蔦文也は1951年(28歳)に池田高校の教師となり、翌1952年(29歳)から監督として采配を振るうようになる。そんな文也が初めて甲子園に出られたのが1972年(49歳)のときだった。つまりまだ若者だった頃から中年になるまで、丸々20年間、苦杯を舐め続けた。

しかも、この間の池田は常に県の優勝候補の一角を占めていた。けっして弱小校ではなかった。つまり勝てそうで勝てないという期間が20年間も続いたのである。これは、後に勝ち続けることによって全国にその名を轟かした姿しか知らないファンには想像しにくい。だから、強く興味を引かれる部分でもあるのではないだろうか。

ぼくは、1979年に甲子園で準優勝したときから、池田のファンである。当時11歳だった。一般に、池田が有名になったのはその3年後、1982年に全国優勝を成し遂げたときである。しかし高校野球ファンの間では、優勝する前から池田は知らない者がいな