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【第155回 直木賞 候補作】『真実の10メートル手前』米澤穂信
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【第155回 直木賞 候補作】『真実の10メートル手前』米澤穂信

2016-07-11 11:59
       1

     いつになく早い雪が日本の東半分をまだらに覆った朝が明けて、わたしは名古屋駅にいた。
     八時の「しなの」で塩尻に向かうことにしていた。いくつかの路線でダイヤが乱れているけれど、予定の電車は定刻通りに出るそうだ。
     駅のホームで人と合流する手はずだったが、車輛がホームに入ってきてもまだ現れない。腕時計を見て、携帯電話を取り出す。相手の電話番号を表示したところで、背後から息切れ気味の声をかけられた。
    「すみません、遅くなりました」
     携帯電話を戻して振り返る。
    「間に合ってよかった」
     待ち合わせの相手、藤沢吉成が息を切らしていた。ダウンジャケットはジッパーが閉められておらず、シャツはボタンが一つずれている。髪は逆立って僅かに脂気があり、髭の剃り残しもある。目は赤く、その下には濃い隈が浮き出ていた。
     藤沢は、しきりに頭を掻いた。
    「いや、ほんとすいません」
    「気にしないで。昨日遅かったんでしょう」
    「というか、ほとんど徹夜です」
    「そう。それで山梨出張なんて、悪いわね」
     発車ベルが鳴り始める。手振りで藤沢を急かし、「しなの」の指定席に乗り込む。
    「太刀洗さんと組むのは久しぶりですね。嬉しいです」
     乗り込み間際、藤沢がそんなことを言ったが、発車の音に紛れていたので、わたしは何も言わなかった。

     中央本線を下る「しなの」の指定席車輛は、楽しげな若者たちで六割ほど埋まっていた。
     藤沢が、慎重な手つきでカメラバッグを荷棚に上げる。車内を見まわしてから、座席に身を沈め、わたしに耳打ちしてくる。
    「意外と客が多いですね」
    「そうね。シーズンにはまだ早いのに」
     昨夜は長野と山梨、群馬の一部で、平野部でも一センチ程度の雪が積もった。ウインタースポーツにはまだ早く、今日は平日なのに、気が早い学生たちはスキー場へと向かっているようだ。
     赤い目をした藤沢が自分の頬をはたき、声を励まして訊いてきた。
    「それで、実はよくわかってないんですが、今日はなんの取材なんですか」
     藤沢は、わたしが所属する東洋新聞大垣支局に今年配属されてきた新人だ。彼はカメラマンとして採用されたのだが、東洋新聞ではカメラマンでも最低一年は記者としての経験を積むことになっている。いちおうわたしが教育係ということになっているが、配属から半年以上が過ぎて、いまでは彼も自分の仕事を持っている。最初の頃のように、いつも連れまわすということはしないが、今回は特別だ。
     藤沢が言う。
    「フューチャーステアの事件だということは聞いています」
    「そう」
     わたしは正面を向いたまま、目だけを藤沢に向けた。
    「藤沢くんは早坂真理って知ってる?」
    「フューチャーステアの広報ですね。超美人広報って呼ばれていた。テレビにもよく出てました」
     頷く。
     早坂真理は、ベンチャー企業フューチャーステアの広報担当者だった。社長の早坂一太の妹で、一太が会社を興したときにはまだ大学生だった。会社の急激な成長と共に、マスコット的にテレビや週刊誌に取り上げられてきた。愛嬌があり、頭の回転が速い。バラエティー番組に出れば笑顔を振りまき、報道番組に出ればコメンテーターの意地悪な質問にも的確に答える。しかし、フューチャーステアの経営が悪化し始めると、当然ながら露出は少なくなった。
     フューチャーステアは、四日前に経営破綻した。あらゆる媒体で流されたそのニュースの中にも、早坂真理の姿はなかった。
    「僕は会ったことはないんですが、実際どんな人なんですか」
    「いい子ね。とってもいい子」
    「太刀洗さんが素直に褒めるなんて珍しいですね」
    「そんなことはないと思うけど」
     そこでふと、藤沢の顔に怪訝そうな色が浮かぶ。
    「で、なんで太刀洗さんと僕が、早坂真理を取材に行くんですか」
     わたしは藤沢をまともに見た。彼の頬が赤くなっていく。
    「……恥ずかしながら、昨日は立て込んでいてニュースをチェックできなかったんです。僕、何か間抜けなこと言ったんですね」
     恥じ入らせるほど、冷たい目を向けたつもりはなかったのに。むしろ、それほど多忙だった日の翌日に出張してもらっていることが、申し訳なかった。かぶりを振る。
    「いえ。一言で済むことだから。社長の一太と妹の真理が、姿を消したの」

     フューチャーステアは、三年前に創業された新興企業だ。日々の買い物が困難な高齢者に、インターネットを介して日用品や医薬品を届けるサービスを行っていた。社長の一太は、創業当時二十六歳。若い社長と高齢者向けサービスの取り合わせが物珍しかったのかビジネス誌でも盛んに取り上げられ、彼は自信に満ちた口ぶりで、情報革命は福祉革命であると語っていた。
     一太の狙いは当たった。フューチャーステアは急成長し、鳴り物入りでナスダックへの上場を遂げる。その後、彼は新しい事業を展開した。会員を募って集めた資金で農家や畜産家と契約し、有機栽培の農畜産品を届ける事業を始めたのだ。この事業は単に共同購入の域に留まらず、余剰生産品を売って得た利益を会員に還元する投資的な側面も持っていた。
     結果的には、この事業が会社の命取りになった。配当金は説明通りに支払われていたが、その資金には新規会員の加入費が当てられていたことを示唆する書類が表に出たのだ。農畜産ビジネスは、かなり初期から自転車操業だったと見られている。
     六月と九月の配当が滞ったことから株価は下落を始め、株主に対する説明が不充分だったこともあり、十一月半ばからは連日のストップ安となった。十二月に入ってフューチャーステアは遂に経営破綻した。一太は経営責任を問われるだけに留まらず、一部のメディアからは、計画倒産を目論んだ詐欺師同然の扱いを受けている。
    「一太と真理は、大垣の出身だった」
    「そうだったんですか」
     それを聞いても、藤沢は全く納得した風ではなかった。無理もないことだ。フューチャーステアの破綻は全国規模の大ニュースであり、東京本社の社会部や経済部が動いている。支局記者が扱うような話題ではないのだ。
     彼はおずおずと訊いてくる。
    「太刀洗さんが動いてること、支局長は知っているんですよね」
    「……黙認はされてる、はず」
    「ちょっと待ってください」
     狭い座席の中で身をよじり、彼がこちらに向き直る。
    「すると、こういうことですか。僕たち、本社に喧嘩売って早坂真理のコメントを取りに行くってことですか」
    「喧嘩っていうのは大袈裟だけど」
     わたしは目を伏せた。
    「怒る人もいるかもね」
     僅かに、藤沢の表情が強張る。やはり、最初に話しておくべきだった。
    「藤沢くんには悪いことをしたと思ってる。いちおう、無理に連れてこられただけっていう形にはなっていると思うけど、不安だったら次の駅で降りて。……本当は昨日この話をしようと思っていたけど、連絡がつかなくて」
     すると彼は、にやりと笑った。
    「いや、それはいいです」
    「いいって?」
    「不安なら降りるかっていう話です。これが太刀洗さんの暴走だってわかれば、覚悟も決めやすいってもんです。行きますよ」
    「……ありがとう」
    「どういたしまして。ただ、そういうことならカメラはいらなかったかなあ」
     もうすぐ多治見に着くというアナウンスが流れる。指定席の客は一人も立ち上がらなかった。
    「一緒に来てくれるならとても助かるけど」
     多治見に着く前に、これだけは話しておく必要がある。わたしは早口で言葉を継ぐ。
    「これを聞いてから判断して。言いにくいんだけど、早坂真理はまだ見つかっていない。フューチャーステアの子会社が平塚にあって、そっちにいるんじゃないかって同業者が集まってるけど、一太も真理も見当たらないみたい」
    「えっ。じゃあ、僕たちはなんで甲府に」
    「情報があるの。平塚は違う、少なくとも真理はそこにはいない。わたしは、彼女は甲府近辺にいると思ってる。ただ、確実じゃない。……それを踏まえて、もう一度考えてみて」
     藤沢はくちびるをとがらせた。不満そうに言う。
    「太刀洗さん。僕だって新聞社の人間です」
    「……」
    「空振りは覚悟してます」
    「そうね」
     口許が緩むのを自覚した。新人相手だと思って、余計な気をまわしてしまったようだ。
    「失礼なことを言った。ごめんなさい」
     彼は黙って頷いた。
     車窓の外は市街地になっていた。列車は減速し、存外大きな駅へと入っていく。数十秒の停車時間、誰も席を立たず、また乗ってもこない。ここから先、線路は東山道に沿って山あいへと入っていく。
     ゆっくりと動き出した景色を見ていると、藤沢が訊いてきた。
    「もう一つ、教えてほしいんですが」
    「なあに」
    「どうしてそこまで、早坂真理を取材したいんですか?」
     家々の屋根や田畑に、昨日の雪がほんの僅かに解け残っている。
     会社員として危ない橋を渡ってまで、なぜ、ということなのだろう。窓の方を向いたまま、わたしは言った。
    「前に、帰省中の早坂真理のインタビューを取ったことがあるの。朗らかな雰囲気と、押しつけがましくない頭の良さが印象的だった。そのとき、彼女の同級生や恩師にも話を聞いてね。みんな早坂真理を好いていた。フューチャーステアは詐欺会社だってニュースが流れるようになってから、支局に電話がかかってくるの。あの子は詐欺なんかしない、一太も真理も、商売は失敗したかもしれないけど、悪い子じゃない……って。うちの支局の担当地区では、早坂兄妹の消息は大きな関心を集めている。なら、取材するのは当然でしょう」
    「それは……そうかもしれません」
     藤沢は噛みしめるようにそう言うと、一つ息をついた。
    「……それで、太刀洗さんが掴んだ情報って、なんなんですか」
     特急「しなの」が東を指して進む速さは、新幹線に慣れた身にはあまりにも遅く感じられる。時間だけは、たっぷりとあった。


       2

     早坂一太と真理の兄妹の下にはもう一人、弓美という末妹がいる。今年大学を卒業した二十三歳で、彼女はフューチャーステアとは関係を持たず、名古屋市内のアパレル会社に勤めている。
     真理のインタビューを取るとき弓美も実家にいたので、わたしは弓美と名刺を交換していた。昨日の午後、一太と真理が姿を消したことがわかってすぐにわたしは弓美に連絡し、二人の行方を知らないか訊いた。まだ仕事中だった弓美は、少し迷惑そうだったがわたしを邪険にはせず、何も知らないと答えた後でこう言った。
    「大丈夫ですよ。兄も姉も、子どもの頃はちょっとしたことで家出してました。そんなに捜さなくても、そのうち、しれっとした顔で戻ってきます」
     しかしそれから数時間後、夜九時を過ぎた頃、今度は弓美から電話がかかってきた。彼女は戸惑うような声で言った。
    『姉が電話をくれました。それで……もしご迷惑でなければ、いまから来ていただくことはできますか?』
     弓美は、名古屋市金山に住んでいる。腕時計を見て、一時間半で行くと約束した。
     弓美が住むマンションは金山駅から歩いて七分の位置に建つ五階建てだった。エントランスにはオートロックがついていて、機械式の駐車場もあった。弓美の部屋は最上階にあり、間取りはわからないが、リビングは十二畳ほどはあっただろう。ガラステーブルに、ずいぶんと香りの強い紅茶を出してくれた。
     それで、と促すと、弓美は申し訳なさそうに「こんな夜中にお呼び立てして、すみません」と切り出した。
    「九時ちょっと前に、姉から電話がありました。ずいぶん酔っているようで、どこにいるのかと訊いたのに、わたしの話はあんまり耳に入ってないようでした。しかも一方的に電話切っちゃうし……。やっぱり捜した方がいいのかなって思うんですが、警察に捜してもらったら、もし見つかっても姉は警察に捕まったってことになりそうだし、友達とか会社の人には姉たちのことを隠してるから相談できないし、どうしていいかわからなくなって」
     フューチャーステアの経営破綻について、真理はともかく一太はなんらかの法的責任を問われることになるだろうが、それと失踪の捜索とは別の話だ。警察に通報したからといって、真理が逮捕されることはなかっただろう。とはいえ、躊躇する弓美の気持ちも理解できた。
    「わかりました。わたしにできることはしますから、どんな電話だったか詳しく教えてください」
     弓美はボイスレコーダーをガラステーブルに置いた。
    「いちおう、いつ電話がかかってきてもいいようにと、これを手元に置いていました。始めの部分は録れていませんが、後は聞けるはずです」
     他の手がかりがないかしばらく話を聞いてみたが、弓美はもともと一太とは没交渉で真理とも半年ほど連絡を取っておらず、最近の事情は全く知らないのだという。
    「実家からも何か知らないかと訊かれるんですが、本当に、さっきの電話が初めてなんです」
    「そう……。とにかく、聞かせていただきます」
     再生ボタンを押すと、弓美が言っていた通り、会話の途中から録音したらしい声が流れ出す。わたしはよく聞き取るため、髪をかき上げて耳を出した。
     その会話データは、昨夜のうちにテープ起こしも済ませている。

    弓美:……ちゃん、いまどこにいるの。お父さんもお母さんも心配してる。
    真理:いま、いまはね、車の中。お酒飲んでね、いまは空を見てる。
    弓美:無事なの? テレビで見て、心配してた。
    真理:テレビなんか見ちゃだめだよ。ああ、でも、弓美はテレビっ子だったもんね。
    弓美:お姉ちゃん、酔ってるの?
    真理:(えずく音)
    弓美:大丈夫? そっちに行こうか?
    真理:何言ってんの。あんたは仕事があるでしょ。あたしはね、お仕事なくなっちゃった。
    弓美:だいぶ酔ってるじゃない。ねえ。
    真理:大丈夫じゃないのかな。さっき、男の人に介抱されちゃった。言葉が上手くて、割と恰好よくてね。ちょっと好み。
    弓美:男の人って、お姉ちゃん、大丈夫なの? いまもその人といるの?
    真理:大丈夫だってば。変な気まわすんだから。
    弓美:ねえ、お父さんたちにも連絡してあげてよ。すっごく心配してるんだから。
    真理:どうかなあ。
    弓美:教えてよ。いまどこにいるの?
    真理:うーん、おばあちゃんちの近く。でも、あれだね、やっぱりだめだね。会いに行けない。
    弓美:そんなことないってば。おばあちゃんも喜ぶよ。
    真理:ホテルがあるような町じゃないし、タイヤがあれだから移動もできないし、困ったねえ。
    弓美:大丈夫だから、おばあちゃんちに行ってよ。今夜は寒いよ。
    真理:平気。うどんみたいなの食べてね、いますっごくあったかいの。ねえ弓美、あたしもふつうになれたはずだったんだよね。
    弓美:何言ってるの、お姉ちゃん。ね、いいから教えて、いまどこなの?
    真理:弓美は自分の好きな仕事ができてよかったね。あたしやお兄ちゃんの妹だって、まわりに言ったらだめだよ。
    弓美:おばあちゃんって、どっちのおばあちゃん? ねえ。
    真理:好きよ、弓美。
    弓美:お姉ちゃん?
    真理:風邪引かないように、早く寝るんだよ。じゃあね。
    弓美:お姉ちゃん、もしもし……。

     弓美は自分と姉との会話を聞きながら、しきりに首を捻っていた。
    「姉は酒飲みだけど、こういう酔い方はしない人のはずなんです。やっぱり年かなあ」
     わたしは、その時点で訊けるだけのことを訊いた。
    「早坂さん。『おばあちゃん』はどこにお住まいですか」
     弓美ははきはきと答えた。
    「父方の祖母は山梨県の幡多野町に、母方の祖母は静岡県の御前崎に住んでいます」
    「おじいさんはどちらもご健在でしょうか?」
    「母方の祖父は亡くなりました」
    「では、『おばあちゃんち』は、母方のお宅を指していると考えていいですか」
     弓美はかぶりを振った。
    「いえ。父方の家を指すときも、姉は『おばあちゃんち』と言ったと思います」
    「ふだんからそう呼んでいたんですね」
    「はい」
    「どちらが特に親しかったということは、ありましたか?」
     少し間があって、弓美はまた、かぶりを振った。
     早坂真理が静岡と山梨のどちらに向かったのか、この時点でわたしには確信があったが、推測を伝えるのはやめておいた。代わりに、
    「わかりました。これだけわかれば、きっと捜し出せます」
     と言った。弓美はぺこりと頭を下げた。
    「よろしくお願いします」
    「お任せください。あと、もう一つ訊かせてくれませんか」
    「……はい」
    「なぜわたしに連絡をくれたんですか。弓美さんのところには、きっと他にもたくさん取材の申し込みがあったはずです。でもどうやら、弓美さんはわたしにだけ連絡をくれている。なぜでしょうか」
     答えは、すぐに返ってきた。
    「前に、姉が言っていたんです。いろんな雑誌やテレビが、勝手に姉のイメージを作ろうとしたって。でなかったら、たった十分ぐらい話しただけなのに、それを水増しして勝手に姉の『本音』にしてしまったって。
     でも、太刀洗さんだけは違ったって言っていました。最初は無愛想な人だなって思ったそうです。だけど、あの人と話していたら、インタビューの質問に答えているだけなのに、自分でも気づかなかった自分の考えを引き出された。太刀洗さんだけが本当に自分の話を聞こうとしてくれたって、嬉しそうに話していました。太刀洗さんを選んだのは、だから、です」
     そのインタビューは憶えている。けれど、それが記事になったものを、早坂真理は読んだだろうか。充分な仕事ができていたのか、わからない。
     わたしは言った。
    「ありがとう。あの方は自分が客寄せになっていることを誰よりも知っていました。それなのに、フューチャーステアの仕事はたくさんの人を幸せにするはずだと信じて、きわどい質問や注文を捌いて、いつもにこにこと笑っていました。……わたしは、早坂真理さんが好きです」
     ボイスレコーダー本体は貸してもらえなかったが、音声データはメモリスティックに移させてもらった。
     金山のマンションを辞した頃には、二十四時近くなっていた。

     昨日ろくに寝ていないはずなのに、藤沢は目を何度もしばたたかせながら、じっとわたしの話を聞いていた。
    「もし早坂真理を見つけられたとしても、彼女は憔悴していると思う」
     わたしはそう言った。
    「早坂真理のコメントが取れたら、故郷で彼女を心配している人たちや、妹の弓美を安心させられる。でも、できるだけ早く捜してあげたいから、藤沢くんにも来てもらったの」
     藤沢は何も言わず、頷いた。
     自分のバッグからクリアファイルを出して、藤沢に渡す。
    「これが、通話を書き起こしたもの。早坂真理の現在地の直接的な手がかりは、いまのところこれしかない」
     ファイルに挟んだA4のプリントアウトを一通り読み、藤沢は慎重に言った。
    「電話で、居場所は言っていないんですね」
    「意図的に言わなかった感じね。何が何でも隠したいとまでは思ってなかったみたいだけど」
     彼は再び目を凝らして通話記録を読んでいたが、ほどなく天井を仰ぐと眉根を揉み、唸った。
    「これじゃ、わからないですよ」
    「そう?」
    「甲府に向かっているんだから、太刀洗さんは山梨の方があやしいって思っているんですよね。わからないなあ……二分の一の賭けでしょう、これ」
    「賭けは賭けだけど、かなり分のいい賭けだと思う」
     車窓の外は、いつしか信濃の白い山野に変わっていた。赤い目をした藤沢は、じっと考え込んでいる。
     ややあって、
    「わかりません」
     と返ってきた。
     説明する必要はないと思っていた。けれどそれでは、徹夜明けなのに巻き込んでしまった藤沢に、あまりにも悪い。手を伸ばし、通話記録の一部を指でなぞる。
    「ここよ」
    「……『タイヤがあれだから移動もできないし』ですか」
    「そう」
     通話記録を藤沢の手から抜き取り、クリアファイルに入れてバッグに戻す。
    「待ってください、それだけですか」
    「それだけって?」
    「タイヤがどうかしたんですよね。それで、なんで静岡じゃなくて山梨だって言えるんですか」
     軽快なメロディーが流れた。車内放送が入る。
    『間もなく塩尻、塩尻です。お忘れ物にご注意ください』
     窓の外では、雪景色が次第に街並みへと変わっていく。わたしは言った。
    「パンクの可能性も皆無じゃないけど」
    「はあ」
    「ノーマルタイヤだったんでしょう」
     藤沢は「あ」という声を漏らした。
     特急列車が減速を始める。
    「昨日は東日本の広い範囲で雪が降った。山梨でも、少量ながら積雪があった。早坂真理の車はノーマルタイヤだったから、雪が積もってしまうと動きづらかったんでしょう。それで、『タイヤがあれだから移動もできないし』という言い方になった。念のため調べたけど、雪が降ったのは東北全域と新潟県、長野県、山梨県、群馬県。静岡県御前崎市で降雪は観測されていない」
     クリームイエローのマフラーを首に巻き、ネクタイ結びにしていく。
    「早坂真理が昨夜いたのは、山梨県幡多野町よ。『あずさ』に乗り換えたら、休んでいて。甲府に着いたら起こすから」



    ※7月19日18時~生放送


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