主張
首相の「靖国」参拝
“話せば通る”は開き直りだ
昨年末、過去の侵略戦争を美化する靖国神社への参拝を強行し、国内だけでなく、中国や韓国、アメリカやロシア、欧州などからもきびしい批判をあびている安倍晋三首相が、年頭の記者会見などで、各国に参拝の真意を説明し、理解を得たいなどの発言を繰り返しています。安倍首相が言い訳に回らなければならなくなっているのは明らかですが、「不戦」を誓うために参拝したなどの言い分で理解が得られるはずはありません。批判に耳を貸さず、勝手な言い分で参拝を正当化しようというのは、まさに開き直りそのものです。
侵略賛美が不戦の誓いか
安倍首相は昨年12月26日、政権発足から1年の日を選んで靖国神社に参拝した直後、国のためにたたかいなくなった「英霊」など戦没者を追悼するとともに、「不戦の誓い」を新たにするために、参拝したとの談話を発表しました。首相が「靖国」参拝の真意を各国などに説明したいというのも、このことを指すものです。
しかし、靖国神社に参拝して「不戦」を誓うなどという言い分は、どこから見ても通用するものではありません。戦前から戦中にかけ、天皇制政府と軍によって国民を戦争に動員するために利用された靖国神社は、現在もなお戦争を指導したA級戦犯をまつり、過去の戦争は「自存自衛の正義のたたかい」だったなどと正当化する、侵略戦争美化の施設です。首相や閣僚が「靖国」に参拝するのは侵略戦争を肯定・美化する立場に自ら身をおくことを認めるものであり、「不戦の誓い」というなら、これほど不適切な場所はありません。
第2次世界大戦の結果つくられた国連は、「われら一生のうちに2度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救」うため、「国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせる」ことを憲章にうたっています。ドイツやイタリアとともに敗戦国となった日本は、侵略戦争の誤りを認め、戦犯への裁判などを経て、国際社会に復帰しました。日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」ことを明記しています。過去の侵略戦争を誤りと認めることは戦後の出発点であり、首相の「靖国」参拝は「不戦の誓い」どころか、戦後の国際秩序と戦後日本の原点への挑戦として許されないものです。
日本の侵略戦争で被害を受けた中国や韓国はもちろん、日本とたたかった各国が首相の参拝に反発するのは当然です。それはどんなに首相が参拝の「真意」なるものを説明しても解消できるものではありません。“話せば通る”といいはって自らの勝手な言い分を押し付け、受け入れないのはそちらが悪いといわんばかりの態度では、信頼を回復するどころかいよいよ困難にします。参拝への固執は、間違いなく国際的孤立の道です。
「戦争する国」への暴走
もともと安倍首相は第1次政権時代「靖国」に参拝できなかったことを「痛恨の極み」と公言し、戦後の戦犯裁判を非難し、「侵略」の定義さえ否定しようとしてきました。首相の態度が「不戦の誓い」などとは無縁なのは明らかです。
異常な軍拡路線を進める安倍首相の「靖国」参拝は「戦争する国」づくりへの暴走です。国民の力で暴挙をやめさせることが急務です。