第一章 平原の国へ
 夜のコンパートメントは静かだ。
 シュレージェン駅(現ベルリン東駅)からワルシャワ行きの夜行列車に乗りこんで二時間。乗車してしばらくは一等車内でも通路を行き交う人々の声は聞こえたが、この時間ともなれば静かなものだ。
 コンパートメントの寝台は上下二段。下段に寝転がった慎は目を閉じ、全身で列車の振動を感じていた。聞こえるのはただ、車輪がレールの継ぎ目を通過するたびに生じる軽快な音のみ。世界で感じる唯一の音を、全身で聴く。
 ごとん、と音がするたびに、無意識のうちに頭の中で数を数える。継ぎ目を通過する音の回数にレール長を掛ければ、だいたいの距離が出る。今はそんなことをする必要はないとわかっているが、これはもはや習性となっていた。列車に乗ると、必ずやってしまう。
 中学卒業後に外務省留学生試験に合格し、北満洲の哈爾浜へと渡ってはや十年。移動する際は、徒歩だろうが列車だろうが、距離をはかる癖がしみついてしまった。今年の夏、久しぶりに日本に戻った時も、路面電車でうっかり同じことをやっていることに気づいて我ながら苦笑したものだ。
「国境まで、あと小一時間というところか」
 つぶやきは、あっさりとシーツの中に吸いこまれてしまう。
 次の駅は、フランクフルト・アン・デア・オーデル。名の通り、オーデル河畔のフランクフルトで、ヘッセン州にあるマイン河畔のフランクフルトとは異なる。オーデル川を越えれば、ほどなくポーランド。目的地である首都ワルシャワは、ここから東へ三百五十キロほど。朝には到着するはずだ。
 身を起こし、窓にかかる濃緑色のカーテンを開く。ガラスのむこうは真っ暗で何も見えない。ただ、読書灯の灯りに浮かぶ自分の顔が映るだけだ。やはり疲れた顔をしている。実年齢の二十七より、十近く老けて見えた。
 仕方がない。一週間前、マルセイユ港から欧州に上陸して以来、常に緊張し続けていたのだから。
 慎は、備え付けのテーブルに放ったままにしておいた新聞を手にとった。シュレージェン駅のキオスクで購入した『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の一面には、平和を称える文字が大きく躍っている。その下に掲載された写真には、ドイツ、イタリア、イギリス、フランスの四首脳が記念撮影よろしく並んで立っていた。この写真はみな生真面目な顔をしているが、ページをめくれば、イギリス首相のチェンバレンとドイツ総統ヒトラーが笑顔で握手をしている写真がある。
 新聞の大半は、ミュンヘンで行われた首脳会談が大成功のうちに終わり、欧州に平和をもたらした四首脳─ことにヒトラーを称える記事に割かれていた。彼の名と、一九三八年九月三十日という今日の日は、欧州の、ひいては世界の平和が守られた日として永久に歴史に残るだろうとまで書かれている。
 平和をもたらした、との言は決しておおげさではない。まさに昨日まで、この欧州は一触即発の事態にあったのだから。
 問題は、今年四月、ドイツ系住民が圧倒的多数を占めるチェコスロヴァキア西部のズデーテンで、住民が政府に自治を求めたことに端を発する。通称「ズデーテン危機」は、三月にオーストリアを併合したばかりのナチス・ドイツが便乗したことによって、一気に緊迫の度を増した。
 慎が横浜を出港したのは、不穏な知らせが毎日のように欧州から届けられるさなかのことで、見送りに来ていた家族や友人はたいそう心配していた。日本郵船の香取丸に揺られること四十三日、慎がマルセイユ港に降り立った時には事態はさらに深刻になっており、列車でパリについた直後には、チェコスロヴァキアが総動員令を発令、対するドイツもズデーテンの即時割譲を要求したとの報を聞いた。ベルギーを経由しベルリンに到着したのは、ドイツが一方的にズデーテンからのチェコスロヴァキア軍撤退の期限と定めた九月二十八日だった。
 上陸してからというもの、会う人々は皆、戦争の足音に怯えていた。二十年前に終結した欧州の大戦争は、まだいたるところに爪痕を残しており、人々はあの恐怖を忘れていない。
 欧州は、平和を切望していた。
 その中で、ベルリンにはまさに開戦前夜のような緊迫感があった。この日までにチェコスロヴァキア政府が割譲を受け入れなければ、ドイツ軍は確実にチェコスロヴァキアに侵攻し、欧州が再び血に染まることになる。慎も、ここで欧州大戦の開始を見ることになるやもしれないと半ば覚悟を決めた。街じゅうに翻るハーケンクロイツの旗、明らかに平時とは思えぬ制服の大群。ラジオから流れるヒトラーや宣伝相ゲッベルスのがなり声。何もかもが開戦を示していたのだから。
 しかし、導火線に火が点される直前で、救いの手がさしのべられた。期日の二十八日にイタリアの首相ムッソリーニが仲介に入り、翌二十九日、ミュンヘンで独伊英仏の四首脳会談が開かれ、今日三十日にズデーテンの割譲を認めたことで、ぎりぎりのところで戦争は回避されたのだった。
 平和が守られたことに、人々は歓喜した。ミュンヘン会談の成功が報じられたのは今日の午前中のことで、号外に歓喜する人々を見て、まるで戦争を待ち望んでいるようにすら見えたこの街も例外ではなかったのだなと実感した。
 欧州は、平和を切望している。
 あの恐怖が再現されるぐらいならば、小国の一国や二国など犠牲にしてもかまわないというほどに。チェコスロヴァキア首相不在の場で、四国首脳の会談で勝手にズデーテン割譲が決められても無邪気に喜べるほどに。
「平和か」
 握手を交わすチェンバレンの安堵したような笑顔を皮肉に見やり、新聞を畳む。その瞬間、夜の静寂を破って怒声が響いた。
「冗談じゃない、こいつをすぐに放り出してくれ!」
 ドイツ語だ。扉を開けて声のほうをうかがうと、二つ先のコンパートメントの扉が開け放たれ、その前に乗務員の大きな体が見えた。ぼそぼそと聞こえるのは、おそらく彼が客を宥めている声か。
 一等車のコンパートメントは定員が二名。客同士で諍いがあった場合、収拾がつかなくなることもままある。しかし、夜中にやることでもないだろうに、と呆れたが、次の瞬間、息を呑んだ。
「なぜユーデルベンゲルがこんなところにいるんだ。すぐに降ろせ!」
 ユダヤ野郎。ユダヤ人の蔑 称。なるほど、それならば喚くのも無理はない。共感は全くできないが、理解はできる。ここはまだドイツ。ユダヤ人の立場は、虫以下だ。二十世紀にあって信じがたいことだが、法律でそう定められている。
 同時に、ユダヤ人と聞いた瞬間に、慎は次の行動を決めていた。前任地の哈爾浜での、最後の大仕事が頭をよぎったからだった。
「なぜ降りる必要が?二等は満員だと言われて、わざわざ倍の金を払ってこちらに来たんだ。出ていく謂われはないな」
 まだ若い声だった。国外の訛りがある。激昂する相手とは反対に、口ぶりは冷静だった。
「ユダヤ野郎が一等に乗れるわけがないだろう、なぜ確かめなかったんだ⁉とっととこいつを警察に突き出せ!」
「車掌を責めても仕方がないだろう。俺の国じゃ、俺程度の血の混ざり具合じゃわざわざパスポートにユダヤ人と書く必要はないからな」
 若い男の口調は冷静だったが、挑発する響きがある。慎は少なからず驚いた。今のドイツに、ここまで堂々と反論するユダヤ人がいるとは。好奇心と、早く場をおさめねばという使命感にかられて通路に出ると、反対側から歩いてくる人影が目に入った。
「ユダヤ野郎だと?」
 第三者の声は低く、嫌悪と怒りにひび割れていた。ああ、これはまずいなと直感した。男は、夜中だというのにわざわざSS(ナチス親衛隊)の上着を着ている。身長はさほど高くはないが、いかにも頑丈そうな体つきで、まだ若い。三十代半ばといったところだろうか。つるりとした顎を撫で、酷薄な笑みを浮かべたSS隊員は大股でコンパートメントに近づき、車掌を押しのけて足を踏み入れる。何かを叩きつけるような音が響いた直後、一人の男が通路に投げ出された。
「油断するとすぐに入りこむ。次の駅でとっとと放り出せ。こいつの荷物は?」
「失礼」
 SS隊員が、男をさらに踏みつけようとした瞬間、慎は声をかけた。SS隊員の足が、男の胸に蹴りこまれる直前で止まる。
「彼を私のコンパートメントへ移してください」
 慎は、SS隊員の足の下で呻いている男を見て言った。受け身もとらず、頭から倒れこんだように見えたが、近づいてその理由がわかった。彼は胸に何かを抱えている。妙に角張った、茶色い鞄のようだった。頭を打ったせいか動けない様子だったが、かろうじて意識はあるらしい。きつく瞑られていた目がうっすらと開き、眼球がこちらを向いた気がした。つかつかと距離を詰め、目の前に立ちはだかった慎を、SS隊員は正気かと言いたげな目で見やった。
「何を言っている。こいつはユダヤ人だぞ」
「あいにく私はドイツ国民ではないので関係ありません。かまいませんか」
 水を向けられた車掌は目を瞬き、当惑した様子で慎とSS隊員を見やり、最後に床で呻いている男を見た。
「い、いやしかし……」
「じきオーデルだ。そこでこいつを放り出せば済む話だろう」
 さきほどまで喚いていた男が、コンパートメントからわざわざ出てきて言った。恰幅はいいが、頭髪のほうはだいぶ心 許ない、眼鏡をかけた五十がらみの男だった。異様に高い鼻とその周辺が赤く染まっている。
「こんな夜中に、目的地でもないところで降ろされても困るでしょう。私のコンパートメントは、幸いあいています」
 車掌の目に安堵の色が浮かぶ。よろしいのですか、とおどおどと尋ねる声は、SS隊員に遮られた。
「冗談じゃない、ユダヤ野郎が一等にいるというだけで虫酸が走る。せめて二等に」
「二等は満員だと彼が言っていましたよ。いつまでもここで騒ぐのも、どうかと思いますが。じきポーランドです」
 慎は思わせぶりに、他のコンパートメントの入り口を見回した。目が合った途端、さっと顔を引っこめる者もいれば、頑なに入り口の扉を閉めたままの者もいる。だが、深夜のこの騒乱が一刻も早くおさまってほしいと思うのは、誰もが同じだろう。
 迷惑そうな空気を感じたのか、SS隊員は苦い顔をした。列車はワルシャワ行き。乗客は圧倒的にポーランド人が多い。まだドイツとはいえ、彼には分が悪かった。怒りのこもった目を慎に向ける。
「おまえ、ポーランド人か」
「いいえ、日本人です」
「日本?信じられん」
 SS隊員は怪訝そうに眉をひそめ、まじまじと慎を見つめた。信じられんと言うところからすると、少なくとも彼は日本がどういう国かは知っているらしい。だとすると、そこそこの教養はあるのだろう。日本とドイツは防共協定を結んではいるものの、ドイツ国民の中にはいまだに支那と混同している者も多い。ロシアに勝ち、国際連盟の常任理事国入りしてからというもの、今や我が国はイギリスやドイツに次ぐ大国だと日本国民の鼻息は荒いが、実際にこちらに来ると、友好国ですら日本のことなどほとんど知らないのが実情だ。

※1月19日(木)18時~生放送