希蝶さん のコメント
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第437号 2022.6.14発行 「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、著名なる言論人の方々が出版なさった、きちんとした書籍を読みましょう!「御意見拝聴・よいしょでいこう!」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが現代社会を鋭く分析「トンデモ見聞録」や小説「わたくしのひとたち」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)
【今週のお知らせ】
※「ゴーマニズム宣言」…ご存じのとおり、『ゴーマニズム宣言』は開始以来30年にわたり「権威主義との戦い」を続けてきた。一方、ウクライナ戦争によって浮上したロシアと欧米の対立は「権威主義国」と「民主主義国」の対立とも形容されている。それでは、「権威主義」とは何か?「権威主義国」とは何なのか?そして、欧米側に付いて一応は「民主主義国」ということになっている日本は、本当に「民主主義国」なのだろうか?この機会に、改めてまとめておこう。
※泉美木蘭の「トンデモ見聞録」…今月3日、厚生労働省から令和3年(2021年)の人口動態統計が発表された。2021年は、年末から年明けにかけて「第3波のピークが来るぞ!」「初詣は年内に済ませよう!」「帰省前のPCR検査に長蛇の列!」など大騒ぎがあり、年明け早々に2度目の緊急事態宣言が発令。夏にはデルタ株に置き変わり再び感染者が増えはじめ、テレビでは連日、新規陽性者数を「過去最多!」と煽り立てていた。オミクロン株になっても「感染はかるく済んでも後遺症があるぞ!」などさらにヒドイ状態へと突入していったという1年だったが、実際のところ、日本人はどれほどコロナの被害に遭ったのだろうか?
※よしりんが読者からの質問に直接回答「Q&Aコーナー」!?妻から「家計が赤字なので自分も働く」と言われたら男性はプライドが傷つく?『大東亜論』の続きは完全に諦めてしまったの?外国人観光客という「外圧」頼みで、日本のコロナ禍の悪習を終わらせるというのは悪手?男系派と論戦する際に皇統譜を用いることは禅問答なのでは?物議を醸している「AV対策新法」についてどう思う?天皇や皇族方に対して不満を持ってしまうのは尊皇心が足りないから?…等々、よしりんの回答や如何に!?
【今週の目次】
1. ゴーマニズム宣言・第466回「権威主義とは何なのか?」
2. しゃべらせてクリ!・第393回「ぽっくんVS多分田吾作、世紀のアホ対決ぶぁい!の巻【後編】」
3. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第260回「人口動態統計に見る“コロナ前とコロナ後”」
4. Q&Aコーナー
5. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
6. 編集後記
第466回「権威主義とは何なのか?」 ご存じのとおり、『ゴーマニズム宣言』は開始以来30年にわたり 「権威主義との戦い」 を続けてきた。
一方、ウクライナ戦争によって浮上したロシアと欧米の対立は 「権威主義国」 と 「民主主義国」 の対立 とも形容されている。
それでは、「権威主義」とは何か?「権威主義国」とは何なのか?
この機会に、改めてまとめておきたい。
わかりやすくひとことで言ってしまえば、6月4日の「オドレら正気か?関西LIVE」の終盤において、宮沢孝幸氏がとった態度こそが「権威主義」である。
あの時、新型コロナウイルスの感染経路が飛沫感染・空気感染か、それとも糞口感染・接触感染かという問題について、宮沢は一切の議論を拒否し、議論から逃げるために暴言を吐き、暴れまわった。そして何の根拠も示さないまま 「もう結論は出ています!」 と断言し、糞口感染説を唱えたら 「研究者として抹殺されます!」 と叫んだ。
つまり 「研究者の世界では、糞口感染説を唱える者の存在は許されない!」 というわけだ。
これが権威主義である。
ある世界に君臨する「権威」があって、その権威を持つ者の言うことは全て正しいとされる。 しかし、それがなぜ正しいのかということは、何ひとつ説明されない。それどころか、それが本当に正しいのかと疑問を持つことすら許されない。
とにかく権威者様が絶対だ! というのが権威主義なのである。
宮沢氏が根っからの権威主義者であることは、自身初の単著に 『京大 おどろきのウイルス学講義』 というタイトルをつけたことにも、顕著に表れている。
これはあくまでも宮沢氏が授業で行った講義録を基にした著書なのだから、本来は 「宮沢孝幸 おどろきのウイルス学講義」 とでもすべきところだ。ところが宮沢は 「京都大学准教授」 の看板を前面に押し出して、 これは「京大」のウイルス学であるぞよと銘打った。 そうしなければ世間には通用しないと思っていたわけで、これこそが権威主義なのである。
あまりにも幼稚でバカバカしいと思うのだが、ところがそんな権威主義者の振る舞いに、嫌悪感を抱かない者もいる。もちろん宮沢氏のファンや、倉田真由美氏だ。
倉田氏は完全に宮沢氏を信じ切っていて、井上正康氏を「胡散臭い」と思っているらしい。それは宮沢氏から理論的に説得されたからでも何でもない。 ただ「京都大学」の先生が言っていることだからという理由しかない。 それ以上は、何も理由が要らないのである。
倉田氏は、漫画家であるわしはもとより、「大阪市立大学」の井上正康氏も信用していない。とにかく「京都大学」だから宮沢氏が正しいと信じている。もちろん、『コロナ論』や井上氏の本など読んじゃいない。もっとも、宮沢氏の本も読んでやしないだろう。「京大」のブランドさえありゃいいのだから。
わしは、あえて「漫画家」という肩書だけにすることで権威主義と戦ってきたのだが、残念ながら漫画家でありながら権威主義者に成り下がり、自ら漫画を卑下する者もいる。
かつてわしが『ゴー宣』で、漫画によって知識人やマスコミに闘いを挑み始めた時も、 「漫画なんて所詮、雑誌の中の『刺身のツマ』みたいなものじゃないか」 といってわしを批判(?)した漫画家がいたほどである。
わしは常に雑誌の看板になろうという意欲で描いているのだが、といっても、自分の漫画を「刺身のツマ」と考える漫画家がいてもいいのだが。
繰り返すが、宮沢氏のように一切説明をせず、権威が言ってるんだから正しいんだ、それに異議を唱える者は抹殺されるのだというのが権威主義だ。
それは、中国において 「天安門事件などというものは、歴史上存在しない! なぜなら、中国共産党がそう言っているから! 権威ある中国共産党が言っていることは全て正しい! もう結論は出ている! それに異を唱えるような不埒な奴は、抹殺される!」 と言っているのと全く同じである。
宮沢氏は中国共産党と同じで、民衆の意見や異議申し立てなんか、暴力で踏み潰せばいいとしか思っていない。
そして、このような権威主義に基づく体制をとっている国を 「権威主義国」 というのだ。
もちろんロシアなどは権威主義国の最たるもので、 プーチンが白と言えば白、黒と言えば黒。これに一切の疑問を持つことは許されず、異議を唱える者は抹殺される。文字通り、毒を盛られて抹殺されることすらあるのだ。
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
〇 ゴーマニズム宣言・第466回「権威主義とは何なのか?」
前にも解説しましたが、菊池寬「形」について。
戦国時代、摂津国の半分を治めていた松山という領主の侍大将に、中村新兵衛という槍の名人がいました。彼のトレードマークは猩々緋(しょうじょうひ)の服折りと唐冠纓金(とうかんえいきん)の兜でした。
あるとき、元服したばかりの松山の側腹の子、つまりめかけの子が新兵衛に初陣の祝いとして、新兵衛のトレードマークの上記2品を貸してくれないか、と頼みました。新兵衛は快諾し、ただし、自分の服折りと兜は「形」であるから、覚悟して身につけてくれと言い添えました。
翌日、松山の妾腹の若侍は筒井順慶の軍に一番槍をあげ、手柄を立てました。それを見ていた新兵衛は感心し、自分の「形」がこれほどの威力を持っていることに誇りを持ちました。
しかし、二番槍を新兵衛が入れたところ、敵は抗戦し、新兵衛は苦戦しました。つまり、敵は一番槍の怨みを、その日違った鎧を身につけていた新兵衛に復讐しようとしたわけです。新兵衛は必死で戦いましたが、敵はひるまず、彼が迂闊に自分のトレードマークの武具を貸してしまったことを後悔した時、彼の脇腹を敵の槍が突き刺していました。
これでこの話をするのは三度目か四度目なのですが、先に記した際には、玉川徹のことを批判したものであり、テレビ朝日やモーニングショーが猩々緋や唐冠纓金であるという趣旨だったように記憶しています。つまり、本人にいくら実力があっても、その実力の成果は放送局や番組のものとして計上されるわけで、本人には還元されない場合がある、ということです。
すなわち、「権威」とはそのような連綿とした「形」として生まれるわけで、個の努力は全体の結果に繋がるわけで、みやざは氏の研究も、京都大学のものとして判定される、あるいはその集団の中に所属していたからこそ為し得たものだという判断をされるのではないか、だから人間は「権威」を重んじ、それに従うのでしょう。
その通りですし、皇室の権威は歴代の天皇陛下の治世の賜物でもあるわけですが、しかし、それでは物の本質を誤る場合もあります。「長いものに巻かれろ」となって、自分の判断力、事象に対する思考力を失ってしまう場合です。ブランド信仰はその社の出す製品なら信用がおける、買っても損はないだろうと自分でその商品を調べ、勉強することを怠らせ、私たちは結果として缺陥品(けっかんひん)をつかまされたと地団駄を踏む場合だってあるわけです。
日本人が「権威」に弱いのは昔からで、江戸時代に庶民や大名が系図を作成する際に、こぞって「源平藤橘」の氏に繋がるようにしたというのはいい事例であると思います(ある意味、自分で豊臣「氏」を賜与されるように仕向けた秀吉は改革者であったろうと思う。ちなみに、あれは正確には「とよとみ の ひでよし」だそうです)。だから、皇室の血を引いている子孫がいると、あたかも「世も世なら皇族」と人を惑わせ、男系継承が可能であるかのような判断ミスを知識人や政治家などに犯させる結果をも招いているわけでしょう。
東京大学や京都大学の権威や伝統は明治になってからのもので(東大のルーツは江戸時代の「昌平坂学問所」まで遡ります)、「帝国大学」という戦前の制度によるのですが、現代でもその伝統は継承され、威力を発揮するのだから、歴史が与えたものですが、悪いいいかたをすれば「陋習」でもあるわけです。確かにこれらの大学に入学するには「受験勉強」が必要で、螢雪時代、ではない蛍雪の功を積むことになるのでしょう。しかし、努力する方向を間違ったり、その「看板」に安住すると人間は堕落し、レベルを落とすわけです。
長々記しましたが、私自身はあまり大学の名前で得をしたことはないです。確かに最初に入社したところや、そののち長く勤めたところは大学のネームヴァリューで受かったのだろうと想像しますが、その後は、仕事の成果や姿勢、人間関係などで評価されます。そもそも、会社には「試用期間」があり、三ヶ月位その人間がその社に適した人間か判定する期間が設けられています。それを過ぎても失策があったりすると仕事を続けづらくなったり、社長のワンマン会社では「首切り」が行われる場合もあるわけです。だから「契約書」が重要になったりもするのですが、あくまでも「大学名」は入社のきっかけ程度のものにしかならず(それだって、はたからすると凄いということなのでしょうが)、要は本人の「人格」や「実力」なのだろう、いざというときの咄嗟の行動だろう、そういうものを自分は持ち合わせていないから、仕事が長続きしなかったのだろうと反省しています。会社とは、社会とはそういうものです(今のコロナ禍はその仕事の「機会」さえも奪っているわけですが)。
宮沢なんとかさんの場合も、大切な研究成果の発表会で自己の所業で会を台無しにしてしまったのだから、自業自得で、それで人物の全体像を評価されても文句は言えないでしょう。それをくつがえすには、それ以上の努力と、迷惑をかけてしまった人への心からの誠意を見せることが必要で、その礼節をかいている時点で人間失格です。彼には他者に貸し与える「猩々緋」や「唐冠」すらないのではありますまいか。
記すのに飽きてきたのでここまでにしますが、私たちは社会は「個」だけでは動くものではないけれども、「肩書き」だけで点数をつけられるものでもなく、すべてはその人間の「これまでの行動」や、「肝腎な時の反射的なもの」によっても評価されることを肝に銘じておかねばならないと思います。そのためにも、表面上の「権威」ではなく、物事の「規矩準縄」(きくじゅんじょう、昨日のとある試験でできなかった「言葉」なので、使ってみました)を持つべし、手本や基準となるべきものを明確にせねばならない、と思います。日々研鑽し、励むことこそ肝要でしょう。
長くなり過ぎたので、ここで区切ります。
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