「ミコトとは、よく遊ぶの?」
この質問にも、思いっきり首を振りたかった。でも、そう答えることによって起こる不都合を、なんとなく、真希は感じていた。曖昧に答えて、顔を伏せた。それから、モリタは大声でどこかに電話を始めた。これ以上、話しかけられなくてよかったと彼女は思った。バンが急発進する。三半規管が揺れ、車に弱い真希は、あと一時間、この運転が続いたら酔うな、などとひそかに予感した。
すでに喪われたあなたに出会って
おととい学習塾に侵入した散弾銃男自殺 藤沢市の実家付近で遺体発見
「散弾銃だね」
ふいに後ろから立った声に、水越薫(みずこしかおる)は、はっとして振り向いた。藍色の制服を着た鑑識課員が薫の視線と同じ方向を指差している。初めて会った、このベテランらしき中年の男は、英会話学校と飲み屋のビルの側面の電光掲示板のニュースに、薫が視点を合わせていたことを、指摘しているようだった。
なにかを揶揄するように、課員は唇に薄笑いを浮かべながら、
「どこも、物騒なこった」
「ええ」
少し憮然として、薫は曖昧な相槌を返す。今、別に会話を必要とする気分でも場合でもなかった。言ってみれば少し、放っておいて欲しかったところだった。
「お疲れかい」
そんな気分を見透かしたのか、無神経なのか、課員は薫の顔を覗きこむと歌うようにうそぶいてみせた。
「大変だろ、一課は。遊ぶ暇もなくて」
三月十日、午後十一時三十五分だった。後、三十分ほどでまた日付が変わる。夕方、新宿署の交番で巡査が拳銃自殺した。退勤しようとしていた薫はその応援に呼ばれて、貴重な睡眠時間を根こそぎ持っていかれた。ついさっきまで署の仮眠室にいたせいで、顔も髪も直す暇もなかった。目の前の男が暗に指摘したいことはなにか、薫には十分よく分かっているつもりだった。
「そうね」
薫は軽くため息をついて、わずかに歯を見せた。女性としてむきになったり、男伊達に突っ張ったりすることは別にしない。感情的な反応で相手の興を買うのが一番面倒くさいことを彼女はよく心得ていた。男性社会での距離感の取り方は犬の喧嘩に似ている。簡単にお腹を見せてもいけないが、きゃんきゃん吠えついてこちらの肚を読まれるのも、逆に墓穴を掘ることになりうるのだ。
「こっちも散弾銃?」
薫はさりげなく話題を戻した。
「そうだと思うよ。身体中穴だらけだ」
灰色が黒ずんだブロックを積み上げた住宅街の裏路地の一角、週別のゴミ置き場の表示が立っている。完全に保全された現場、生活ゴミの異臭に混じって、別の非日常的な異臭が、刺すように冷えた夜気の中に漂っている。そう言えば確か今日は、生ゴミの日だった。
豊島区名物、カラスたちを追い払うのに、通報を受けて駆けつけた所轄の捜査官たちは、かなりの苦戦を強いられたに違いない。
ラテックスの手袋をはめながら、薫はゴミ袋の山から引きずり出された遺体を検めようと、現場に足を踏み入れた。シーズンが終わって、廃棄されたマネキン人形のように少し汚れた滑らかな物体が、ちょうど鑑識課員に手足を持たれて、そこから取り出されるところだった。
遺棄されていたのは、若い女性だった。背は一六〇センチ前後、アプリコットブラウンにブリーチした長い髪。着衣はない。犯人が剥ぎ取ったものだろう。靴と靴下だけは、なぜか残されていた。致命傷は、一見して下腹部のもの。損傷の度合いは激しく、血と肉の塊が、乳房の下から両腿の間にわたって、黒くわだかまっている。
「散弾銃で撃たれた」
火傷を受けてめくれあがった皮膚に、ぽつぽつと黒い穴が開いているのをみれば、それはひと目で分かった。
薄暗い街灯の下で、薫は遺体を抱え上げて人相を確かめた。顔に目立つ傷はない。全体として小作りな、綺麗に整った顔立ち。まだ少し、幼さの残る面差しを残している。二十代前半か、ことによるとまだ十代かもしれない。
泥のようにしてみえる付着物は、ファンデーションやマスカラの成れの果てのようだった。涙をはじめとした体液に溶け出して、それが彼女の顔を汚したのだった。大きく見開かれたまま硬直した眼窩に、枯れた川筋のように涙の流れた跡が認められた。死んでからも、袋の中で涙は流れ続けたに違いない。今夜の薫より長く、メイクも髪も崩れたままで。彼女はずっと、泣いていたのだ。
まだ冬の明けない、寒い三月の深夜だった。
薫はまず、【彼女】に出会った。
表通りのネオンの明かりの鬱陶しさが、重たく疲労した目蓋にのしかかる、火曜の晩だった。JR目白駅はすぐそこ、だが脱出するにしても、息苦しいのはごめんだった。誰もがそうだろう。すでに多くの人が、呼吸を止めながら、どこかへ、それも足早に去ろうとする。もちろん誰も、立ち止まろうとはしない。死人ですら、自分の身体を置いてすでにどこかには行ったというのに。
立ち止まった薫は、路地裏で遺体にとどめられていた。
【彼女】は変死体として、大学病院の死体検案室に送られていった。都内に限られた数しかない、この世でもっとも殺風景なそのステンレスの台の、順番待ちの列に並ぶ。
【彼女】は殺害された後、わざわざあそこに遺棄されたものとみて、間違いなかった。裏通りとは言え、人の出入りはないとは言えない住宅街だ。棄てに来るとするならばやはり車だろうが、誰が、どこから、そしてなんのために【彼女】をそこに棄てたのか。そもそも、【彼女】は誰なのか。
まだ、なにも分からない。
「薫、おい、待ってくれよ」
会議が終わった薫に、誰かが声をかけてきた。同期の金城純也(きんじょうじゅんや)だった。やっと応援に来たようだ。被害者が未成年で、しかも猟奇的な殺人事件の可能性が高いこの事件の場合、多少手の空いている人間はほぼ動員されそうな勢いだった。
「大変だったな。新宿の手伝い済ませて、こっちに一気に急行か」
金城は大きな目をぐりぐり動かして、薫の顔を見回した。色黒でいかにも南方系の、がっしりとした身体つきをしている。人の良さそうな顔を除けば、組み技系の格闘家以外なら、警察官と言う職種にもっとも向いた体型だ。
「女の子の死体、それも着衣なしだって言うから。行けたら、わたしが行った方が良かったでしょ?」
「ひどかったみたいだな」
「ひどいから、変死体なのよ」
もちろん、違う。法的に、ただ、自然死ではない遺体をさして言うだけのことだ。便宜上の分類は、ここから自殺体か、他殺体に行き着く。もっとも【彼女】の場合、結論はすでに決まっている。
「彼女なりの抵抗はしたみたい。・・・・・もちろん命をかけて。どこかから連れ去られて、もしかしたら長い時間かけて、ひどい目に合わされたのかもね」
暴行されたのかは、もう分かりはしない。だから、彼女にこれほどの暴虐を施したのは一体、何人なのかと言うことも、推定できない。なにしろ下腹部は、ほとんど吹き飛ばされているのだ。
「散弾銃か」
「どうかな」
薫は首を傾げた。
「横浜の塾講師の事件はそうだったろう? 似たような事件って意外と、同時に起こるもんだ」
「かもね。・・・・・・なにを思いついても、世の中に七人は同じこと考える人っているって言うしね」
「こっちの被疑者も早く捕まればいいがな」
「・・・・・ええ」
「被疑者に自殺されても困るけど・・・・・」
後半が少し聞き取りづらかった。薫は怪訝そうに眉をひそめた。
「どうかしたのか」
ふいに、金城はそんな薫の顔を覗きこんで、言った。
「具合悪いのか? お前、すごい顔色悪いぞ?」
「え?」
言われて、薫は初めて気づいたように、はっとして頬に手をやった。じっとりと冷たい脂汗を大量に掻いていた。
「調子悪いのか?」
「大丈夫。仮眠室寒かったから、徹夜したし、疲れただけ」
「退勤するなら送ってこうか?」
「気にしないで。・・・・・本当、なんでもないから」
「そうか・・・・・」
少し残念そうに、金城は言った。まだ危険なものでもない、彼の下心に付き合ってもよかったが、それをするには、今の薫はあまりに物憂く、確かに思考の弾力性を失っていた。
「とりあえず、一回帰るわ。まだいるんでしょ? なにかあったら、すぐに連絡して」
「分かった。・・・・・無理するなよ。そっちこそ、具合が悪いようだったら、すぐに連絡して来い」
重たいため息が出たが、熱くはなかった。どうやら、風邪などではないようだ。でも、悪寒とよく似たものが、背中を這い上がってくるような感覚がする。脳がふらっ、と揺れ、意識を失いそうな感じがある。このところ働きすぎなのかも知れない。とにかくまず、どんなことをしても家に帰ろうと思った。気づくと、さっきよりも身体が重かった。本当だ。そう思うと余計に、調子が悪い。
「なあ、そうだ」
「え?」
「さっきの話だけど、お前の」
そのとき金城が、わざわざ戻ってきた。
「それって、七人って似た顔の人のことじゃなかったか? 自分と同じ顔した人が七人いるって話」
自他共に認める体育会系はこう言うとき、実に上手く気遣いのつぼを外してくる。重い口と頭で、薫は答えた。
「・・・・・どっちだったか、分かったら、連絡するわ」
ここまで調子が悪いのは、本当に久しぶりだった。冬場のインフルエンザにさえ、ここ数年は罹ったことがなかったのに。シートにもたれかかって外を見ていると、顔も熱くなってきた。身体が浮いているようにすでに自重すら感じなかった。
気が遠くなりかける自分と何度か戦いながら、薫はどうにか自分の部屋に戻った。なんとかそこのところまでは、憶えがあった。
自分の汗で濡れたシーツの中で、薫は何度か自分の上下左右を失いかけた。今の自分の状況も、自覚していない。完全な無重力空間に放り出されたような気がした。
落ちていく。
足をつかまれ、強引に夢の中に引きずり込まれる。
時により、高校生の自分になり小学生の自分になり、それぞれ、なにかに急き立てられるような悪夢を見た。とても、せわしない感覚。やがて性急な義務感は、すでにそれが手遅れになったことに対する後悔に変わり、特急列車で乗り過ごしたように一足飛びに遠ざかっていき、漠然としたまま薫の胸に突き刺さった。