na85さん のコメント
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(号外 2015.01.13) ゴーマニズム宣言
「『表現の自由』を原理主義にするな!」
フランスの週刊新聞襲撃事件に対しては、朝日から産経まで「 表現・言論の自由を守れ 」の大合唱である。
世界各国が連帯してアルカイダ系のテロ集団を非難し、新聞社に同情している。
だがわしはその反応に居心地の悪さを隠せないのである。
フランスという国が、根本的に日本と価値観が違うということはわかってはいたが、こうも露骨に違うと確信できる日が来るとは!
一年前にパリに行っていて良かった。今からは危なくてしばらく行けない。
襲撃された「シャルリー・エブド」は、2006年に物議をかもしたイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことで有名な新聞で、その後も「言論の自由」を掲げ「タブーなしの編集方針」を貫くとして、イスラム教をパロディ化する風刺画を載せてきた。
襲撃犯はそんな同紙の編集会議に押し入り、「預言者のかたきだ」「神は偉大なり」などと叫んで銃を乱射、編集長や編集関係者、風刺画家など12名を殺害したのだった。
それにしても、宗教のパロディは「表現・言論の自由」の名の下に、無制限に許されるものなのだろうか?
確かに日本人は宗教のパロディをタブー視する感覚がゆるいようで、イエスとブッダが俗っぽい若者となって下界に現れ、安アパートに住んで日常を送るという、ほとんどナンセンスなギャグ漫画がヒットするほどだ。
だがそんな日本でも、イスラム教のパロディだけは許されない状態になっている。1991年には、ムハンマドを題材にしたイギリスの小説『悪魔の詩』を翻訳した大学助教授が殺害され、犯人は未だ明らかになっていない。
上述の漫画でも、様々な宗教をネタにしているにもかかわらず、イスラム教に関しては言及すらしていない。
怖いからイスラム教に触れるパロディはやらないというだけのことなら、日本人はすでにテロに屈しているということになる!
フランスでは、「言論の自由」が最高の価値だという。
1月9日の産経新聞1面コラム「産経抄」は、やたらとフランスを称賛していた。「 フランスといえば、『自由』『平等』『博愛』を国の標語としている 」「 何より3つの標語を守るために、戦いを恐れないのが、フランスである 」とした上で、「 『イスラム国への攻撃に参加すれば、標的になってしまう』。こんな声が識者から上がるような、ヤワな国ではない 」と讃えるのだ。
一応言っておくが、「博愛」は誤訳であり、正しくは「友愛」、もっと厳密に言えば「同胞愛」である。
こんな時だけ産経新聞はフランスを賛美するが、イラク戦争にフランスが反対した時には、ボロクソにけなしたことを忘れたのだろうか? このご都合主義がすさまじい。
要するに、親米ポチ派にとっては、アメリカと歩調を合わせているフランスは大好き、アメリカに逆らっているフランスは大嫌い、ただそれだけなのだ。
産経新聞はフランスと同調して、「言論の自由」を最高の価値であるかのように主張しているわけだが、わしはそこに違和感を覚える。
そもそも「言論の自由」を、最高の価値にしてしまっていいのだろうか?
ネトウヨに「言論の自由」を許した結果、行き着いたのがヘイト・スピーチではないか。
ヘイト・スピーチまで「言論の自由」を盾にして守ってはいけない。 やはり公共の福祉に反するような言論は許されないのだ。
そうすると、イスラムの側の論理もわかる。彼らの公共に関わることまで愚弄してはならないのである。
日本でも何年か前までは、天皇陛下や皇室を侮辱する作品が発表されると、右翼団体が出版社に圧力をかけたり、襲撃したりしていたものだ。
もちろんテロは法的には許されないのだが、天皇を敬愛する者からすれば、何も知りもしないで、偏見だけで天皇を侮辱するような行為を許せないと思う。その尊皇心は否定できない。
皇后陛下を失声症に追い込んだ週刊文春のデマ記事だって、「表現の自由」で許される範疇を超えていた。なにしろ「言論の自由・表現の自由」を持たない皇室に対して、デマで非難していたのだから、「表現の暴力」である!
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「言論の自由」が原理主義と化し、互いに「原理主義の宗教同士の対立」になっているという、よしりん先生の分析は本当に見事で、すっと腑に落ちてきました。欧米諸国はキリスト教という一神教を国教とする国々だからかもしれませんが、「言論の自由」でも「民主主義」でも、その価値を奉じる人々の中に犠牲者・殉教者が出たら簡単に一神教的に原理主義と化して全欧米が連帯できてしまえるようです。9.11後の米国が国内世論を「テロとの戦争」で統一したように。あの時も今回も、一神教VS民主主義ではなく、一神教VS一神教の戦いになっていたと考えればスッキリします。
ある特徴を有する人々の集団がテロを敢行する理由として、自分たちの公共に関わることが脅かされた場合だというのも非常によく解ります。その公共性の源泉となる文化は各集団によって異なり、イスラム者の場合は宗教の占めるウエイトが非常に大きいわけです。言論の自由という価値観を原理主義的に掲げてしまって相手の文化、特に命がけで信仰している対象を愚弄すれば報復されて当然でしょう。テロは法的には許されないのが一般的ですが、公共性を守るためのテロは道徳的にやむを得ない場合も有ると考えます。
また、現在ではグローバリズムという価値観も原理主義となっている感があります。グローバリズムは、大国に本拠地を置く大企業群が、その大国の民主主義を歪めて政府を操り、企業活動に有利なルールを他国に対し押し付けたり、時には戦争を志向したりして利益の最大化を図り、自他の国の政府を抑えつけながら世界中の民を虐げ搾取し、結果として世界中の富を特定グローバル企業に集中させるという、大航海時代以来の帝国主義が変形したものだと言えます。日本の公共性に対してもTPPという形で現実的な脅威が目前に迫っています。
このグローバリズムも様々な人間集団に対して公共性の侵害を為すものですが、これに対して起こされたテロがグローバリズムの象徴ともいえるWTCビルに航空機を特攻させる9.11だったと思われます。その後これは欧米民主主義VSイスラム原理主義という括りで「テロとの戦争」に発展しましたが、本当の対立軸はグローバル企業群とその利益を図る大国政府VS虐げられた世界中の民という括りであるはずです。オキュパイ・ウォールストリートや欧州の反格差デモ、あるいはアラブの春などがその正統な後継者のはずです。しかし公共性を守るための戦いは判りやすい対立軸に単純化され、今回もまた欧米VSイスラムの対立軸に絡め取られそうな気配です。
持てる者と持たざる者との戦いという対立軸が歪められ、文明VS野蛮という判りやすいものに絡め取られる図式は、大東亜戦争(米国の反日政策に反抗)からチベット・ウイグルの独立運動(中共の圧迫への反抗)、イスラム者によるテロ(グローバリズムに反抗)にまで共通しているように感じます。持てる者が勝ち続け、持たざる者から搾取し続ける構造を維持したいというグローバリストの私欲と、それに対し自分達の公共性を維持するためには戦わねばならないという追い詰められた民の掲げる正義との対立です。
かつての日本は、米国による石油禁輸、日系人の資産凍結、ハルノートによる全てのアジア権益放棄の要求といった度重なる不当な要求に耐えかね、公共性を守るため対米戦争を起こしました。しかし、戦争継続に限界を感じ降伏を受け入れる際、降伏条件において日本の公共性の源泉である皇室の維持をあいまいにされ、逡巡した隙に原爆を2発落とされました。この恨みは本来絶対に忘れてはならないはずですが、日本の政府もマスコミも米国に尻尾を振り続けて早70年になります。
さて、シャルリーエブドという週刊紙は質の良くない大衆紙で、スキャンダリズムに流れやすいという印象を持ちました。このようなマスコミの劣化には、やはり貧困化や移民の増加(イスラム系を含む)といったグローバリズムが強く影響していると感じます。フランスは、トマ・ピケティという正しくグローバリズムを批判する経済学者もいたりして大いに尊敬するのですが、グローバリズムという病に侵食されれば「言論の自由」や「民主主義」が原理主義化し、異なる原理主義との間で戦争を起こし、あっという間に世界を危機に陥れると判りました。このまま世界大戦に雪崩れ込んでも驚かない状況になってきました。人類は進歩できないのか、裏に居る陰謀家が巧妙なのか、一体どっちなのでしょう。
このようなタイミングで『新戦争論1』!心して待ちます na85
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