手を伸ばした空になにも、掴めるものはなかった。
後頭部からさかさまに、底なしの奈落から、ベッドの上に落ちて。
やがて、過去への長い旅が終わった。
それから目を覚ましたのは夜中だった。ベッドの上の時計は蛍光色を発している。おぼろげに記憶を逆算すると、もう五時間も意識を失っていた。身体を動かすと、着たままのブラウスが汗を弾いて、隙間から入ってくる風が冷たい。もう大分長い時間、すっかり身体が冷えている。寒気に身が縮む。でもどうやら、悪寒の方は立ち去ってはくれたようだ。
暗闇の中で、薫は立ち上がった。空腹感はなかったが、特に食べ物を入れても不快ではなさそうだった。なにか、温かいものを摂ろうと思った。
ベッドを立ち去ると、じゃらりと音を立てて携帯電話がシーツの波の上から、下にこぼれ落ちた。幸い携帯電話には、退勤前の金城のメール以外は、必要なものはなにも入っていなかった。
すり足でキッチンに近づき、コンロでケトルの水を沸騰させる。コーヒーをドリップするための華奢な真ちゅう製のケトルは、すぐに甲高い音を立てて、白い湯気を噴き出しはじめた。
(久しぶり・・・・・・参ったな。本当、ひどい目にあった)
疲れは確かにあったが、熱を出すとは思わなかった。本当に何年ぶりの発熱だろう。立てなくなるほどひどいのは、たぶん、学生以来だ。なにしろ、季節の変わり目だ。本人も自覚しないうちに、どこからか、ひどいのをもらって来たのかも知れない。
熱湯が沸いて、薫はスープを口にした。少しずつ、口の中に浸す。顆粒状の即席コーンスープは砂地に水を撒いたように、喉に沁みた。
なんだか、表現しにくい悪夢を見た。
もっとも調子が悪いときは、昔からそうだ。無人のはずの部屋の天井から、話し声が聞こえてきたりすることもいつかあった。今度のもどこか、寝覚めの悪い悪夢だった。そう言えば、大人になってからは、ずっとなかったのだ。天井から、ひそひそ声が聞こえてきたのは小学生のとき。別に霊感があるわけでもないのに。
死者が、薫を引き止めたのか。
(そうだ、あの子だ)
そう言えば【彼女】にあそこで引き止められてから、どこかなにかがおかしかった。
(あの顔を見すぎた)
頬に泥しぶきが跳ね上がったように。
点々、涙の痕。
にごった視線。
事実はまだなにひとつ、【彼女】に追いついてはいないのに。
(・・・・・知らない子なのに)
まさか。
苦笑して、薫は首を振った。ありえない。本当に名前すら、薫は彼女のことを知らないのだ。残念なのか幸運なのか、それは分からない。だが。
突然、低い地響きのような唸り声がした。不覚にもはっとして身体を硬くしてしまった。大したことではない。ただ、ベッドから落ちた携帯電話が床で鳴っているのだ。薫はいまいましげに顔をしかめて、暗闇の中、救いを求めて光る遭難者を拾い上げた。
秒速落下は、ちょうどその瞬間に起きた。
落下直後、反射的に振り上げた腕は、どこかに引っかかって停まり、がくん、と肩が外れた。耳鳴りがこめかみから飛びこんで、脳の奥を突き刺す。痛みはぶらぶらと突き立って揺れる矢柄のように、聴覚を揺さぶって、感覚を支配していく。
頭の先から全身を貫く激痛に身体をよじる。落ちてはいない。落下はすぐに停まった。しかし、足はどこにも落ち着く底面を探せない。どこかにぶらさがって引っかかっているのだ。どこかから両腕を吊るされ、身体が揺れている。
この痛みは、筋肉の悲鳴だ。歯を噛んで食いしばっても、長くは耐え難い。苦痛に声をあげそうだ。そうしているうちにやがて。
耳鳴りは絶叫に変わった。
それは獣のような意味不明のうなり声だ。それがヒトの悲鳴だと分かるのに時間が掛かった。なりふりなど、すでにかまわない極限の慟哭。声は迫り来る運命を必死に拒否している。感情を恐怖が一色で塗りつぶす。もはやそこに社会的地位や性別すら、存在しなかった。恐怖が人間の持つ、すべての属性をその肉体から剥奪した後の絶叫に他ならなかった。
聞くだけでも、苦痛に値する音響。
耳を塞いで避けることも出来ず、薫は当惑する。
こめかみを圧迫する、獣の咆哮。
それはやがて、辛うじて、その人間性を取り戻してきた。
悲鳴は人間の女だ。それもまだ若い、女だった。
廃屋に吊るされている。着衣はない。発見された時点のまま。
【彼女】がそこにいた。
両腕を縛られて、天井から吊るされている。血と涙、泥と粘液でメイクが流れ落ち、軽くウエーブした髪は毛羽立ち、乱れていた。
雨季のようなパニック状態が通り過ぎ、短くて永い、憔悴と諦めの時期が左右にかすかに揺れる、その身体を覆っている。
「おい、早くしてくれよ。なあ」
「・・・・・・・・・」
絶望が最期に彼女に人間性と自由な意志をもたらした。うつむいた顔を上げる。ぐしゃぐしゃの顔は少し腫れて、伏し目がちの長い睫毛には、とめどもない涙の色が滲んでいた。かすれた声で、彼女は最期の言葉を口にした。焼くような喉の痛み、渇き。窒息するほど、咳きこむ。細々と言葉を紡いだ。
内容はずっと、誰かに謝り続けている懇願調で、急き立てるような男の声がそれをいちいち否定した。謝罪は拒否。男たちに、被害者の人間性を受け入れる気持ちはない。だから、許しはしない。男たちは彼女を恨んでいる様子は見られなかった。少し眠たげな感情的に起伏のない声で、これが最期の時間になるのだ、と言うことをこんこんと彼女に告げていく。
死刑執行人と、死刑囚の会話。法務大臣は対話を拒否。
平行線の会話はやがて、彼女のつぶやきだけになった。恐らく、現実回避の独り言を言っている。彼女の脳が最期に許した、極限の防衛機制の本能。現実に戻ると、彼女は再び哀願を始めた。
「謝るから・・・・・ごめんなさい・・・・・わたしの負けだから・・・・ほんと・・・・お願い、だから許して・・・・・」
宙を漂う幻に問いかけるような頼りない声。自分がまるで話しているかのように。薫の頭の内側に向かって響く。
「無理もう選べない。・・・・・・無理無理無理無理・・・・絶対、無理だからぁ・・・・・・」
誰かの笑い声がした。男、若い。複数。嬲るようになにかを言う。
「いいから選べって。・・・・・どんな頑張ったってどうせ、もう、終わりなんだからさ」
「おれたちからの、バースデイプレゼント受け取ってくれよ」
「いやあ・・・・・・やだよ、そんなの・・・・・・」
男の声は彼女を現実に戻した。再び髪を振り乱して、彼女は赤く潤んだ瞳を向ける。力いっぱい身を捩って、彼女は、切迫した声を出した。
「もういいでしょ・・・・・・降りるの・・・・・わたし、降りるんだってば・・・・・だからお願い。降ろしてよっ!」
パニックが再びアドレナリンを奔らせる。
「聞いてるのっ?」
声が擦り切れる。
「答えなさいよっ。答えてっ、お願い・・・・・・」
救いと許しともに、確かに彼女は誰かの名前を求めた。
「・・・・・・・・・っ!!」
耳を聾する恐ろしげな火薬の爆発音が、辺りを支配した。
目も眩むような閃光。衝撃が内臓を圧殺する。
焼ける。突き上げてくる。口から、中身が飛び出そうに。
彼女が叫んでいた。
薫も叫んでいた。
なにが起きた?
喉が破裂した。激痛が走った。首から下が消し飛んだかと思った。
そのとき、確かに、見えた。
舌の先からその閃光が飛び出していった。
「・・・・・・・・・・っ!」
絶叫が喉からほとばしり出たような感覚のまま、薫は、目を覚ました。携帯電話の目覚ましが鳴っていた。すでに、出勤時間前になっていた。表で雀が鳴き、新聞配達のバイク便が近くを通り過ぎていく音がした。ブラインドを下ろしただけの窓から、射し込むのはまた、五時間後の朝陽。
痛めた喉を左手でいたわりながら、薫は立ち上がった。
悪夢が呼び覚ますもの
確かに。
あれは夢ではなかった。一度はっきりと、薫の目は覚めていたのだから。前後不覚になる前、すでに悪寒も熱も去っていたんだし。だが、内容は下手な悪夢より怖しいものだ。それにしても、リアルな感覚の、あてどもない彷徨だった。
(でもどうしてだろう。初めてじゃない)
得たいの知れない既知感がある。もちろん、【彼女】に関してのことではない。
そうだ。もっと昔だ。
(でもそれはいつだった?)
シャワーの最中、しばらく考えてはみたが、やっぱり思い出せない。そう言えば、前にもこんなことはあったはずだ。でも、たぶん昔過ぎて思い出せない。残念だが保留するしかない。むごたらしく不気味な悪夢で、ただでさえ、仕事が出来なくなりそうだ。
コーヒーを入れて、出勤前に身の回りの整理をする。
昨夜のうちに二つの着信履歴が、薫の携帯電話に入れられていた。ひとつは金城から。あの後、【彼女】の身元が分かったのだ。都内の私立高校の二年生だった。名前は、ミコト。嶋野美琴(しまのみこと)と言うらしかった。やはり、薫には聞き覚えのない名前と素性だ。
もう一件はそれこそ見慣れないナンバーの着信だったが、千葉の母親かららしい。最近、薫の母は電話を替えたのだ。薫の兄の晴文がまた、家を飛び出していなくなった。暇があったら気にかけておいてくれないか、と、実に消極的な救援要請。
一課の捜査員になってから、どころか、兄の晴文とは五年近く、薫は話をしていない。心理で大学院まで出たのはよかったが、研究室に残れず結局就職先も決まらずに、気儘なフリーター稼業を続けている。新入生や新学期が始まるこの時期に、煙草銭の多寡ほどの下らないきっかけで父親と衝突するのは、半ば恒例行事化した事態といっていい。
それでもここ一、二年は、もはや諦めたのか、決定的な衝突を招かずにいたのだが、たぶん、来年県警を退官する父が、地方の法科大学院の教授に再就職が決まったせいで、将来が決定せず自宅に引き籠っている兄の問題にも、無駄と知りつつ浅はかな介入をしたのかもしれない。
お前、老後の親が稼ぐ金で、これからも暮らしていくつもりか。
兄の晴文は口が重く、幼い頃から、勉強だけが取り柄だった。今はなにを考えているのか、薫もよくは知らない。家出したとしたら、立ち回り先を推測することは至難の業だろう。
彼女が出来たのも聞いたことがないし、昔の研究室の仲間やパソコンのチャット仲間などもどこかにはいるのかも知れないが、ここ数年、極端に外出と交際の範囲が狭まった兄に、今、どれほど泊めてくれる知り合いが残っているのかと言えば、かなりその望みは薄い。と、なれば漫画喫茶でも泊まり歩いているのだろうと思うくらいだが、そうなれば、探すのはますます不可能だ。
母親はもしかしたら妹のところに行ったのかもしれないと考えたのだろうが、正直、読みが甘過ぎる。もともと、兄妹ともに、お互いの優先順位は驚くほど低いのだ。大体、いい年をして親と喧嘩して家出した兄が、今さらどんな顔をして、東京に就職した妹を訪ねるのか。兄にだって、それなりのプライドくらいはあるだろう。
優しくて頭のいい兄だった。薫には及ばない学歴を持ち、その学歴が有効な間は、両親も兄を見習えと妹を叱ることあるごとに言い募った。今、父は就職しない兄に、逆のことを言っているのだ。別にいい気味だとは思わない。意見を言う気もない。そのことを思うとただただ、なにかが虚しく煩わしいだけだった。
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