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M.Oさん のコメント

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M.O
よしりん先生のブログ「0.1ミリでも前進する覚悟」を読んで、実は私も最初は違和感を覚えました。
でも、あらためて考えてみると、よしりん先生のスタンスは当初より何も変わっていないのだ、と納得することができました。

安倍加憲案に関して、よしりん先生は以前に「国民投票となると反対票は投じられない。自衛隊の存在を否決することは出来ない。過半数の国民も賛成票を投じることになる」とブログで書かれていました。
加憲案が国会で発議されると数の力で国民投票にまで押し切られる可能性が高いので、何とかそれを阻止するべく始めたのが『ゴー宣道場』の憲法シリーズだったはずです。
この時点ではまだ枝野幸男氏の力を信用していたし、結党当初の立憲民主党に期待をかけてもいました。しかし、その当てが外れてしまった。
山本太郎氏も共産党と組んでしまったため、野党が「立憲的改憲」を提議する可能性が極めて低くなってしまった。
だったらあらためて『ゴー宣道場』を通じて、国民的議論を喚起するしかありません。
「安倍政権の下でも、議論を通じて立憲主義を根本にした、良き改憲はできるのだ!」という一文は、その決意表明でしょう。

では、安倍加憲案に賛成票を投じることが「0.1ミリの前進」に繋がるのでしょうか?
もちろん「次善の策」とも言えないお粗末な改憲案ですが、それでもそれを推すのは何故なのか。
安倍加憲案が否決されることが、「護憲派の勝利」に繋がるからです。
「護憲派の勝利」こそが、最も避けなくてはならない最悪の結末であるからです。
安倍加憲案可決は、その後の議論の持って行き方によっては、10年後や20年後には「立憲的改憲」が可能になる余地は見出せます。
しかし、「護憲派の勝利」が実現すると、恐らく50年や100年単位で改憲が不可能になってしまうでしょう。
野党の体たらくに、その懸念を見出すことはさほど難しいことではありません。

そもそもからして、「立憲的改憲」の実現には、相当な困難が伴うのだろうということは、山尾志桜里氏の対談本『立憲的改憲』を読んでも理解出来ます。
「理想」とする理論的な下地や問題意識があっても、では現実的にそれをどのように実現することが可能なのか、という点に関しては、一筋縄ではいかない議論が必要でしょう。
私が思い当たったのは、天皇陛下の「生前退位」の実現です。
「理想」はあくまで皇室典範改正でしたが、結果的には退位特例法で落ち着きました。
ただし、将来への布石として、付帯決議をねじ込むことに成功しました。
その文言の作成において、大変な時間が費やされたのは『ゴー宣道場』で馬淵澄夫氏が述べられた通りです。

つまり、議論を重視する「回復の民権」には相応の時間がかかる、という大前提が存在した上で、「護憲派の勝利」を避けるためにも少なくとも今の野党は全く当てに出来ないという状況が加わったため、ならば安倍加憲案が国民投票にかけられれば、布石としてやむなく賛成票を投じるしかない、ということではないでしょうか。
やはりよしりん先生のスタンスは変わっていません。
ただ、議論を停滞させてしまった野党の力不足は予想以上のものであったということ、そしてこの国に巣くう護憲派の勢いは侮れないのだということが、新たな認識として加わったということなのだと思います。
No.125
64ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
(号外 2019.9.10発行) 【目次】 1. ゴーマニズム宣言・第340回「セカンドレイプ魔・小川榮太郎」 2. 泉美木蘭の「トンデモ見聞録」・第139回「人にはいろんな生きざまがあるという話」 第340回「セカンドレイプ魔・小川榮太郎」  日本人は、未だに近代人にはなっていない。  野蛮人としか言いようのない、知性も品性もない人間が「知識人」の扱いで「言論誌」に論理のかけらもない文章を載せている。  しかもその内容が、レイプ被害者を侮蔑・嘲笑する「セカンドレイプ」以外の何物でもない代物なのだ。  こんなものが平気で流通しているということだけは、決して海外には知られたくない。 「月刊Hanada(10月号)」に、自称文芸評論家・小川榮太郎の 『性被害者を侮辱した「伊藤詩織」の正体』 と題する文章が載っている。  詩織さんは性犯罪被害者のまさに当人なのに、その人をつかまえて「性被害者を侮辱した」とは、一体どういうつもりだろうか?  まあ小川の目的が、詩織さんをレイプした容疑で逮捕状が出ていながら、逮捕を免れたジャーナリスト(元ジャーナリストか?)Yの擁護にあることは、読まなくてもわかる。小川もYも、共に安倍政権の提灯持ちである。同じ提灯を持つ者同士、お仲間意識も連帯感も相当に強かろう。  文章は冒頭、熱海のホテルにおけるYの様子の描写から始まる。  詩織さんがYを訴えた民事訴訟の裁判が行われた日、小川がYを熱海に誘ったそうで、小川は 「人生を賭けた裁判の疲労は並々ならなかっただろう」 とYをいたわっている。  そして小川は、Yの父親が事件のショックから体調を崩し、昨年亡くなったことに触れ、 「私も先年、父を亡くした。レイプ犯の汚名を着た息子が孤立するなかで、病重くなり続けた氏の父上のことを思う都度、私は何度いたたまれぬ思いにかられたことだろう」 と、深い同情の気持ちを表明している。  案の定、完全にYの味方をするつもりで書いている文章である。  ところが信じられないことに、小川はこれだけYに肩入れしたすぐ後に、ヌケヌケと 「が、この件に情実は、絶対あってはならない」 と言ってのける。  そしてさらに、 「私は山口氏を『信じる』という選択は、この件では全くするつもりはなかったし、してはならないと思っている」「私は、山口氏を信じるのではなく、証拠資料、証言を通じて、より真実に近い当日の出来事を知りたいと思った」 と強調して、中立・客観的な立場でこの件を論評するかのような態度を装うのだ!  一体、どのツラ下げて?  あれだけ、Yと個人的に親しいことを自ら明かし、Yの無実を願って死んだであろう父親に同情し、Yが父を死に追いやるような親不孝をしたのではないかとは露ほども疑っていない心情を吐露している人物が、今さらこの件を中立の視点で検証するなどと言ったところで、どこの誰が信用するか?  この客観性皆無の頭の悪さには本当に驚く。フリチンで街中を闊歩しながら、「私は露出狂ではない!」と叫んでいるようなものである。  Yはホテルの自室に詩織さんを連れ込み、性交したことは認めている。  そこで争点は、その性交がレイプだったのかどうかに絞られる。   レイプか否かを決定づける最大の要件は、「合意の有無」である。  合意なく行われた性交はレイプ。それに尽きる。  ライジングVol.307( https://ch.nicovideo.jp/yoshirin/blomaga/ar1743157 )や『ゴーマニズム宣言』第50章「レイプ裁判の判決がおかしい!」(「SPA!7月2日号」)で詳述したように、現在の日本の裁判では「抗拒不能」(抵抗・拒否できない)という要件が過剰に考慮され、理不尽な判決が連続しているが、あくまでも第一に考えなければならないのは、というより、唯一考慮すべきなのは、「合意の有無」であると言っていい。この認識は、今日の世界的な潮流として定着しつつある。  ところが小川は信じられないことに、最重要の要件である「合意の有無」を 「密室のことで、判定のしようはない」 とあっさり放り出し、完全に論点から切り捨ててしまうのだ!  これでは話にならない。 小川は法的・社会的にレイプがどう定義づけられているのか、特に最近はどう考えられているかを一切調べようともせず、完全な無知のまま、 「合意の有無など言っても意味がない」 と決めつけているのだ。  小川は「新潮45」の廃刊号となった昨年10月号に載せた、杉田水脈の「LGBTは生産性がない」発言を擁護する文章でも 「LGBTという概念について私は詳細を知らないし、馬鹿らしくて詳細など知るつもりもない」 と開き直り、LGBTを「全くの性的嗜好」と完全に間違ったことを平然と書き、LGBTよりも 「痴漢症候群の男の困苦こそ極めて根深かろう」 とまで暴言を吐き散らした。  議論の前提として必要最低限の知識すら知ろうともせず、完全無知のまま、自分の思い込みだけで平気で誤りを書きまくることを常とする小川榮太郎には、根本的に物書きの資格などないのだ。  小川は、Yが詩織さんをレイプしたとされる2015年4月3日の詩織さんの行動について、いちいち批判を加えていく。  その日、詩織さんは靖国神社の奉納相撲の取材をした後、砂埃を浴びた服を着替えるため自宅に寄り、待ち合わせ場所の居酒屋に時間に遅れて着いているが、それに小川はこんな難癖をつけるのだ。  
小林よしのりライジング
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!