性」がよいとは申しませんが、個々の性格にあったものまで見て、その上でどうするのがその人にとって、また集団や社会にとってよりよいことなのか、その都度考えてゆくことこそが肝要なのではないか、と締めておきます。
木蘭さんの感想は、また後で改めて。
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