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【ピエロの狂気】矢野啓太「胸いっぱいのプロフェッショナルレスリング論」
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【ピエロの狂気】矢野啓太「胸いっぱいのプロフェッショナルレスリング論」

2015-05-01 00:01
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    プロフェッショナルレスリング・ワラビー代表のプロレスラー、矢野啓太。目前に迫った5・2REALでカルロス・トヨタとMMAルールで闘う彼は、格闘探偵団バトラーツでプロデビュー。たしかな技術とカルトな言動で、DDTから契約解除されるに至った不穏試合を含めて異端ぶりを発揮し続けている。今回の取材では、この時代に
    プロレスラーがMMAに討って出る理由を軸に矢野啓太というプロレスラーの思想に迫ってみた。



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    レイザーラモンRGが芸人として、プロレス者として激語り!
    「ラッスンゴレライから考えるスターダム不穏試合」

    ②レスリング五輪銀メダリスト太田章が話題の映画を語る
    「レスラーたちが苦闘したフォックスキャッチャーの時代」――あるいはダンヘンやランディ・クートゥアたちの物語

    ③「1976年のアントニオ猪木」著者・柳澤健のレスリング講座
    「アマチュア・レスリング まだらのルーツ」

    ④衝撃秘話! ジャイアント馬場・全日本プロレスがよみがえった瞬間――あの日、キャピトル東急で
    更級四郎×ターザン山本 
    「馬場さんに全日本プロレスの再生計画の小冊子を渡したんです。1ページ目には◯◯が△△に■■することって書いてあって」

    ⑤あの熱狂はなんだったのか? PRIDEとともに生きた時代
    雀鬼・桜井章一×笹原圭一
    「ヒクソンはね、自分が息子を殺してしまったんじゃないかという罪の意識に囚われてしまったんです」

    小佐野景浩の好評連載「プロレス歴史発見」
    三沢光晴物語ー四天王プロレスの光と影
    「いまになってあのプロレスはいけませんと言うのは酷でしょ。ありがとう!でしょう、彼らにかける言葉は」

    ⑦網膜剥離からの再起戦!
    川尻達也ロングインタビュー


    小原道由のクレイジートーク「海外遠征とは何か?」
    「ドイツ遠征のとき試合前に会場に呼ばれたんです。どうも腕試しをしたいレスラーの相手をしてくれってことで……」

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    ――バトラーツ出身の矢野選手はキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの技術を持つ一方で、アメプロ的なプロレスを魅せつつ、5月2日のREALではカルロス・トヨタ相手にMMAにも出場したりと幅広く闘ってますね。

    矢野 ボクは古いんですよ、考えが基本的に。「昔ながら」というか、古いプロレスが好きなんです。

    ――「古い」といいますと、どの時代のプロレスになるんですか?

    矢野 ボクが初めてプロレスを見たのは、友達が遊びに来たときにVHSのビデオを持ってきたんですけど。それが猪木さんの引退試合で。

    ――ドン・フライ戦ですね。

    矢野 98年ですかね。それを見て「プロレスって凄いなー!」って。その前はじつは格闘技志向だったんです。90年代前半にK−1が出てきたじゃないですか。地上波でアンディ・フグやピーター・アーツが試合をやっていて。それと同時にWOWOWでリングスを見ていたんです。前田(日明)さん、田村潔司さんがカッコよくて。それは正統派のプロレスとして楽しんでいたんですけど、猪木さんの引退試合の映像を見たときに衝撃を受けて。いろんなファイターが出てくることもそうなんですが、相手がギブアップしてるのに殴り続けたりとか。「コイツら危ない奴らじゃないか……!?」って最初は怖かったです。

    ――矢野選手は90年代のプロ格文化に接していたんですね。

    矢野 大仁田(厚)の大将もよくメディアに露出してたじゃないですか、90年代は。何かのドキュメント番組で、大将のお母さんが見守る中、テリー・ファンクと試合をするんですよ。

    ――ノーロープ有刺鉄線電流爆破超大型時限爆弾デスマッチですね。設定された時間になると、爆弾が爆発するという。

    矢野 最後に爆発するときに大将がテリーをかばいにいったりして。異次元の世界で「これはできないな」と。かといって、猪木さんの殺伐とした試合も怖い。やるとしても、もっとスポーティーなプロレスをやりたいと思っていたんですけど、だんだんとそういったプロレスに“男のロマン”を感じるようになっていったんです。それで近くのビデオ屋から昔のFMWのビデオを借りて全部見たりして。

    ――後追いでハマっていったんですね。

    矢野 後追いで“胸いっぱいのプロレス”を堪能していきましたね。

    ――
    “聖家族”の一員になっていったというか(笑)。90年代って格闘技もプロレスもゴチャゴチャしてましたよね。

    矢野 あるときピーター・アーツがnWoのTシャツを着てK−1のリングに上がったこともありましたね。そのときはnWoがブームだったこともあるんですけど「考えられない……」って混乱しました。

    ――矢野さんのお父さんがプロレスラーだったことも、プロレス志望の動機にあったんですか。

    矢野 そうですね。父親は元お相撲さんで、アルマンド・トヨタというプロレスラーだったんですけど。

    ――失礼な言い方になっちゃいますけど、お父さんの話もそうなんですが、矢野選手の情報ってどこまでがファンタジーなのかわかりかねるところが……。

    矢野 えーっと、ほとんどファンタジーじゃないですか。

    ――というと、お父さんの話もファンタジーなんですか?(笑)。

    矢野 そこはね、ボクも真実かどうかはわからなくて。

    ――実の息子でも分かりかねる!(笑)。

    矢野 だってアルマンド・トヨタの戦績を調べても全然出てこないんですよ(笑)。ボクが生まれたのは1988年。お父さんは翌年に引退したというからボクの記憶にはもちろんないんですけど。プロレスラー時代の昔話はよくしてくれるんですよ。「アイツは強かったよ」「メキシコで現地のファンに囲まれて大変だった」とか。

    ――お父さんはプロレスラー時代、中南米でご活躍されていたんですよね。

    矢野 「ドミニカは治安が悪かった」とか言ってましたよ。旅行で行ったんじゃなねーかという説があるんですけど(笑)。だってどこにも戦績が残されてないんですから。

    ――お相撲さんだったことは間違いないんですか?

    矢野 いや……それも聞いただけですよ。

    ――そのファンタジー、手強いですね(笑)。

    矢野 だって角界時代の写真もないんですよ。

    ――……あのう、お父さんは実在するんですよね?

    矢野 ちゃんと実在します(笑)。生きています。

    ――お父さんの身体は大きいんですか?

    矢野 それがそんなに大きくないんですよねぇ。「小さいから大成できなくてやめた」とは言ってるんですけどね。

    ――プロレス、角界関係で昔の知り合いが訪ねて来たりはなかったんですか?

    矢野 あー、サンダー杉山さんっているじゃないですか。昔、身内のお葬式かなんかでお会いしたことがありますね。

    ――プロレス界との繋がりはたしかにあった(笑)。

    矢野 そのときボクはサンダー杉山さんってことを知らなかったから。あとから「雷電ドロップのサンダー杉山さんだよ」と言われて。

    ――プロレス界の誰かに「お父さんのことを知ってる」と言われたことはなかったんですか?

    矢野 父親に「業界に入りたい」と言ったときに「プロレス界は妬み嫉みの世界だから、父親がレスラーだったことは言うな」と。レスリングをやっていた経歴も明かさずに入りましたね。だから父親のことを言われたことはなかったです。でも、不思議な話があって、去年のメキシコ修行で出会った老人が日本のレスリングの技術に感動したと言うんですよ。そこでボクとこんなやりとりをしたんです。「ウチの父親もメキシコで修行してたんですよ」「ほほう、名前はなんと申す」「名前はアルマンド・トヨタと言います」「おお、アルマンド……知ってるぞ。懐かしい」

    ――ホ、ホ、ホントですか!?(笑)。

    矢野 メキシコのトランスンゴという田舎町なんですけど(笑)。嬉しかったのは嬉しかったんですよ。日本では知ってる人間は一人もいないのに、こんなメキシコで会えるなんて……。

    ――いやいや、ファンタジー濃度が高すぎますよ!(笑)。ちょっとボクも調べてみようかな。

    矢野 マッハ隼人さんと練習をしてたみたいですね。要するにレスラーとしては売れてなかったんですよね。

    ――矢野選手が入門したのはバトラーツになるんですね。

    矢野 18歳。2006年4月1日。バトラーツに入ったんですけど。そのときバトラーツにいたのは石川雄規、澤宗紀、吉川裕太、ボク、竜司ウォルターの5人ですね。道場は越谷にあって。

    ――その頃の石川さんは焼き鳥屋もやられてましたよね。

    矢野 ボクも新弟子の頃はそこでバイトをしながら、昼は練習をしてて。

    ――なぜバトラーツを選んだんですか?

    矢野 本当は新日本に行きたかったんですよ。でも、その頃の新日本はゴタゴタしていた時期なんですよね。あと、ボクの中ではストロングスタイルを追求したい、カール・ゴッチに会ってみたいなという気持ちがあったんですけど。さっきも言ったようにFMWも好きだし、ルチャも好きで格闘技もやりたい。じゃあ“格闘探偵団”に入っちゃおうかなと。

    ――格闘探偵団なら、なんでもできると。

    矢野 中学2年のときにバトラーツの休眠興行がNKホールであったんですね。見に行ってはないけどビデオを持っていて。あの大会にはルチャはある、UWFもある、PRIDEルールの試合もありましたよね。

    ――ランペイジとアレクサンダー大塚のPRIDE出場決定戦ですよね。

    矢野 メインが石川雄規vsモハメド・アリ。ただの同姓同名のボクサーで、売名行為もいいところなんですけど(笑)。あのメチャクチャさに格闘ロマンを感じたんですよね。それで卒業式前日に夜行バスで上京してバトラーツの入門テストを受けて合格して。

    ――入ってみてどうでした?

    矢野 入門して最初の1週間は凄く長く感じましたね。寮だったんでんですけど、二つの部屋には先輩が住んでいて、ボクの寝どころは台所。そこに布団を敷いて「そこで寝ろ」と。まあまあプロレス界ってそんなもんだろうとは予測はしてたんで。

    ――当時のバトラーツは興行はそんなになかったんですよね。

    矢野 バトラーツは3ヵ月に1回くらいですよね。デビューは原学さんとやったんですけどね。壮絶なデビュー戦でした。バトラーツは基本セットアップしないんですよ。

    ――
    フリースタイルなんですね。

    矢野 ボクもデビュー戦なので難しいことをやるのは無理じゃないですか。原さんがしきりにハーフボストンクラブを狙ってくるんですけど、ボクが無理矢理跳ね返して。デビュー戦としては異例の10分超えの激闘になりましたね(笑)。ボクもセールの技術なんか知らないから、とにかくボコボコにされて、最後は倒れこんだボクをひっくり返して逆片エビを決めて、それでレフェリーが試合を止めたんですよ。

    ――昭和・新日本の前座みたいですね。

    矢野 ボクがデビューしてから選手数も増えたということで、興行数も増えて月に1度くらいのペースになって。バトラーツスタイルだけじゃプロレスラーとしてやっていけないと思ったので、大日本プロレスさんに修行に行かせてもらったり。あとはキャプチャーにも出ましたね。

    ――北原(光騎)さんの。

    矢野 そこでいろいろとプロレスを学びましたけど、基本はバトラーツのスタイルでガンガンやっていて。鼓膜はいつも破れていたから、いまでも慢性的に耳鳴りがするんですよ。身体もあちこちがボロボロですし。

    ――矢野選手ってまだ若いですよね?

    矢野 27歳です。一昨年に首と膝の状態を調べるために全身のMRIを撮ったんですよ。検査の結果「首はヘルニアで、膝の靭帯はなくなってますね」みたいなことを言われて。

    ――うわあ……。

    矢野 そこまでは予想はついていたんですけど、「脳がちょっと揺れてるというか、脳震盪の後遺症がありますけど、心当たりありますか?」と聞かれて。たぶんバトラーツ時代のダメージしかないだろうなって。

    ――あのスタイルはやっぱり過酷なんですねぇ。

    矢野 デビューした時点で「バトラーツのスタイルだと、あんまり長くはできないだろうな……」と思ってました。

    ――木村浩一郎さんが亡くなる前にインタビューしたんですけど、池田大輔さんがやってた『バチバチ』なんかも技術を持った選手がやらないと本当に危ないと言ってましたね。

    矢野 危険ですね。たしか石川さんが田村潔司さんとお話する機会があったときに、田村さんが「バトラーツのスタイルって凄いですよね。本当に強くないとできないですよ」と言ってたらしくて。まやかしが効かない。だからバトラーツってこれは禁止だったんですよ(ヒザを叩きながら)。

    ――ああ、キック系の技を出すときに「パン!」と音を出すテクニック。

    矢野 やったら罰金なんですよ。昔のボクはゼロ戦キックを使ってたんで、鳴らさないわけにはいけなかったんですけど。そのたびに給料から天引きされてました(笑)。

    ――必殺技にはお金が必要って、なんだか課金システムみたいですね(笑)。現代的にはバトラーツは特殊なスタイルなんですね。

    矢野 そうですねぇ。あの激しいスタイルで90年代は毎日試合をやってたみたいですからね。あと自己のイデオロギーもあって、ほかのプロレスとの差別化を図りたかったこともあったし。石川さんにはそういうギラギラしたものを感じるんですよね。ほかのプロレスと一緒にされたくない。「俺たちは奇跡のプロレスをやってるんだ!」という。そういったプライドを感じましたね。

    ――矢野さんもそこに傾倒していった感じですか。

    矢野 もちろんそうです。団体のモットーや信念は絶対に曲げちゃいけな、と。いまでもハードヒットでスティッフな試合をしてとき、相手が「あそこで固くいってすいません」と謝られても「全然大丈夫です!」と言えるようにはしてます。逆に「ドンドン入れてください!」と。

    ――でも、嫌がる人もいるでしょうね。

    矢野 昔、某選手にバトラーツがオファーしたら総合格闘技並みのギャラを請求されたみたいですね。

    ――そうなっちゃいますよねぇ。

    矢野 「そんな痛いプロレスはやりたくないから」ってことで。ボクらも雀の涙ほどのギャラしかもらってなくて、割に合ってないくらいボコボコになってましたから。でも、これが強くなる過程だと思ってたんです。

    ――プロレスラーの修行のひとつというか。

    矢野 ささいなことですけど、他団体に行ったときに試合前の合同練習で極めっこでは絶対に負けない、ギブアップしない。そういうメンタルの強さはバトラーツ時代に養われたなと思いますね。

    ――ほかの団体とは練習は違いました?

    矢野 バトラーツってこっち(ピストルサインをしながら)と打撃くらいしかやらないんですよ。だから受け身やロープワークはほとんど知らなくて。そのまま他団体に出て実戦でおぼえていきましたね。

    ――受け身やロープワークの練習はしない。

    矢野 ある程度キャリアを積んでロープワークをやると、陰でゴチャゴチャ言われたりね。「なんだよ、あれ。プロレスしちゃってよぉ」とか。

    ――凄いなあ。お話を聞くと猪木さんの思想を先鋭化した感じですよね。本能の動きをつないでいくという。

    矢野 そうなんですよ。マスコミの方も勘違いされてるんですけど、バトラーツってUWF系じゃないんですよ。根っこは猪木さんの異種格闘技戦なんです。U系U系って括られるんですけど、U系ではない。U系はもっとスポーティーですけど、バトラーツはゴツゴツした感じで。仮にUWFというならば新生でもなく、パンクラスやリングスでもない。旧UWFなんですよね。


    このインタビューの続きと、金村キンタロー、平田淳嗣、川田利明、倉持隆夫など、8万字オーバーの記事9本が読める「詰め合わせセット」はコチラです

     
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