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magomeさん のコメント

号外の配信ありがとうございます。

いじめについてはゴー宣の読者たちがどのような考え、感想を持っているのか読み始めて、皆、様々な苦悩と今後の警戒心を抱いているか改めて知ることとなりました。子を持つ親の感想などは本当に説得力がありますし、苛めによってつらい体験をした方々の感想もまた、人々にとって深刻な傷を残すと改めて感じました。
自分自身の正直な感想を書こうかどうか迷いましたが、皆様の感想を読んでよく考えた結果、書き込もうと決めました。以前にいじめについて自分の正直な感想を述べたら
「自殺してもいないのに『深刻ないじめにあい、つらい思いをした』なんて言う資格はない」
なんて言われましたもので

まず、今回の事件についてですが、いじめ自殺事件が大きく取り上げられるたびに「日本は健在だ」と不謹慎ながらも思ってしまいます。なぜなら、本当のグローバル資本競争原理主義に陥ってしまうといじめ自殺も「自己責任」としてほとんど大きな事件として報道されなくなります。今後、もし、グローバル資本競争原理主義の習慣を国民一人一人にまで課していき、教育や子育ての現場にまで浸透すれば間違いなく今回のようないじめ自殺事件があったとしてもほとんど大きな事件として取り上げられることはなくなるでしょう。なぜなら、自殺してしまうまでに相手を追い詰めても自らが手を直接下さない限り、競争の一環として見なされるからなのです。これは教師や学校問わず、教育体制そのものが競争原理にさらされるからで、激烈な競争の中では自殺した人は存在そのものがなかったことにされ、忘れ去られてしまう構造となるわけです。
今回の事件は競争原理主義とは直接関係はありませんが、国がもし教育現場や地域共同体にまでTPPなどのグローバル資本競争原理を持ち込めば、間違いなく、いじめや自殺はもはや当たり前であっても個人による責任としてしか処理されなくなるでしょう。
私個人の経験からすれば、私自身は小学校後半から中学までは私立、高校からは大学までは公立でしたが、私立の教育とは競争原理を徹底的に教育現場に取り入れた学校で、規律は厳しいものの規律を守れば何をやっても許されるか、もしくは学校外で起こした出来事は自分で責任を取るという姿勢でした。よって、いじめがあっても規律の外と教師が見なせば見て見ぬふり、もしくは教師も問題を起す生徒はいじめられる生徒と見なし、徹底して自主退学を迫るなどして排除しようとします。よって、いじめの相談をしようものならその時点で「学業についていけない学生」として強制的に特殊教育機関に転校させられ、特殊教育機関で教育を受けたという学歴を一生背負わされてその後の進学、就職に絶対的な悪影響を及ぼします。このように個人の尊重なき個人主義と競争原理を徹底的に実施した教育でしたのでいじめにおける問題は公になることはなく、公になる前に強制的に自主退学、転校させて「問題なし」とされました。
私立となると教師の給料も雇用も安定しないことから教師も自分のことを考えるだけで精一杯でとてもいじめに関わっている暇もなく、結局、いかなる深刻な問題も教師の仕事に関わらない限り自分で処理をしなければならないわけです。むしろ、教師に行っても教師は中途半端な指導しか決まってしないので逆効果であり、生徒もまだ言葉で上手く伝えることが出来ないことから親に行ってもどうしても解ってもらえず、特に親が共同体がしっかり維持されていた学校での教育を受けた場合、まったく解ってもらえません。
よって、このいじめを避けるには二つしか方法がなく、一つはいじめる側に何が何でも加わるか、警察がでてくるほどの喧嘩をして問題をおこして他の生徒を恐れさせ近寄りがたい存在にするのかの方法しかありません。

話を岩手のいじめ自殺事件に戻しますが、自殺した村松亮君が東京都から来たことと、現場が岩手県だったことに起因があるのではと思いました。大都市から遠い地方に行って暮らせばわかりますが、地方ではいまだに東京などの大都市に対する劣等感が色濃く残っている所があり、東京都から来たというだけでやたらと地元自慢をしては地元の人々が集まると排除しようとします。その一方で東京に無理に近づこうとする一種の分裂した劣等感を持ち、それが閉塞感と相まって自分とはすこし違う東京都から来た村松亮君に対して集団で排除し救わなかったという部分もあるのではないのかと思いました。
実は進んだ大学がかつての栄光が見る影もないほどに落ちぶれた単科大学で、ならう教育も社会において需要が極端に少なくなってしまい、存在が危ぶまれるほどの大学だったのですが、この大学でも余所から来た人に対して、学生も教員も排除するという傾向が強く、いじめも頻繁に行われていました。後にこの大学は合併、消滅しましたが先行き解らぬ閉塞感と落ちぶれたという劣等感がいじめとなって表れるということはよくあることで、今回のライジングで取り上げられた事件でも劣等感とその劣等感から来る閉塞感、そして壊れた共同体よって生じた殺人事件を読んで改めて思い、書かせていただきました。今回のライジング号外を読んで、いじめについて自分自身の正直な感想を述べましたが、やはり、他の人のコメントを読むと改めてよく考えさせられます。
No.104
113ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
(号外 2015.7.21発行) ゴーマニズム宣言 「岩手中2自殺事件は凶悪犯罪である」  岩手県矢巾町の中学2年男子、村松亮君がいじめを苦に列車に飛び込み自殺するという事件が起き、学校の対応などを巡って論議となった。  またしても起きてしまった、中学生の子供が犠牲となる痛ましい事件であり、これ以上このような事件を続発させないためには、事件を未然に防げなかった最大の責任者を、特定する必要があると思う。   今回の場合それが誰かといえば、やはり巷で囁かれている通り、亮君の担任である30代の女性教師を特定せざるを得ない。  既に多く報道されているが、亮君からあれだけはっきりしたSOSのサインが出されていたのに見過ごしていたのだから、あまりにも鈍感すぎたと言うしかない。  子供の最も身近にいる存在は親なのだから、いかなる場合でも、いじめ自殺を防ぐ責任は第一には親にあるという意見もあるが、今回の事件では、どうしても教師の感受性の鈍さが目立ち過ぎる。   今回は亮君の人並み外れた優しさに、父親から教師まで、甘え過ぎていたゆえに起こった悲劇である。  亮君が小学3年の時に、両親は離婚している。父親から暴力をふるわれた母親が、亮君と2人の妹を連れて東京に逃げたのである。父親がDVならすでに責任の一端は担っていることになるから、単なる被害者ではない。  しかし亮君は「おじいちゃん、おばあちゃんやパパが心配だから帰りたい」と言い出し、両親が相談した上で、1人だけ岩手に帰った。  だが、それでも亮君は父親との折り合いが悪かったようで、小5の冬休みに母親に「ママ、助けて」と電話をかけ、一旦は母親が東京に連れ戻している。  ところが、そんな状況でありながら亮君は自ら「ママには妹たちがいる。でもパパにはオレしかいない」と言い、4日後には岩手に帰って行った。  亮君は自分がどんな思いをしようと、それよりも父親のことを優先させて考える子だったのだ。たとえその父親が母親に暴力をふるい、自分にもつらく当たるような人物であったとしても。  岩手で同居していた祖父は「亮は同年代の子と比べるとちょっと幼い。純粋すぎるけど優しい子だった」と語っている。  世の中には、とてつもなく優しい心を持った子供がいるということを認めるべきで、わしの『おぼっちゃまくん』を読ませてあげれば、少しは人間の邪気も吹き込めたかもしれない。  亮君は、自分は父親の寂しさを癒そうとして帰ったのに、自分のために迷惑をかけたりしたら、意味がなくなってしまうという気持ちをずっと持っていた。  だからこそ、どんなにいじめを受けていても、父親にだけは決してそれは言えなかったのである。  ただし一度だけ、亮君はバスケ部の同級生Aにいじめられていると父親に言ったことがあり、父親は学校に相談して対策を求めている。  このとき学校は、バスケ部の顧問と担任、そして亮君と同級生Aで話し合いを行い、問題は「解決」したという。   だがはっきり言って、この時の学校の対応は決定的に間違っている。   学校は加害者と被害者を同等に扱い、両者の話し合いで「解決」したと思い込んだのだ。だが、凶悪犯と被害者を同じ席で話し合わせたって、問題の解決になど絶対になるわけがないのである。凶悪犯はその場しのぎで、どうとでも嘘をつくのだから。  ここで亮君を優しすぎる少年とし、加害者を凶悪犯と見做すのは、単純な善悪二元論で、印象操作だと言う者もいるだろう。誰の心にでも善意の部分が宿り、悪意の部分も宿っているのは当然だが、そんな相対化は問題の解決に何も寄与しない。 
小林よしのりライジング
常識を見失い、堕落し劣化した日本の言論状況に闘いを挑む!『ゴーマニズム宣言』『おぼっちゃまくん』『東大一直線』の漫画家・小林よしのりのブログマガジン。小林よしのりが注目する時事問題を通じて、誰も考えつかない視点から物事の本質に斬り込む「ゴーマニズム宣言」と作家・泉美木蘭さんが圧倒的な分析力と調査能力を駆使する「泉美木蘭のトンデモ見聞録」で、マスメディアが決して報じない真実が見えてくる! さらには『おぼっちゃまくん』の一場面にセリフを入れて一コマ漫画を完成させる大喜利企画「しゃべらせてクリ!」、硬軟問わず疑問・質問に答える「Q&Aコーナー」と読者参加企画も充実。毎週読み応え十分でお届けします!