プロレスラーの壮絶な生き様を語るコラムが大好評! 元『週刊ゴング』編集長小佐野景浩の「プロレス歴史発見」――。今回取り上げるのは「大仁田厚」!! FMWの邪道プロレスで天下を取った男の生き様は、そのケレン味から好き嫌いが別れるが、虚実が入り混じった最高のプロレスを見せていることは間違いないのだ。プロレスがますます好きになる小佐野節を今回も堪能してください!
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インタビューを読む前に大仁田厚の入場曲を聞いて気分を高めるん邪!!
――今日は前回のインタビューで小佐野さんが「ゴキブリ並みの生命力を持つ」と大絶賛された大仁田厚選手を取り上げます!(笑)。
小佐野 大仁田さんは正直、猪木・馬場以降のプロレスラーの中で一番世間に名前を売ったと言っても過言ではないですよね。2012年からやっている「大花火」も全国各地で満員になって、今年からは「超花火」にグレードアップされましたし、いまの新日本プロレスに対抗できるのは大仁田厚しかいないという(笑)。
――そんな大仁田さんのデビューは1974年ですから、途中引退していた時期があるとはいえ、かれこれ40年近くやってるんですよね。
小佐野 大仁田さんに関して言えば、ボクは天龍さんより前に親しくなってますから。大仁田厚とのほうが歴史は長いんですけど(笑)。
――初めて大仁田さんに出会ったのはいつなんですか?
小佐野 私は大学生のときから『ゴング』で仕事をしていたんですけど。1981年、アメリカのテリトリーを3週間回って、その途中のテネシーで大仁田さんと渕正信さんに出会ったんです。
――海外修行時代が初対面だったんですね。
小佐野 テネシー州のナッシュビル。81年8月17日のことですね。
――日付まで覚えてる!(笑)。
小佐野 その前日にテキサスでグレート・カブキさんの試合を見たんですよ。まだカブキさんが日本に登場する前ですね。そのときにテングー(天狗の意)の名前で試合をしていた上田馬之助さんにグレイハウンドバスの停留所まで送ってもらって。そこからバスで一晩過ごして、ナッシュビルに着き、ヘアベントマッチに負けてツルツル頭の渕・大仁田組に会ったんですよね(笑)。
――印象的な初対面になったんですね。
小佐野 テネシーは反日感情が凄かった土地なんです。昔から芳の里さん、ヤマハ・ブラザーズ(星野勘太郎、山本小鉄)、ヒロ・マツダ、猪木さんら、多くの日本人レスラーが試合をしていて。あの2人もヒールとして活躍してて、当時で週1200ドルは稼いでいたのかな。
――当時のレートだと凄い金額ですね!
小佐野 2人はAWA南部タッグチャンピオンだったんですよ。その日は彼らのアパートに泊めてもらって、翌日はケンタッキー州のルイビルで試合だったのかな。行動を共にしたのは2日間だけでしたけど。
――それは『ゴング』の取材だったんですか?
小佐野 もちろんもちろん。自費で行ったんですが、『ゴング』に記事を買ってもらうというかたちで。結局、旅費は報酬でチャラになりましたけど。そのときの大仁田さんは23歳くらいかなあ。凄くホームシックになっていてね(笑)。車を運転していても「この景色は日本の◯◯に似ている……」とボヤいてるんですよ。
――それはかなり重症ですねぇ。
小佐野 その頃、日本ではツービートとかが出ていた『THE MANZAI』が流行っていて。僕は番組を録音したカセットテープをアメリカに持って行ってたんだけど、ホームシックの大仁田さんにあげたんですよ。大仁田さんが帰国してから「あのテープを何回も何回も聞いているのに笑えた」と言ってましたね(笑)。
――大仁田さんは凱旋帰国後、全日本プロレスのジュニアヘビー級のエースの座が用意されましたよね。
小佐野 全日本プロレスにNWAインターナショナルジュニア王者として凱旋するんですけどね。“炎の稲妻”アイドルレスラーの大仁田厚の誕生ですよ!(笑)。
――じつはアイドルレスラーだったんですよね。いまのファンは知らないと思いますけど(笑)。
小佐野 じつはそうなんです(笑)。アメリカでチャボ・ゲレロの王座に挑戦させるのは「大仁田か、渕か?」という選択になったとき、テリー・ファンクが大仁田さんを選んだんですけど。それはなぜかというと、客を惹きつけける力が大仁田さんにはあったとテリーは判断したと思うんです。プロレスって技術や強さで客は見ないところもあるじゃないですか。そこは言葉には言い表されない魅力に尽きると思うんですよね。
――その魅力が大仁田さんにあったんですね。
作/アカツキ
小佐野 アメリカでチャボ・ゲレロに勝ったときも、日本から来ていた倉持隆夫アナウンサーがインタビューしたら「社長、社長〜っ!!!!!」とリングサイドにいた馬場さんに向かって泣き叫んで、馬場さんも苦笑いという(笑)。倉持さんが「これで日本に帰れるよ!」と向けたら「バンザ~イ!!」と叫んでね。あの天然のリアクションは魅力的ですよ。
――大仁田劇場の素養は当時からあったんですね(笑)。
小佐野 すべての感情をさらけ出すという。ただ、あのときは新日本でタイガーマスクのブームが起きていたんですよ。81年にタイガーがデビューして、大仁田厚が帰国した翌日に、タイガーはレス・ソントンからNWA世界ジュニアを獲り、その翌日にブラック・タイガーを破ってWWF世界ジュニア王座を獲得。二冠王に輝いたわけですよね。
――とんでもない時期に帰って来ちゃったんですねぇ。
小佐野 大仁田さんが帰ってきた年のプロレス大賞MVPはタイガーマスク。あれは快挙だったんです。それまでは馬場・猪木しか獲ってなかったんですから。だからオカダ・カズチカが凱旋帰国後にいきなりMVPを獲ったような衝撃があったんですよね。そういった時代背景もあって、全日本からすればタイガーマスクに対抗するアイドルレスラーとして大仁田さんに大いに期待していたんですね。大仁田さんはその期待に応えるべく凱旋帰国する前にメキシコに渡ってトペをおぼえたりしてたんです。
――タイガーマスクのブームを意識したスタイル作りをしてたんですね。
小佐野 ジャーマン・スープレックスも覚えなきゃいけない。というのはテネシーにいたときは、日系ヒールだから技はいらないんですよ。
――極端なことをいえば、下駄で殴っていればいいわけですよね。
小佐野 パンチがうまければトップに行けますからね。でも、渕さんは常に日本に帰ってきたときのことを考えていたんですよ。だからそのあとフロリダのマーケットに移ったときカール・ゴッチを訪ねているんです。渕さんはゴッチのところか、バーン・ガニアのレスリングキャンプのどちらかでレスリングの勉強をするという計画を練っていて。
――帰国後のスタイルをすでに模索していたんですか。
小佐野 アメリカのヒール時代の渕さんはタッグマッチで必ず先発するんです。なぜなら試合の立ち上がりはヒールいえどもレスリングになるじゃないですか。そこでレスリングの経験を積むために渕さんは先発を買っていたんですよね。
――ちゃんと考えてるんですねぇ。
小佐野 で、大仁田さんが考えていたことは、いかにそのテリトリーで成功するかってことなんです。そこで成功することで馬場さんの顔を潰さない、と。海外に出してくれた師匠の顔を潰しちゃならないという意識が彼の中では強かったんですね。
――期待に応えるためにメキシコでトペを覚えたりするわけですね。
小佐野 あの頃の全日本にはウルトラセブンが出てくるじゃないですか。
――高杉正彦選手が正体のウルトラセブンですね。
小佐野 大宮スケートセンターにウルトラセブンが初登場したときは、高杉選手が「これが私が連れてきたウルトラセブンだ」と紹介したんです。中身は替え玉なんだけど、その替え玉もプロレスラー志望で、メキシコに渡ったときに高杉さんと知り合ったんです。大仁田さんがメキシコに渡ったときに、その彼と一緒に練習をしてるんですよ。その青年はデビューもしていないのにジャーマンを普通にこなしてるから、大仁田さんは「なんでオレはできないんだ……」って焦ったそうですけど。
――お話を聞くと、ジュニアアイドル路線の大仁田厚は、会社主導のキャラクター設定だったんですね。
小佐野 “炎の稲妻”というネックネームが付けられたことで、サンダーファイヤーという必殺技を編み出したんだけど、これがまだ全然説得力がない必殺技(笑)。
――ハハハハハハ!
小佐野 FMWになったときサンダーファイヤーパワーボムに進化したんだけど。当時はカナディアン・バックブリーカーで担ぎあげて後ろに投げるだけ。「いったいどこが効くんだ!?」というね(苦笑)。
――そもそもキャッチフレーズが先なんですね(笑)。
小佐野 なぜ“炎の稲妻”になったかといえば、トミー・リッチっていたじゃないですか。彼のニックネームはワイルド・ファイヤー、野生の炎だったんです。それにあやかって大仁田厚はサンダーファイヤー、“炎の稲妻”になったんですよね。それは馬場さんと、私の師匠である竹内宏介さんの合作なんですけど(笑)。
――仕掛け人は竹内さん! なんだか全日本時代の大仁田厚は、“ブレイクできなかったオカダ・カズチカ”みたいですね(笑)。
小佐野 フィニッシュホールドはブロックバスターホールドに変更して定着しましたけど。大仁田さん本人も用意された設定には苦労したと思いますよ。でも、ポジティブな方なので悩んでる印象はなかったですね。それは期待されてることには心地よかったと思います。ただ、アメリカに渡る前、天龍さんが入団したときはやめようと思ったそうなんですよ。彼は16歳で入団して苦労してきたでしょ。3~4年間も下でずっとやってきたのに、年齢は上とはいえ途中から入ってきたお相撲さんがポコっと上のポジションが与えられた。「プロレスはそういう世界なんだ……」とショックを受けたわけですよね。そういう純なところもある人なんですよ。
――いま振り返ってみてジュニア時代の大仁田厚はどう評価しますか?
小佐野 ジュニア時代はそこまで人気爆発というわけにはいなかったんです。どうしてもタイガーマスクと比較されますし、ほとんど評価はないと思いますね。というのは、大仁田さんが帰ってきたのは82年5月。翌年の4月にはヒザを壊しちゃうんですよ。
――ヒザの怪我で長期欠場しますよね。
小佐野 84年5月にカムバックしたんですけど、もうヒザが曲がらないわけですよ。だってヒザのお皿が5つに割れちゃったんですもん。
――うわあ……。
小佐野 東京体育館でヘクター・ゲレロとの試合が終わって、エプロンからリング下にポンと飛び降りたんです。それで「ウッ……」と倒れてしまった。もともとヒザが悪かったんでしょうね。おぼえてるのは、タンカで運ばれるじゃないですか。ヒザの状態を見るためにサポーターを外すと、ないんですよ、ヒザが……。
――え……!?
小佐野 へっこんでるんですよ、ヒザが割れちゃって。本人も周りも「ヒザがない!」って騒いじゃってねぇ……。
――そのケガが一度目の引退の原因になるんですよね。
小佐野 本人はまだ27歳だったんですけどね。とりあえずカムバックした当時はマイティ井上さんがジュニアのチャンピオン。8月26日の田園コロシアムで大仁田さんが井上さんに挑戦して負けちゃうんですよ。そのときに「引退をかけてもう1回挑戦させてください」と言っちゃったんですよね。それが引退のきっかけなんです。
――全日本が引退勧告したわけではないんですか?
小佐野 本人がやめると言わなければ、引退しろとは誰も言わないです。馬場さんも言わないですよ。なぜ本人がそんな発言をしたのか。その田園コロシアムで三沢光晴がタイガーマスクとしてデビューしてるんですよ。
――あー、なるほど!
小佐野 まあまあ、大仁田厚としては「もう俺の出番はないな……」と悟ったんでしょうね。
――タイガーマスクに因縁のある人生なんですね……。
小佐野 その年の12月の後楽園ホールで井上さんに挑戦して負けて、それで引退。試合後、馬場元子さんがグッズ売り場から控室の階段まで降りてきて「大仁田くん、大丈夫?」って抱きしめてね。馬場夫妻は大仁田厚がかわいかったんですよ。16歳で入門して、必ずしも優等生ではない。オッチョコチョイで馬場さんの荷物をどこかに忘れたりしてね。
――そんな少年がチャンピオンとなり、ケガで挫折をして、若くして引退するわけですからね……。
小佐野 全日本だって商売ですから、三沢タイガーという次のスターを作りますよね。そして翌年の85年1月から長州さんらジャパンプロレスが全日本に上がりますが、大仁田さんは1月3日後楽園ホールで引退セレモニーをやったんです。
――三沢タイガーにジャパンプロレス。もう大仁田厚の居場所がなくなっていたんですね。
小佐野 引退した年の6月の武道館大会でタイガーvs小林邦昭があって、小林さんが勝ったんです。そのとき試合を見に来ていた大仁田さんを小林さんが挑発するんですよ。大仁田さんは上半身裸になって乱闘にしてね(笑)。
――それは何かの伏線というわけではないんですよね?
小佐野 全然ないです。あのとき大仁田さんは「嬉しかった」んですって。「引退した俺なんて相手にしなくていいのに、なんの面識もない小林邦昭がかまってくれた。まだ同じプロレスの世界の人間として扱ってくれた」と。リアルジャパンプロレスで大仁田さんが小林邦昭を挑発してリングに上げたでしょ。それはあのときの恩返しなんですよね。
――数十年の時を経たドラマ! わかりづらいです(笑)。
☆このインタビューの続きと、草間政一、小笠原和彦、堀口恭司、斉藤仁の思い出、天龍vs神取対談、パンクラス酒井など8本7万字の記事が読める「お得な詰め合わせセット」はコチラ http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar739331