弱いなら弱いままで。
「もっと努力しろ!」でもなく。「じゃ、死ねば?」でもなく。
ペトロニウスさんが先日長文を挙げていて、それが「才能」と「努力」についての話なんですが、これが面白かったので取り上げます。
まあ、これ、読みやすくわかりやすく書くと絶対に炎上する話題なんですが(笑)、最近はアクセスも少ないから目立たないだろうと判断してこっそり書いてしまおう。
話の発端はペトロニウスさんが「やっぱ趣味と友達がないと、しあわせになれんよねー」という記事を上げたこと。
それに対して、「正論だなー。でもこの正論によって「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人は少なくないと思うの」とコメントした人がいたらしい。
で、ペトロニウスさんはそれについて思うところを色々と書いていったわけなのですが、その背景には「成功するためには才能がすべてなのか?」というネットでくり返しくり返し話題になる問題があるわけなんですね。
この問い、仮にぼくが答えるとすると、答えはノー、「そんなわけないじゃん」です。生まれ持った才能だけですべてが決まるなんてことはありえなくて、そりゃ努力なり幸運が関係しているに決まっている。そんなことは当然です。
もちろん、努力すれば何でも成し遂げられるなんていうつもりもないけれど、同じくらい才能があったら、より努力している人のほうが上に行ける可能性は高いでしょう。ごくごくあたりまえの理屈ですよね。
しかし、一方でぼくは、実はこの問いそのものにはあまり意味がないと考えています。というのも、これ、本質的に答えようがない擬似問題なんですよ。イエスと答えてもノーと答えても問うた人は納得しない。
仮にこの問いに対してイエスと、つまり「そうだよ。才能がすべてだよ。才能がない奴はいくら努力しても無駄だよ。だから一生何もせずそのまま死んでいったほうがいいよ」と返事をしたとしましょう。
それで問うた人が納得するなら良いのですが、大半の場合はしないんじゃないかな。「一生何もせず死んでいけなんて何てひどいことをいう奴だ!」という反応がすぐに予想されます。
じゃ、それなら、「いや、才能がすべてじゃない。努力によって人生は変えられるよ。だからもっと努力したほうがいいよ」といったら納得するのかというと、これもそうではないわけです。
「努力しろなんていうけれど、努力しても成功できない人間を見捨てるつもりか!」といわれる。結局、どういうふうに答えようが問いかけた人は納得しないということ。
この問題に答えるためには、「そもそもなぜこのような問いがなされるのか?」ということを考えていかないといけないのだと思う。
そもそも、ここでいわれている「才能」とは何なのか? ぼくは、それは「確実な成功を保証するもの」として捉えられているんだろうな、と考えます。
つまり、「才能がすべてなのか?」という問いは、「生まれつき成功を保証するものを持っているかどうかがすべてなのか?」と読み変える必要があるということ。
ここで、こう問うた人は、すべての人間を「才能がある人(確実に成功できる保証を持っている強者)」と「才能がない人(確実に成功できる保証を持っていない弱者)」に分けて、お前は弱者を見捨てるのか、そうでないなら弱者が救済されるロジックを用意せよ!と突きつけているわけです。
ペトロニウスさんの論に対して、それが「正論」であることを認めながらも、「でもこの正論によって「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人は少なくないと思うの」と突きつけたツイートはたしかにその典型ですね。
これはやっぱり「「「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人」がたくさんいたら困るだろう? だから、これは論旨に欠陥があるんじゃね?」という意見として受け取りますよね。ツイートした人がどう考えていたかはともかくね。
でもね、よく考えてみたら何も困らないんですよね。だって、他人の人生なわけじゃん? 困るのは「「死ぬしかないじゃない」なかんじになる人」たちであって、ペトロニウスさんが困るべき理由は何もない。
ペトロニウスさんが間違えているならともかく、ツイートした人はかれの意見は「正論」だと認めているんだから、それで困るひとが出ても、正論をいったひとの責任じゃないよね、ということになるのではないでしょうか。
つまり、ペトロニウスさん的な「正論」によって、だれか弱い立場の人が「死ぬしかない!」と思ったとしたら、ペトロニウスさんの立場にいる人はその人に何がいえるか。
ぼくは「じゃ、死ねば?」としかいいようがないんじゃないかと、思うわけです。だって、「死ぬしかない」んだから。
――と、こう書くと、非常にひどいことをいう人として見られるんですねー。自分が強いからといって弱者を虐げる敵だ、と。
でも、それはおかしくないですか? だって、
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コメント
コメントを書く海燕さん、こんばんは。
私がもし「努力しても成功できない人間は死ぬしかないのか?」と聞かれたら、「死ぬまで努力しろ。途中でやっぱりダメだと思ったら、別の事に挑戦しろ。それでもダメだったら、何気ない日常の中に幸せを見つけろ」と答えるでしょう。それでもまだ何かつっかかってきたら、「じゃ、死ね!」としか言いようがないですが。
こういった質問をする人は、そもそもどれだけ本気で努力しているのかな?と思ってしまいます。本当の努力家は、こんな質問をしないで常に何らかの努力をしているでしょうから。もしある一面において才能が無いだけだったら、何か他のことやると思うんですよね。
また、彼らは才能うんぬんの前に、幸せの定義や基準が他人任せなのではないのでしょうか。例えば家族・友人・恋人がいること。お金(高価なもの)をたくさん持っていること。社会的成功を収めていること。容姿がいいこと。コミュニケーションに長けていること。ネット上では、これらを持たない人が自分を「不幸だ」と言っているように見えます。
でも、私は幸せの種類はこれだけじゃないだろう、と思います。今の世の中ほどいろんな娯楽や趣味、生き方が存在する時代はないのですから。では、どうやったらみんなが自分なりの幸せを見つけることができるのか?これはもう、「努力して見つける」しかないのかもしれません。
何だろうなあ。他人に「おれの人生が不幸な責任をとれ!」といってみたところでむなしいと思うんですよね。だって、いくらそういったところで、それで人生が幸せになるわけじゃないんだから。
そういう不毛な作業をしている暇があるなら、幸せになれる方法を模索したほうが合理的だと思うんだけれど、ひとはなかなかそう理屈では動かないんですねー。いや、わかるんだけれど、ふしぎな感じがします。
これってそんなに複雑な話なんだろうか。
“ べつに、ペトロニウスさんには(ぼくにも)その「弱者」たちを救ってやらなければならない理由は何もない。だって、ぼくたちが追い詰めているわけじゃないんだから。”
こいつをちょっと極端に言い換えてみると、『私は街で道に迷っている人を見かけても助けません。俺のせいじゃないし、めんどいし』って言ってるようなもんで、そりゃ『十分二十分も時間を取って分かりやすく教えろとは言わないが、一言使いやすい地図アプリの名前を教えてくれたっていいじゃん。優しくない人ですね』という反応はごく普通のものだと思う。