希蝶さん のコメント
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第501号 2024.4.16発行 「小林よしのりライジング」
『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりが、Webマガジンを通して新たな表現に挑戦します。
毎週、気になった時事問題を取り上げる「ゴーマニズム宣言」、『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成してもらう読者参加の爆笑企画「しゃべらせてクリ!」、著名なる言論人の方々が出版なさった、きちんとした書籍を読みましょう!「御意見拝聴・よいしょでいこう!」、読者との「Q&Aコーナー」、作家・泉美木蘭さんが現代社会を鋭く分析「トンデモ見聞録」や小説「わたくしのひとたち」、漫画家キャリア30年以上で描いてきた膨大な作品群を一作品ごと紹介する「よしりん漫画宝庫」等々、盛り沢山でお送りします。(毎週火曜日発行)
【今週のお知らせ】
※「ゴーマニズム宣言」…4月5日、陸上自衛隊第32普通科連隊が、公式X(旧ツイッター)に、「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島において開催された日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式に参加しました」という投稿をした。ところがその3日後となる8日、朝日新聞が『「大東亜戦争」陸自連隊投稿 Xの公式アカウントに』と題する記事を載せ、左翼マスコミらが騒ぎ出した。そして同日午後には、同連隊は「大東亜戦争最大の激戦地」「英霊」などの言葉を削除して再投稿。左翼マスコミのキャンセル・カルチャーにあっさり屈したのである。考えてみれば、日本のマスコミは戦後一貫して欧米の手先となり、キャンセル・カルチャーをやってきたのだ!
※泉美木蘭の「トンデモ見聞録」…引き続き、腐敗と不祥事の巣窟となっている神社本庁について書いておきたい。実態を調べていくと、「田中恆清総長こそが元凶」と思えてくるが、実は、神社本庁の異常性は「田中前」からも現れていた。山口県の南東部、室津半島の先端にある中国電力「上関原発」にまつわる話だ。言うまでもなく、安倍晋三の地元である。上関原発の建設計画が浮上したのは1982年のことで、それから工事着手までかなりの長い年数、反対運動が継続されてきた。その中心となったのは、原発建設予定地に古くから建っていた四代正八幡宮だ。原発建設を巡る四代正八幡宮と神社本庁の戦い。どちらが「真の愛国者」か、一目瞭然である!
※よしりんが読者からの質問に直接回答「Q&Aコーナー」…自分の作品がイケメン俳優&美人女優のキャスティングで舞台化&ミュージカル化されるとしたら?女性が年をとっても白髪を染めたがるのは何故?「父(もしくは母)に似ている」と言われて反発する気持ちを抱いたことはある?この堕落の底からの日本の復活は国民次第であり得ると思う?Instagramで美女画像を漁り過ぎたせいで、その辺で知り合う女性に全く恋愛感情を持てなくなった!どうすれば良い!?「CO2で温暖化する」論は温暖化ビジネスでは?AIで作られた作品も、人の手で作られた作品も同じ?…等々、よしりんの回答や如何に!?
【今週の目次】
1. ゴーマニズム宣言・第530回「大東亜戦争の呼称」
2. しゃべらせてクリ!・第456回「春はとにかくめでたいぶぁい! 歓迎の嵐ぶぁ~い!の巻【前編】」
3. 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第324回「カネと権力にまみれた神社本庁」
4. Q&Aコーナー
5. 新刊案内&メディア情報(連載、インタビューなど)
6. 編集後記
第530回「大東亜戦争の呼称」 ジャニーズに対するキャンセル・カルチャーの火付け役となったイギリスBBCの記者、モビーン・アザーが再び放火をしようと来日し、日本のマスコミはみんなこれに加担した。
考えてみれば、日本のマスコミは戦後一貫して欧米の手先となり、キャンセル・カルチャーをやってきたともいえる。
4月5日、陸上自衛隊第32普通科連隊が、公式X(旧ツイッター)に、このような投稿をした。
「大東亜戦争最大の激戦地硫黄島において開催された日米硫黄島戦没者合同慰霊追悼顕彰式に参加しました」
ところがその3日後となる8日、朝日新聞が『「大東亜戦争」陸自連隊投稿 Xの公式アカウントに』と題する記事を載せ、左翼マスコミらが騒ぎ出した。
そして同日午後には、同連隊は「大東亜戦争最大の激戦地」「英霊」などの言葉を削除して再投稿。
防衛省陸上幕僚監部は削除理由を「本来伝えたい内容が伝わらず、誤解を招いた」と説明したという。だが、いったい何の「誤解」だというのか?
何の理屈もない。これは、左翼マスコミのキャンセル・カルチャーにあっさり屈しただけである。
「大東亜戦争」という言葉こそが戦後最大のタブーであり、日本最大のキャンセル・カルチャーの標的なのである!
昭和16年(1941)12月8日に開戦し、昭和20年(1945)まで戦闘が続いた 日本の戦争の名称は「大東亜戦争」である。これは開戦直後に当時の政府が閣議決定した正式名称であり、その当時「太平洋戦争」なんて言葉は存在していなかった。 日本人は全員「大東亜戦争」を戦ったのである。
日本敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は占領政策で「大東亜戦争」の名称の使用を禁止し、 「太平洋戦争」 に言い換えさせた。
その指令は占領の解除と同時に無効となり、今年でもう72年も経つのに、マスコミは今なおGHQの占領政策を頑なに守り続け、「大東亜戦争」の名称を執拗に言葉狩りしているのである。
わしが平成10年(1998)の『戦争論』で、歴史認識を語る際に真っ先に触れたことこそが、日本が戦った戦争は「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」だということだった。
そこでわしは、こう書いている。
教科書に載っているように太平洋戦争っていったら アメリカとだけ戦ったような気がするが…
日本はアジアに大東亜共栄圏を作ろうという とんでもない構想を後づけにせよ掲げて戦ったので大東亜戦争と呼んだほうがわかりやすい。
中には「大東亜戦争」と聞いただけで右翼とレッテル貼りしてくる人もいるが知ったこっちゃない
「大東亜」のほうが大・東アジアだから 戦場がわかりやすいのだ
そして、この戦争について言われる否定的な側面の数々を挙げて、それらのすべてを反省したとしても、
それでも有色人種を下等なサルとしか思ってなくて 東アジアを植民地にしていた 差別主義欧米列強の白人どもに…
目にもの見せてくれた日本軍には
拍手なのである!
と描いたのだった。
戦前は東アジアのほとんどが白人欧米列強の植民地とされ、熾烈な人種差別がまかり通っていた。
それを払拭し、アジア人のためのアジア、「大東亜共栄圏」をつくることを目指したのが「大東亜戦争」である。
これは、わしが勝手に歴史を捏造して言っていることではない。
当時の日本人全員の常識だったのだ。
例えば詩人・彫刻家、高村光太郎は開戦2日後の昭和16年12月10日、次の詩を書いている。
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!
桐壺更衣のいまはの際の歌、現代語訳も57577になっていて、新鮮でした。とてもうまい意訳だな、と。最後まで生きようとした姿勢は、それこそTARAKOさんみたいな感じもします。
少し補足。「いか」というのは「行か」と「生か」の掛詞で両方の意味。つまり、桐壺更衣さんが行きたいと思っている、あるいは生きたいと願っている、というような意味。あと、私の所有している本では、「悲しき」になっています。「まほし」とは「たし(たい)」と同じ意味で、「あらまほし」(あって欲しい→望ましい、理想的な)という形容詞に痕跡が残っています。
帝と桐壺更衣の恋は身分格差のある禁断の恋みたいなもので、桐壺(淑景舎、しげいしゃ)は内裏の中でも天皇の住まわす清涼殿にもっとも離れた場所にあり、清涼殿と隣り合っている弘徽殿に比べて「雲泥の差」の待遇だったみたいです。おまけに、更衣の場合、父親は既に死去、母親の北の方のみ存命で、右大臣(光る君でしたら、かつて藤原兼家がそうだった)にあたる弘徽殿女御の実家よりもハンディキャップの大きい立場だった…わけです。
それだけ更衣は、弘徽殿女御を含む後宮の女性たちの嫉妬の渦の対象となった、というわけなのでしょう。だから心勞も大きかったわけで…気の毒です。
あと「高麗の人相見」(高麗人〔こまうど〕のかしこき相人〔そうにん〕)なのですが、これは「朝鮮半島の人の人相見」ではなく、「渤海の人相見」になるそうです。この時代、宇多天皇が醍醐天皇に与えた『寬平御遺誡』(かんぴょうのごゆいかい)というのがあり、その中に宮中で外国人に直接会ってはならないというきまりがあって(寛平9年、西暦898年)(そのために、源氏は皇族の身分を隠し、右大弁の息子という名目で、鴻臚館へ出向いて占ってもらった)、
菅原道真が遣唐使の廃止を建議したのがその3年前、
そして、唐滅亡907年、渤海(ぼっかい)滅亡926年、高麗(こうらい)建国918年、新羅滅亡935年なので、
時期的に高麗人(こうらいじん)の来日とは考えにくいわけです(『源氏物語』本文には「宇多帝」という語が登場します)。
実は一般に「高句麗(こうくり)」という名前で学習される朝鮮半島の三国時代の国家は、のちに「高麗」と国号を改めており、(『日本書紀』によると)「髙麗(こま)」と呼ばれていたそうです。新羅を併合し、統一王朝を建国した方の「高麗」も、もともとは「後高句麗」で、あやかって命名された国号らしいです。
そして…『続日本紀』には渤海のことを藤原仲麻呂などが「髙麗」と呼んでいる箇所が存在し、日本の律令国家が「渤海」を「高句麗(髙麗)」の後継国家として認識していたことが分かります(『続紀』の別の箇所では「渤海」とも記述されています)
つまり、この「高麗人」は満州人、あるいは朝鮮半島北部の人というような感じになります。
…なんてことは、別にどうでもいいのか…。要は大陸の北部の人、みたいな認識でよいのかも。「參れる中に」(来朝した中に)という条件さえなければ、唐に滅ぼされ、亡国の民となった(旧)高句麗、髙麗(こま)の人なのかも…。
そして、第一皇子の方が皇位継承で優先されたのは…直系の論理からしても妥当だったのでは。実際の日本の皇室は、それでもめるのですから(持明院統と大覚寺統など)。
ちょっとつまらない知ったかぶりをしてみましたが…源氏もかなり悲惨な境遇だったのかな。三歳で母親を、祖母も六歳でなくなり、高麗人の相人との面会の件でも…苦労しているわけですから。
ちなみに、「光源氏」というあだなは、(人相見かどうかは知りませんが)高麗人が名づけた、とあります。そして、元服し、左大臣家の婿になっているのだから…『光る君へ』の藤原道長の立場ともクロスしているわけです。
…長くなってきたので、一休みします。つづき(第二回)はまた改めて。
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