ヘイトスピーチ関連の記事が面白くて、いろいろ読んでまわっています。これとかですね。


 このまとめの中身を解説すると、

自民党がオタクを取り込んで戦略的に成功したのだとしたら(というかそれクラックが先に言ってたことなわけですが)、オタクはすごいから俺らも重視しようとやってきたのが00年代のリベラル。全部失敗。オタク自体だめカルチャーなのでそれをつぶすカルチャーを作らねば、というのが新しいリベラル。


 反差別団体C.R.A.Cの公式アカウントのこの発言に対し、それはオタク差別ではないか、と異論が提示されたところから始まって、いろいろとよくわからないことになっている話です。

 よくわからないのですが、C.R.A.Cの言い分をぼくなりに推測するなら、「オタクを批判することは差別ではない。なぜなら、オタクであることは「変えられない属性」ではないから、「変えられない属性を誹謗中傷すること」という差別の定義には含まれない」ということになるのではないかと思います。

 ぼくは「差別」の定義を「変えられない属性を誹謗中傷すること」とすること自体に反対ですが(本人の意志で選んだ属性を誹謗中傷することだって立派な差別でしょ)、まあこの理屈はわからなくもない。

 「オタク自体だめカルチャーなのでそれをつぶすカルチャーを作らねば」という発言自体は、差別とまではいえないかな、とぼくも思います。

 しかし、問題は「ヘイトスピーチ」を社会から排除しようとしているはずの団体のメンバーが、Twitterなどの場で口汚く論敵を攻撃していることです。

 これは「ヘイトスピーチ」にはあたらないのでしょうか? かれらの理屈によると、どうもあたらないらしい。

 なぜなら、「ヘイトスピーチ」とは「社会的強者(マジョリティ)が社会的弱者(マイノリティ)に対して投げかけるもの」であり、たとえその言葉が一字一句同じであったとしても、相手がマイノリティでなければ「ヘイトスピーチ」にはならないからです。

 たとえば、ぼくがだれかに対して「このバカ野朗!」といったとする。この発言がヘイトスピーチに当たるかどうかは、その発言内容だけでは判断できません。あくまで、相手の属性(マイノリティかどうか)によって決定されるのです。

 だから、C.R.A.Cのような団体のメンバーが、しばしば論敵を罵倒していたとしても、相手がマイノリティではない以上、それは「ヘイトスピーチ」ではなく問題ないということになります。

 いま、「いや、ならないよね?」と思ったあなた、鋭いです(いや、普通かも)。ぼくもそういうことにはならないと思うんですね。

 なぜなら、たとえその罵倒が「ヘイトスピーチ」ではないとしても、「罵倒、誹謗、中傷」、つまり「暴言」であることは間違いないからです。

 「ヘイトスピーチ」に反対する団体のメンバーが「暴言」をくり返すことは問題ではないのか? ぼくは問題だと思うのです。なぜなら、「暴言」も「ヘイトスピーチ」と同じく「ひとの尊厳を傷つける行為」だからです。

 そもそも「差別」とか「ヘイトスピーチ」はなぜ悪いことなのでしょうか? それは「差別だから悪いに決まっている」、「ヘイトスピーチはひどいことに決まっている」といったレベルで決定されていることではありません。

 そうではなく、ひとの尊厳を傷つけ、名誉を毀損し、権利を破壊するからこそ悪いことであるわけです。とすれば、「ヘイトスピーチ」がその意味で「悪」なのだとすれば、「暴言」もまた「悪」でしょう。

 もちろん、「ヘイトスピーチ」は相手が弱者であることに付け込んでいるので、よりタチの悪い「悪」であるかもしれない。

 しかし、ごく当然のことに、だから「ヘイトスピーチ」は問題ありで、「暴言」は問題なしだということにはならない。「ヘイトスピーチ」も「暴言」もどちらもひとの尊厳を傷つける問題がある行為であるわけです。

 「ヘイトスピーチ」に反対するとはどういうことか。それはただ「ヘイトスピーチ」だけを問題にするのではない。そうではなく、「ヘイトスピーチ」の根幹にある悪、つまり言葉でもってひとの心を傷つけ、その名誉を侮辱することそのものに反対していくことでしょう。

 そうであるとすれば、「ヘイトスピーチ」は問題だが「暴言」は特に問題はない、ということになどなるはずがない。

 いや、自分たちはあくまで「ヘイトスピーチ」そのものだけを問題にしているのであって、実はその「悪」はどうでもいいのだ、というのなら矛盾はないかもしれませんが、それなら、いったい何を思って何のために「ヘイトスピーチ」に反対しているのか? そこが疑わしく思えて来ます。

 「差別はとにかく悪いことだからダメ」、「ヘイトスピーチは世界的に悪いこととなっているからダメ」と単純に考えて、その「悪」の本質自体は放置しているのではないか、という疑念を免れません。

 「差別」は「差別」だからいけないわけではないのです。そうではなくて、「悪いこと」を内包しているからいけないのです。ここのところがどうも理解されていないのではないかと思えてならない。

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