◉大沢ケンジ師匠のプロ格談義
90年代のプロ格者であれば、初期FMWを支えたキックボクサー上田勝次のことは当然ご存知だろう。40代とは思えない分厚い身体、容赦のない蹴り、人生のすべてを悟ったかのような目つき。「上田勉」としてキックボクシングデビューした彼は、沢村忠が活躍したキックブームの最中、24歳のときに早すぎる引退。再び表舞台に姿を現わしたのは、FMWのリング。43歳のときだった。18年の空白のあいだ、上田はいったい何をしていたのか。キャバレーやノミ屋の取り立て、ヤクザとの大立ち回り、そしてケンカ相手の命を絶った右ヒジ……過激すぎる上田勝治の人生を1万字のインタビューで振り返る。
――カッコイイですね!
【上田勝次登場!】
――上田さん、今日はよろしくお願いします!
上田 ママのことも載せてやってよ。
――はい。たったいま上田さんの武勇伝を聞かせていただきました。
上田 あー、昔の話よ。
ママ いつものことよ(笑)。
――いつもなんですか(笑)。上田さんは現在70歳ですが、3・14大仁田厚興行でリングに上がりますね。
上田 家にね、サンドバックを吊るしてあるんですよ。そのサンドバックを蹴ったり、ウエイトをやったりね。いまでも毎日トレーニングは欠かしてないよ。試合が近づいたらもっと身体は絞るしね。
――とても70歳には見えない身体です(笑)。上田さんはもともとボクシング志望だったんですよね。
上田 そう、ボクシング。故郷の長崎から名古屋に出てきてね、働きながらボクシングをやったんですよ。でも、働き先の人間とうまくいかなくてね、19歳のときに東京に出てきて、中村橋のボクシングジムに通って。そのときは牛乳屋の配達をしながらボクシングをやってね。
――でも、ボクサーにはならなかったんですよね。
上田 ボクシングはね、試験(プロテスト)があってね、相手を倒したんだけど、ダメだったんですよ。そのときね、ひとりだけデカイ奴がいたんですよ。190センチ。そいつと当たったんですよ、自分。試験は基礎どおりにきちんとワンツーでやらなきゃいけないんだけど、中に入ってフックばっかやって。それで相手を倒したんだけども、テクニックが見られないということで不合格になっちゃってね。
――つまり暴れ過ぎちゃったわけですね(笑)。
上田 それでボクシングはもういいや!って。それから後楽園のね、ボディビルセンターに行くようになったんですよ。21歳の頃ね。三島由紀夫とかも来てた。
――ボクシングはやめても身体は鍛えていたんですね。
上田 うん。で、アントニオ猪木が豊登と一緒にやってた東京プロレスに面接に行ったんですよ。新聞で新人レスラー募集してたから。
――プロレスは好きだったんですか?
上田 好きだったですね。子供の頃、テレビで力道山を見てたしね。渋谷のリキ・スポーツパレスにも見に行ってましたから。(グレート)小鹿さんや大熊(元司)もいたね。
――東京プロレスの面接で猪木さんに会ったんですか?
上田 会った。新宿のね、汚いビルに事務所でね。そこに行ったら猪木さんがソバを食べてましたよ。豊登はなんかイライラして部屋の中を歩きまわってね。「あとで連絡する」って言われたんだけど、そのまま東京プロレスは倒産しちゃったね。
――もしかしたら東京プロレスに入ってたかもしれないんですね。
上田 うーん、自分の身体が小さいから「ダメかな」って思ってたんだけど。それにあのとき自分はプロレスをボクシングみたいなもんだと思ってたから。
――ボクシングと同じく競技だと。
上田 そうそう。だから身体が小さくても強かったらいいんじゃないかって考えてたんだけどね。
――上田さん、強かったんですか?(笑)。
上田 強かった。
――腕に自信があったんですねぇ。
上田 それから東長崎のね、駅前に神社があって、そこに剛柔流という空手を習いに行ったんです。
――上田さん、やりたがりますね(笑)。
上田 その頃に「タイボクシングが空手が負ける」というニュースがテレビでやってたんですよ。そんときはね、キックボクシングなんかなかったから「そんなに強いのかな」って興味があって。ちょっと経ったらね、沢村忠とか出てきて「これは面白そうだな」って。それで野口ジムがある護国寺までバイクで行きましたよ。そうしたらね、いきなり沢村とスパーやることになって。
――いきなりですか?
上田 こっちも道場破りにいったようなもんだからね。そういうことを昔はけっこうやってたんですよ。「あそこに強い奴がいるぞ」「じゃあ行くか!」って。
――カジュアルな道場破りというか(笑)。
上田 野口ジムに行ったときは自分はボクシングしか知らないから、ヒザ蹴りを食らって倒されたちゃってね。そのままジム入門したんですね。
――沢村忠の「真空・飛び膝蹴り」が上田さんの人生を変えた。劇的な展開ですねぇ。
上田 あの頃の野口ジムはボクシングとキックを両方やってたから。初めは「ボクシングをやれ」って言われたんだけど、ボクシングは前のことがあったからね、キックをやることにして。3ヵ月くらいしか練習していないのに「タイで試合をしてこい!」って。俺と沢村と品田って奴の3人でね。で、タイでデビュー戦ですよ。相手はランカーで。
――沢村忠との即スパーもそうですけど、ハードルが最初から高すぎですね。
上田 2試合やったんですよ。チェンマイで1試合、ラオスで1試合。どっちも判定で負けたけどね。もうちょっと日本で経験してから行きたかったよね。で、タイから帰ってきたらキックが大人気になっちゃって。あの頃はどのテレビ局もキックをやってたでしょ。
――空前のキックブームでしたね。
若かりし頃のキックボクサー上田勉
――月に3〜4試合!
上田 あるとき40℃の熱があったから「試合を休ませてくれ」って頼んだんですけど、マネージャーがダメだって。その2週間後にもタイトルマッチも予定されててね。
――どんな超過密スケジュールなんですか!(笑)。
上田 熱が出てるのに無理して試合をやったんだけど、やっぱり身体が動かないんだよね。そうしたらね、マネージャーが「情けない試合をするな!」って自分の頭を叩くんですよね。それで頭にきちゃってね。次のタイトルマッチを最後に辞める覚悟をしてね、引き分けで防衛したんだけど、控室でベルトを叩きつけてね、それで終わりですよ。
――キックボクシングに未練はなかったんですか?
上田 未練……あったけど、もう仕方ないから。それから川崎でキャバレーやノミ屋の取り立てとかをやるようになって。まあヤクザモンの手伝いだけど。
――ヤクザの手伝い!(笑)。
上田 キックの後輩がヤクザモンだったんですよ。そういう縁でちょっと厄介になったから。あれですよ、組には入ってないですよ。
――ヤクザの用心棒じゃないですけど。
上田 取り立てに行くときね、サングラスを掛けてね、ヤクザモンの後ろに立ってるだけですよ。暴れるわけじゃない。そんな仕事を2年くらいやってましたね。
――暴力団に入るつもりはなかったんですか?
上田 ないない。ヤクザモンの事務所には出入りしてたけど、べつに組に入る気はない。「誰かいないかな」とは言ってたけど(笑)。暴力団になった奴もいましたよ、キックから何人も。
――昔の興行は闇社会と密接な関係ではありましたね。
上田 いまの女房と結婚してからは普通の仕事で働くようになったけどね。5年くらいはまともにやってたんだけど、ヤクザモンから「屋台をやらないか」って誘われたんですよ。月5000円でね。どこで商売するか自分で場所を見つけないといけない。おかずも自分で調達するんだけど。
――なんの屋台ですか?
上田 おでん。川崎でやったんだけど、ちょっとやってやめたよね。恥ずかしいじゃない。
――人前に立つのが嫌なんですか?
上田 そうそう。結局、ヤクザモンとケンカしてやめたんですけど。
――それは屋台を貸してくれたヤクザモンですか?
上田 違う違う。
――ヤクザモンBの登場ですか(笑)。
上田 屋台には酒は置いてあるでしょ。酔っ払ったヤクザモンに絡まれてケンカになっちゃったんだよね。それで川崎から逃げて三鷹に来たんです。けっこう暴れちゃったからね。
――川崎にいられなくなるくらい暴れたんですか……。
上田 三鷹のコンクリートの会社に務めることになって、その仕事は63歳までやりましたよ。
――上田さんは24歳でキックをやめられて、43歳でFMWのリングに上がるまでリングから遠ざかってましたけど、そのあいだもずっと身体を鍛えていたんですよね。
上田 鍛えてましたね。
――それはいつかまたリングに立ちたかったんですか?
上田 なんも関係ないです。とにかく身体は鍛えたかったから。おでん屋をやる前に土佐犬を飼ってね、静岡で闘犬をやってたんですよ。闘犬をやってるとね、自分で闘う必要はないなって。
――闘争本能が満たされちゃんですね。
上田 そうそう。闘犬は面白いですね。指示通りに土佐犬が動くし、あれは自分もケンカしてる感じになるから。三鷹の家がアパートだったんで、犬は飼っちゃダメなんだけど、だから会社で勝手に飼ってね。
――自由すぎますね(笑)。
上田 会社にはいつでも練習できるようにサンドバックも吊るしてたんだけどね。
――ハハハハハハハハハハ。
上田 土佐犬の大型犬で60キロくらいあって、ドーベルマンで30〜35キロくらいでしょ。立つと自分よりでかいからね。人間のことは襲わないけど。
――飼うほうも体力がないと難しいんですね。
上田 あるとき闘犬の試合で犬の耳が噛みちぎられてね。それを見てたら、なんか闘犬もイヤになっちゃって。
――ずっとかわいがってたわけですもんね。
上田 そうなんだよね。ヤクザモンも自分の犬がほしいというから「いいですよ」ってあげちゃった。
――隙あらばヤクザモンが出てくる!(笑)。
上田 闘犬を辞めた頃からね、またケンカをするようになった。闘犬をやり始めたのは、取り立てをやめたあと。ケンカをするようになったのは、闘犬をやめてから。
――常に戦っていないとダメな性分なんですかね。
上田 吉祥寺のトレーニングセンターにはずっと行ってましたからね。そこで大仁田と知り合ったんです。で、FMWの旗揚げ戦を後楽園まで見に行ったんですけど、そのあとに新聞かなんかに「上田勝次」っていう奴がFMWに出るって載ってたみたいで。「誰だろう?」って思ってたら自分でね。自分の本名は「上田勉」でしょ。「上田勝次」って名前は大仁田がつけたんですよね。
――勝手に出場が決まって勝手にリングネームが決まった(笑)。
――誰からもプロレスの仕組みは説明されなかったんですか?
上田 大仁田も詳しい話をしない。向こうも「キックでやったら勝てない」と言うし、自分も負けるのは嫌だったから、暴れるだけ暴れて反則負けということにして。そこからプロレスはしばらくやってなかったんですけど、半年後くらいに「また出てくれ」って言われて。
――そうして仕事の合間にプロレスに出るようになったんですね。
上田 そうそう。仕事が終わってから試合に行くんだけど、一回だけ間に合わなかったんですよ。後楽園でサブゥーとやることになったんだけど。いつもは試合があるときは16時くらいに仕事が終わって会場に向かうんだけど、そんときは仕事が長引いちゃって。そんときは間に合わなくて出られなかった。
――仕事に穴を開けられないから巡業にも出られなかったんですよね? 基本的に都内近郊の興行だけの参加で。
上田 1回だけシリーズに出たことあるけどね。タッグリーグ戦とかいうやつ。
――伝説の「世界最強総合格闘技タッグリーグ戦」ですね!
上田 そのうちだんだんとプロレスのことがわかってきたんだけどね。プロレスよりケンカのほうが楽。ケンカは勢いでしょ。おもいきり殴るだけだから。
――なるほど(笑)。
上田 ケンカちゅうのは、ヒジと頭突きだけで充分なんですよ。相手に近寄って鼻っ柱にガーンとやれば相手は倒れますから。でも、プロレスは受けなきゃなんないでしょ。それは自分は無理。ガンガンやるだけだから。
――受けはできない。
上田 できない。だからね、「プロレスは八百長だ」とか言う奴はやってみろって話だよね。プロレスラーはみんな身体をおかしくするでしょ。ケガしても試合に出なきゃいけないからね。自分の場合は受けらんないからガンガンやるしかないし、おもいきり殴ったら伝わるでしょ。
――プロレスでも全力投球の殴る蹴るだったんですね。戦った選手で印象に残ってるのは誰ですか?
上田 (グレゴリー・)ベリチェフだろうね。
――おー、柔道王のベリチェフさん! 世界選手権優勝者ですもんね。