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【第156回 芥川賞 候補作】『しんせかい』山下澄人
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【第156回 芥川賞 候補作】『しんせかい』山下澄人

2017-01-12 17:30
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    「揺れますよ」
     と船乗りがすれ違いざまささやいたことに乗船口からずいぶん歩いて気がついた。振り返って船乗りを見た。光る黄色が横へ一本はいった紺の上着の船乗りの背中は広くヘルメットは白い。その向こうは夜だ。そこから次から次へトラックが来て人が来る。しかし船乗りはただ立っているだけで誰にもささやいたりしない。見てもいない。なぜあの船乗りはぼくにだけささやいたのだろう。ほんとうにささやいたのか。ささやいてなどいないのじゃないか。そもそもあれは船乗りか。船乗りだとしてあれはあそこにいるのか。いたのか。
    「何かいっつもそうやな」
     誰かがそういった。
    「あんたの話って何ひとつまともに聞かれへんわ」
     天だ。天がそういったのだ。天は高校の同級生で去年の春高校を卒業してからたまに会ったりしていた女で、しばらく遠くへ行くということをきちんと伝えようと昨日会った。何ヶ月も前に遠くへ行くと伝えた気でいたのだけど前の日「明後日行く」と電話したとき天がはじめて聞いたように驚いたのでそのことに驚いて会うことになった。
    「明日て何なん」
     天がいった。
    「明日て何よ。そういうことってもっと早いうちにいわへん? 普通」
    「いうた」
    「いうてへん」
     そうなのか。いった気がするけどいってなかったのか。なのならと謝った。
    「ごめん」
     そのときだ
    「何かいっつもそうやな」
    「え」
    「あんたの話って何ひとつまともに聞かれへんわ」
     といったのは。
     船室は二等でベージュ色のカーペットの敷かれた大広間で、壁際に棚があり、棚の上には丸い窓が確かあった。ここでこれから向かう場所で同期となる、二年間一緒に暮らす、川島さんという人と立川さんという人と落ち合うことになっていた。窓の外は黒い。月も見えない。月は出ていない。
    「いっつも何だってそうやん。そんな気がする。気がするって何よ。こんな大事なこというたかいうてないかもおぼえてないの? そんなことある?」
     喫茶店の店長らしい男がカウンターの奥にいた。店長かどうかは知らない。きれいにそろえられた鼻の下のひげがそう見せていた。白いヨットの写真が壁にあった。それはどこか外国の海だ。どこからをこの国の海といい、どこからを外国の海というのだろう。あとでデッキに出てみよう。夜の海を見てみよう。
    「しばらくてどれぐらい」
    「二年」
    「二年何しに行くわけ」
    「馬の世話」
    「は」
    「と俳優」
    「とはいゆう?」
    「俳優」
    「はいゆう」
    「の、勉強」
    「はいゆうて、あの俳優? 映画とかの?」
    「うん」
    「俳優なんの?」
    「わからん」
    「なりたかったん?」
    「わからん」
    「なんやそれ」
     天はいった。
    「なんやそれ」
     高校を卒業してアルバイトをしていた。去年の暮れ、新聞に、これから向かおうとしている場所の募集記事が載っていた。

    二期生募集

     その新聞は家に間違えて配達されたものだった。間違えて配達された新聞にその記事はあった。それは俳優と脚本家、脚本家というものが何なのかよくわからなかったので辞書で調べた、を目指すものを育てる知らない名前の人の主宰する場で、馬の世話をするというのと、生まれて育った土地から遠く離れたとこにあるというのと、入学金や授業料が一切かからないというのにひかれて応募して試験を受けたら受かった。
    「俳優て」
     俳優になりたかったのかどうなのかはわからない。映画は好きでよく見ていた。ブルースリーの映画や高倉健の出るやくざ映画は学校をさぼって見に行ったりしていた。かっこいいなぁと思いながら見ていた。俳優になりたいというよりブルースリーになりたかった。高倉健になりたかった。
    「え」
     天がいった。
    「みたいに、じゃなくて?」
     ぼくがうなずいた。
    「無理やん」
     真面目な顔で天はそういった。
    「ブルースリーとか高倉健はブルースリーや高倉健や。みたいにはなれてもそのものにはなられへんやん。山下くん」
    「うん」
    「しっかりして」
     船のエンジンが調子を変えた。目をあけると赤い鉢巻をした男がいた。男は笑っていた。鉢巻はバンダナだった。
    「かわじまです二十八です俳優志望です」
     男はいった。
    「かわしま、じゃなくて、かわじま。二十八。老けてるけど」
     あわててからだを起こしてあいさつをした。
    「やました」
    「はい」
    「すみとくん」
    「はい」
     川島さんは頭と、右の二の腕のところと、左のふとももにバンダナを巻いていた。腕は青、ふとももはピンクだった。人が増えていた。
    「みんなトラックの運転手」
     川島さんがいった。
    「わしも転がしとったんよ長い間」
    「だからこんなに顔が老けてしもて」
    「そんな顔で俳優なんかできるかよぉてみんなにいわれた。でも受けたら受かった」
    「受かった理由はわかっちょる。おっきいトラック転がせるから」
    「ほら、当分は家建てたり、そのためにもの運んだりが主でしょ、あっちは」
     試験を受け、合格しましたとの知らせが届き、その時一緒に送られて来たプリントにもそう書かれていた。これから向かう場所は、俳優や脚本家になりたい人間の集まる場ではあるのだけど、教室でただ座ってものを教わるというのではなく、二年間共同生活をしながら自分たちで自分たちの住む場所を作ったり、雪のない時期は農家に出て働いたり、馬の世話をしたりしながら俳優なり脚本家なりの勉強をするという、大きなトラックが動かせるのはいい、助かる、便利だ、といわれてもおかしくはない、行ってみなければどんなところなのかまったくわからないそんな場所だった。

    ※1月19日(木)18時~生放送
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