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海燕さん、こんばんは。
私がもし「努力しても成功できない人間は死ぬしかないのか?」と聞かれたら、「死ぬまで努力しろ。途中でやっぱりダメだと思ったら、別の事に挑戦しろ。それでもダメだったら、何気ない日常の中に幸せを見つけろ」と答えるでしょう。それでもまだ何かつっかかってきたら、「じゃ、死ね!」としか言いようがないですが。
こういった質問をする人は、そもそもどれだけ本気で努力しているのかな?と思ってしまいます。本当の努力家は、こんな質問をしないで常に何らかの努力をしているでしょうから。もしある一面において才能が無いだけだったら、何か他のことやると思うんですよね。
また、彼らは才能うんぬんの前に、幸せの定義や基準が他人任せなのではないのでしょうか。例えば家族・友人・恋人がいること。お金(高価なもの)をたくさん持っていること。社会的成功を収めていること。容姿がいいこと。コミュニケーションに長けていること。ネット上では、これらを持たない人が自分を「不幸だ」と言っているように見えます。
でも、私は幸せの種類はこれだけじゃないだろう、と思います。今の世の中ほどいろんな娯楽や趣味、生き方が存在する時代はないのですから。では、どうやったらみんなが自分なりの幸せを見つけることができるのか?これはもう、「努力して見つける」しかないのかもしれません。
何だろうなあ。他人に「おれの人生が不幸な責任をとれ!」といってみたところでむなしいと思うんですよね。だって、いくらそういったところで、それで人生が幸せになるわけじゃないんだから。
そういう不毛な作業をしている暇があるなら、幸せになれる方法を模索したほうが合理的だと思うんだけれど、ひとはなかなかそう理屈では動かないんですねー。いや、わかるんだけれど、ふしぎな感じがします。
これってそんなに複雑な話なんだろうか。
“ べつに、ペトロニウスさんには(ぼくにも)その「弱者」たちを救ってやらなければならない理由は何もない。だって、ぼくたちが追い詰めているわけじゃないんだから。”
こいつをちょっと極端に言い換えてみると、『私は街で道に迷っている人を見かけても助けません。俺のせいじゃないし、めんどいし』って言ってるようなもんで、そりゃ『十分二十分も時間を取って分かりやすく教えろとは言わないが、一言使いやすい地図アプリの名前を教えてくれたっていいじゃん。優しくない人ですね』という反応はごく普通のものだと思う。