「しあわせ」をテーマにした「新聞広告クリエーティブコンテスト」最優秀賞で、お父さんを桃太郎に殺された小鬼を描いた作品が衝撃的だと話題になっています。

 「新聞広告クリエーティブコンテスト」最優秀賞が衝撃的 / 小鬼が泣きながら「おとうさんは、桃太郎というやつに…」  

 この作品は紹介したツイートはすでに20,000件近くリツイートされています。これがその作品。「めでたし、めでたし?」
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 一方こちらは優秀賞。「いつも通り」

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 この「いつも通り」をはじめ、他の作品は普通に自分たちの幸せを描いていますが、「めでたし、めでたし?」は私たちではない鬼の視点でしあわせを考えています。

 「めでたし、めでたし?」を見たとき、とりあえず意表を突かれると思うのですが、その後はどうでしょう。「いつも通り」のようないつも通りな作品が良かったか、やはり最優秀に選ばれた「めでたし、めでたし?」に今までにない感銘を受けたでしょうか。

 「めでたし、めでたし?」のような作品が最優秀に選ばれる背景には、ここミラフツで着目している六葉未来点「IT - 誰でも化 / 共生共創 - 物から心 / 持続 - 循環」のうちの「共生共創」の意識があるのは間違いありません。

 しかも、それは倫理とか善意の問題ではありません。自分の幸せのためにも、そういうところに目を向けざるを得ない社会になっているのです。

 茂木健一郎さんの幸福になる「脳の使い方」 の第1章に幸せについての考え方が整理してあって分かりやすいです。たとえば、イースタリン・パラドックスとか幸福のパラドックスとか言われているように、経済成長しても幸福度はほとんど変化しないということ。基本的には周りとの相対的な関係が幸福度に関係し、自分が豊かになっても周りも豊かになれば、幸福度はあまり変わらないと考えられるそうです。

 しかし、自分の生活が少しずつ良くなることを実感することも幸福度の一因とのこと。

 なんか変です。高度成長期に生活が少しずつ良くなっていたのに、全体的な幸福度はあまり変化していない。それって結局、全体的な幸福度はいつも一定で、つまり、そのときそのときで幸福だと感じる人の割合は一定で、なにに幸福を感じるかだけが変わっているような気になってきます。

 つまり、高度成長期には、生活が良くなることで幸福を感じていたのであれば、相対的に他の要因は下がってしまっていたのです。

 しかし今成長はゆっくり。ちょっとやそっとかんばったところで生活がばんばん良くなるわけではありません。「いつも通り」が幸せだと言われても、どこかきれいごとに感じてしまう人もいるでしょう。

 それでもなぜか幸せだと感じる人がごっそり減るわけではありません。何か別のことで幸福を感じているのです。

 幸福になる「脳の使い方」によれば、日本人は、他人の不幸が嬉しいいわゆる「メシウマ」という「シャーデンフロイデ」と言われる感情が強いそうです。最近よく「メシウマ」という語を聞くのも、幸福を探すゆえの一つの方法かもしれません。しかし、これは結局他人との比較であり「とてもストレスがかかる精神構造」とのこと。

 そこで、もう一つ出てくるのが、いったん自分の幸せを棚に上げてしまうことです。