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【第156回 芥川賞 候補作】『キャピタル』加藤秀行
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【第156回 芥川賞 候補作】『キャピタル』加藤秀行

2017-01-12 17:30


     肌寒いバンコク。
     ほとんど定義矛盾だな、早朝から路地に降る雨を見つめて思う。窓の下の袋小路はすでに水没している。寒くて、雨ばかり降っているバンコクに来たがる人がどれほどいるというのか。
     まだこの部屋に住んでから三日も経っていない。二十畳以上あるリビングを見回す。奥にはプールが見える。朝六時、気温二十度を切る雨の日の朝からプールに入る人などいないのだ。広い水面を雨がたたく。脇に植えられた南国植物から絶え間なく雨粒が滴(したた)っている。気づくと、さまざまな水音がする。僕がバンコクに入ってから一日も欠かさず朝に雨が降っている。
     まあいい。こういうこともあるだろう。
     だから女が逃げたのか。巨大なソファに寝転がって、想像してみる。この部屋で雨に降り込められた女。スリップを着て窓辺でプールを眺める。コーヒーを片手に持っているかもしれない。ある日思い立ち、トランクにすべてをつめて雨の中を抜け出す。朝の暗がりの中、大通りでタクシーを呼び止める。
     リビングにその女の気配はない。彼女がここに住んでいた様子はひとつもない。僕が来たときには人の住んでいた気配というものが跡形残らず消し去られていた。空洞のような住居だった。キッチンには瞬間湯沸かし器だけがあった。
     きっかけは友人からの誘いだった。愛人のために借りていた部屋が空いている、逃げちゃったから誰も住んでない。契約は一年間だし水道光熱の準備も整っているからすぐにでも使える。もったいないから誰か住まないか。昔の勤務先のボスからその話をもちかけられた友人は部屋に帰って皆に聞いた。ホーチミンで仕事を持っている他の三人は即座に僕を見た。
     確かにそうだ。僕しかいない。
     離れる理由はなかった。ホーチミンに居続ける理由もなかった。一部屋借りて一ヶ月以上経っていた。友人がオープンしたバーのチラシは、それほど使われることもなく部屋の隅に積まれていた。もう手伝えることはなかったが、デザイナーの友人を手伝って食肉植物の写真を撮りに出かけたり、日本から来客のアテンド名目でビールかけができるカラオケの開拓をしたり、どうでもいいようなやることはいくらでもあった。やらなくてもいいことばかりだ。
     冷たいタイルを足裏に感じながらキッチンに行き冷蔵庫を開ける。後でスリッパを買いに行くか。日本茶を出して急須に入れ、瞬間湯沸かし器のスイッチを入れる。
     雨だな。そして朝の六時だ。どこに行くことも無い。雨音の中、湯の沸く音が響く。
     リビングでチャットが入った音がする。
     朝の六時に入ってくるチャットなど碌(ろく)なものがない。茶を飲み、さらに水位を上げた袋小路を見下ろす。ペプシとの共同事業を強奪した現地のコーラ会社ののぼりが重くぬれている。移動式屋台の上で猫たちが雨宿りしている。
     ちょうど一時休養を始めてから半年が経つ。良いタイミングではあったのだ。バンコクに一人で来る。他人の愛人が消えた部屋で、一人で暮らす。
     それにしてもバンコクは寒い。明らかに異常気象だ。
     初日の夜、木製の台に乗ったブラウン管型TVでローカルニュースをつけて見ていたら手袋とマフラーを買う人々の映像が流れていた。テロップに数千の数が見えたが体調を崩した人の数だろうか。バンコクで手袋を買うなんて冗談みたいだし、それがニュースになるのもさらにふざけている。
     マスターベッドルームに降りて行き毛布を探したが何も無かった。当たり前だ。バンコクで毛布を常備するわけがない。
     女は暖かい所に逃げ出したのかもしれない。タクシーは長距離バスの停留所に着き、乗り込んだバスは暖かい南のビーチに向かったのだ。金目の家財を売り払った金を握りしめ、窓の外、水平線の朝日を見ながら、新たなパトロン探しを決意するのだ。
     そしてその抜け殻で僕は寒々としている。
     ここには何もない。時計は七時前を指している。僕はまたソファに寝転がり読みかけの紀行文を開いた。
     天井を雨が叩く。部屋中が雨音で包まれている。

    ※1月19日(木)18時~生放送
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