『ゆらめきのパサージュ』(後編)
前編からの続き。
前編はこちら⤵️
https://ch.nicovideo.jp/Discoveryreiji/blomaga/ar2094007
先週に引き続き、繰り返しになりますがこれは俺が勝手に考えてる「ポスト・パサージュ論」です。
曲解や思い込みが多分に含まれていますので、ベンヤミン哲学をもっとちゃんと知りたい方は原著にあたるか、もっとしっかりした学者の研究を調べてくださいね。
それでは後編、またしても長文なのでごゆっくりどうぞ。
【ファンタスマゴリア地獄】
「これからの社会は複製品に溢れた物神のテーマパークのようなものになっていくだろう」
みたいなことをベンヤミンは言っていた…気がするが、たしかにショッピングモールなどの謎のテーマパーク感はその通りだろう。
八百万の物神が、そこを訪れる人(遊歩者)すべての心と交感して陶酔と愉楽もたらしている。
しかし現代は遥かに、彼が想定した以上の「ファンタスマゴリア地獄」になっている。
前編の最後に記したように、まだショッピングモールなどはその場の物理的制約と商品自体の手触りや臭いがあった。
しかし今やその物理的制約すらもない、幻想が幻想を呼び起こすだけの無間地獄と化している場がある。
それはネット世界。
まるでパンドラの箱のように数えきれない人や情報やコンテンツが、魑魅魍魎よろしく溢れている。
かつてラジオやTVから発生していたのと比じゃないくらいの数で!
そのすべてが、見る人読む人語る人にとっての「ファンタスマゴリア」なのだ。
ネットショッピングなどはまだいい。
買えば商品が届くから。
しかしネットに溢れている情報や思想や嘘は、物理的な帰着点がないゆえいたずらにファンタスマゴリアだけを発生させるばかり。
まるで化けて出る場を失くした幽霊のように浮遊したまま飛び交い、重なり合い、混ざり合い、人を惑わせている。
ゴシップ、フェイクニュース、炎上商法、ネットいじめ、陰謀論などはいい例だろう。
実際は確かめようのない情報の信憑性を、また別のそれらしい情報で補完して、都合のいい物語にして信じてしまう。
小さなファンタスマゴリアを集めて大きなファンタスマゴリアにして、「集団の夢」を見てしまうのだ。
そんなネットの海を泳ぐということは、自分自身も身体を無くしたファンタスマゴリアとなっているということを忘れてはいけない。
特にSNSは自分自身を能動的にファンタスマゴリアにしてしまった典型的な例だろう。
清ちゃんがハンドルネームをコロコロ変える(今は「松本ポテトくん」とか名乗ってる)のも、自らのファンタスマゴリアの変化で遊んでいるからだろうし、意図的だろうとなかろうと、アップする度にみんな自らを商品としてPRしている。
前編で例に挙げた“YAZAWA”や、アントニオ猪木や長嶋茂雄、今なら“BIG BOSS”新庄、また海外ならデヴィッド・ボウイやマドンナ、CR7などはみんな自分自身のファンタスマゴリアを自分で演じているタイプのスーパースターで、SNSで自分のファンタスマゴリアで踊る清ちゃんのような人の行き着く果てにいる人達だ。
清ちゃんらと彼らとの違いは、ファンタスマゴリアに“揺らぎがない”こと。
自分自身を疑っていないからこそ揺るぎない。
揺るぎないから固くて、掴みやすい。
幻影が、揺らめいていない。
他者からは少なくともそう見えるし、ファンタスマゴリアを共有しやすいのだ。
それはイメージ戦略とかブランディングとかそういう瑣末なことでは得られない。
ちょっとややこしい説明になるが、生きることそのものを自らの描いた自分のファンタスマゴリアに預けてしまわないといけない。
まるで殉教者のように自分自身を信じないといけないのだ。
「俺はいいけどYAZAWAはどうかな」というやつ。
そういう人は無敵のカッコよさと同時に、架空のキャラクターのような人外の空虚さも漲っている。
まぁカッコいいかどうかは好みによるが、彼らのような存在に対する憧れや畏怖は、人ならざるもののようなその空虚さから来ている。
そしてこの方法論で存在する最高峰?が天皇陛下やエリザベス女王なのだろう。
その人間ひとりに宿る、本来なら「小さなファンタスマゴリア」に、たくさんの人々が勝手に抱く想いや願いが混ざり合い、そこに歴史や文化が重なり合うと「大きなファンタスマゴリア」、つまり「集団の夢」となって民族の象徴や歴史の中心にすらなってしまう。
というか「歴史」そのものが「集団の夢」なのだから何をか言わんや、である。
【身体機能だからこそ】
だからと言って我々は「ファンタスマゴリア」に踊らされている愚かな生物だ!…と言いたいわけではない。
そんなことは当たり前だし、西洋近代主義的に言うと人が神から離れて以降「ファンタスマゴリア」でないものなどない、のだから。
その点でいうと汎神論の日本人にとっては「ファンタスマゴリア」はとてもスムーズに理解できるかもしれない。
山には山の、風には風の、道具には道具の神様がいる、という感性を、割と素直に受け入れられる分、ある意味で我々日本人はずっと「ファンタスマゴリア」を追いかけていたとも言える。
そうなると「ファンタスマゴリア」を“感じる”ということは、人間の身体機能とさえ言えよう。
蜂が人間とは違う色を見てるように、犬は人間には嗅げない臭いで細やかに世界を感じてるように、クジラやイルカが人間には聞こえない周波数で会話してるように、人間は他の生物には感じることができない「ファンタスマゴリア」で世界を見ている。
だから人間にとってこの世界のすべての物には、何かしらの「ファンタスマゴリア」が宿っているように感じることが“できてしまえる”のだ。
その様に「ファンタスマゴリア」が身体機能のひとつであり、何にでもそれを感じてしまえるのはしょうがないとしても、怖いのは「集団の夢」になりやすく、暴走しやすいファンタスマゴリアがあるということ。
歴史を振り返ればすぐわかる。
「正義」とか「民族」とか「自由」とか「神」とかさ。
「愛」とか「善」とか「美」とか「真実」とかもそうなんだけどね。
それらは別に主語が小さければいいのだが、「ウチら」が発展しすぎて「民族」とか「イデオロギー」が主語に来た時に、それを「誇らしさ」とか「正義」だと感じる人が大勢いたら、そういうファンタスマゴリアは割と単色の「集団の夢」として成立してしまう。
これが大きくなり排外的になり暴走しだすと、パレスチナやシリアやアフガンのように、或いは十字軍や帝国主義の西欧列強やナチスや戦前の日本のように、他者を「悪」「敵」とし自分達だけが「善」「正義」と断じるファンタスマゴリアのぶつかり合いが起こる。
歴史が証明しているように、人種や国家やイデオロギーや宗教が違っても、それぞれの「正義」は最強のファンタスマゴリアだから、結局は好みや感情の問題に行きついて論理では止められない。
良かれ悪しかれ、国家や民族や宗教や思想のファンタスマゴリアはアイデンティティを補完するものでもあるし、生き方に直結するものでもある。
そのスケールの小さいもの、例えば地域や職場、教師や医師や警官などの職業、父や母や兄や姉などのロールに至るまで、何かしらのファンタスマゴリアで自分を縛って、または自分を預けて生きている。
何よりこうして「言語」を使っている時点で、この文章を読める時点で、「日本語」という共同幻想「集団の夢」を共有しているのだ。
ファンタスマゴリアなくしては人は人でいられない。
それ程までに「ファンタスマゴリア」は人間の根本に食い込んでいる。
だからこそベンヤミンは警鐘を鳴らした。