日本共産党の志位和夫委員長は1日、国会内で記者会見し、安倍政権が同日、集団的自衛権行使容認にむけた閣議決定をしたことに対し、「憲法を破壊し、『海外で戦争する国』をめざす歴史的暴挙――集団的自衛権行使容認の『閣議決定』の撤回を求める」との声明を発表しました。全文は以下の通りです。

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67525452d6a4ddca05781d108632a6aaa039626b 安倍政権は、本日、国民多数の反対の声に背いて、集団的自衛権行使容認を柱とした解釈改憲の「閣議決定」を強行した。

 「閣議決定」は、「憲法9条のもとでは海外での武力行使は許されない」という従来の政府見解を百八十度転換し、「海外で戦争する国」への道を開くものとなっている。

 こうした憲法改定に等しい大転換を、与党の密室協議を通じて、一片の「閣議決定」で強行するなどというのは、立憲主義を根底から否定するものである。

 日本共産党は、憲法9条を破壊する歴史的暴挙に強く抗議する。

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 「閣議決定」は、「海外で戦争する国」づくりを、二つの道で推し進めるものとなっている。

 第一は、「国際社会の平和と安定への一層の貢献」という名目で、アフガニスタン報復戦争やイラク侵略戦争のような戦争を米国が引き起こしたさいに、従来の海外派兵法に明記されていた「武力行使をしてはならない」、「戦闘地域にいってはならない」という歯止めを外し、自衛隊を戦地に派兵するということである。

 「閣議決定」は、自衛隊が活動する地域を「後方地域」「非戦闘地域」に限定するという従来の枠組みを廃止し、これまで「戦闘地域」とされてきた場所であっても、支援活動ができるとしている。「戦闘地域」での活動は、当然、相手からの攻撃に自衛隊をさらすことになる。攻撃されれば、応戦し、武力行使を行うことになる。それが何をもたらすかは、アフガン戦争に集団的自衛権を行使して参戦したNATO諸国が、おびただしい犠牲者を出したことに示されている。

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 第二は、「憲法9条の下で許容される自衛の措置」という名目で、集団的自衛権行使を公然と容認していることである。

 「閣議決定」は、「自衛の措置としての『武力の行使』の『新3要件』」なるものを示し、日本に対する武力攻撃がなくても、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」には、武力の行使=集団的自衛権の行使ができるとしている。

 これについて「閣議決定」は、「従来の政府見解における基本的な論理の枠内で導いた論理的帰結」というが、これほど厚顔無恥な詭弁(きべん)はない。政府の第9条に関するこれまでのすべての見解は、「海外での武力行使は許されない」ことを土台として構築されてきた。「閣議決定」が、その一部をつまみ食い的に引用している1972年の政府見解も、この土台に立ち、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」という「論理的帰結」を導き出している。今回の決定は、従来の政府見解の「基本的な論理の枠内」どころか、それを土台から覆す、乱暴きわまる解釈改憲であることは明瞭である。

 政府・与党は今回の決定について、今回の集団的自衛権行使容認は、あくまで「限定的」なものにすぎないというが、これも悪質なゴマカシである。「明白な危険」があるか否かを判断するのは、時の政権である。「限定的」というが、時の政権の一存で、海外での武力行使がどこまでも広がる危険性がある。また、「必要最小限の実力の行使」というが、いったん海外での武力の行使に踏み切れば、相手からの反撃を招き、際限のない戦争の泥沼に陥ることは避けられない。集団的自衛権にはことの性格上、「必要最小限」などということはありえない。

 さらに、政府は、集団安全保障においても、「新3要件」を満たすならば、憲法上「武力の行使」は許容されるとしている。

 集団的自衛権を名目とした武力行使も、集団安全保障を名目にした武力行使も、ともに許容されるとなれば、憲法9条が禁止するものは何もなくなってしまう。それは、戦争の放棄、戦力不保持、交戦権否認をうたった憲法9条を幾重にも踏みにじり、それを事実上削除するに等しい暴挙である。

 こうした無制限な海外での武力行使を、「自衛の措置」の名で推し進めることは、かつての日本軍国主義の侵略戦争が「自存自衛」の名で進められたことを想起させるものであり、およそ認められるものではない。

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 「海外で戦争する国」づくりをめざす「閣議決定」は、戦後日本の国のあり方を、根底から覆そうというものである。

 60年前に創設された自衛隊は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」とうたった憲法9条に反する違憲の軍隊としてつくられた。それでも、60年間、自衛隊は他国の人を一人も殺さず、一人の戦死者も出すことはなかった。それは、憲法9条が存在し、そのもとで「海外での武力行使をしてはならない」という憲法上の歯止めが働いていたからにほかならない。

 「閣議決定」は、こうした戦後日本の国のあり方を否定し、日本を「殺し、殺される」国にしようというものである。それは、日本の国を守るものでも、国民の命を守るものでも決してない。米国の戦争のために日本の若者に血を流すことを強要し、米国と一体に他国の人々に銃口を向けることを強要するものにほかならない。このことによって日本が失うものは、はかりしれない。

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 こうした解釈改憲を、一片の「閣議決定」で強行しようというやり方は、立憲主義の乱暴な否定である。

 政府は、政府による憲法の解釈、集団的自衛権と憲法との関係について、2004年6月18日付の「閣議決定」で、つぎのような立場を明らかにしていた。

 「政府による憲法の解釈は、…それぞれ論理的な追求の結果として示されてきたものであって、…政府が自由に憲法の解釈を変更することができるという性質のものではないと考えている。仮に、政府において、憲法解釈を便宜的、意図的に変更するようなことをするとすれば、政府の憲法解釈ひいては憲法規範そのものに対する国民の信頼が損なわれかねない」。

 「憲法について見解が対立する問題があれば、便宜的な解釈の変更によるものではなく、正面から憲法改正を議論することにより解決を図ろうとするのが筋(である)」。

 今回の「閣議決定」は、「論理的な追求」とは無縁のものであり、政府が過去の「閣議決定」で自ら厳しく戒めていた「便宜的、意図的」な解釈変更そのものである。

 集団的自衛権をめぐって国民のなかで深刻な「見解の対立」があることは誰も否定できない事実であり、そうであるならば、「便宜的な解釈の変更」を行うことは、過去の「閣議決定」にも真っ向から背くものである。

 もともと「集団的自衛権行使は、憲法上許されない」とする政府見解は、ある日突然、政府が表明したというものでなく、半世紀を超える長い国会論戦の積み重ねをつうじて、定着・確定してきたものである。それを、国民多数の批判に耳を傾けることもなく、国会でのまともな議論もおこなわず、与党だけの密室協議で、一片の閣議決定によって覆すというのは、憲法破壊のクーデターともよぶべき暴挙であることを、強く指弾しなければならない。

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 「閣議決定」が強行されたからといって、自衛隊を動かせるわけでは決してない。たたかいはこれからである。

 日本共産党は、憲法違反の「閣議決定」を撤回することを強く求める。

 「閣議決定」を具体化し、「海外で戦争する国」をめざす立法措置をめざす動きは、そのどれもが憲法に真っ向から背反するものであり、断じて許されない。

 日本は今、戦争か平和かをめぐって、戦後最大の歴史的岐路を迎えている。このたたかいの最終的な帰趨(きすう)を決めるのは、国民の世論と運動である。世界に誇る日本の宝――憲法9条を亡きものにする逆流に反対する、すべての良識ある国民の声を一つに集めよう。「海外で戦争する国」づくりを許すな、解釈で憲法を壊すな――この一点で、空前の国民的共同のたたかいをおこし、安倍政権の軍国主義復活の野望を打ち砕くために、ともに力をあわせることを、心からよびかける。