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【第156回 直木賞 候補作】『夜行』森見登美彦
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【第156回 直木賞 候補作】『夜行』森見登美彦

2017-01-12 17:30
     学生時代に通っていた英会話スクールの仲間たちと「鞍馬の火祭」を見物に行こうという話がまとまり、私が東京から京都へ出かけていったのは十月下旬のことである。
     昼前に東京を発ち、午後二時頃には京都に着いた。
     京都駅から四条河原町に出て少し街中を歩いてから、市バスに乗って出町柳駅へ向かった。バスが賀茂大橋を渡るとき、秋らしく澄んだ空を鳶の舞っているのが見えた。
     叡山電車の改札は早くも見物客で混雑し始めていた。待ち合わせ時間には早かったなと思いながら柱にもたれていると、人混みの向こうから「大橋君」と呼ぶ声が聞こえる。そちらを見ると、中井さんが手を挙げて歩いてきた。
    「早いなあ」
    「中井さんも」
    「遅刻はきらいだからね。それに、みんなで集まる前にちょっとスクールを覗いてみようと思って」
    「まだあるんですか?」
    「あるよ。懐かしかった」
     その英会話スクールは、出町柳駅から百万遍交差点へ向かう道から、細い脇道に折れた奥にある木造の一軒家だった。外国人の先生ひとりが数人の生徒を受け持って一時間ほど教える。場所柄、生徒は大学生や研究者が多かったようである。私が通い始めたのは大学二回生の頃で、中井さんは同じ夜のクラスだった。当時、彼は修士課程の大学院生だった。
    「昨日から妻と来てるんだよ」と中井さんは言った。
     昨夜は河原町のホテルで一泊し、奥さんは今朝から京都の友人と一緒に寺巡りをしていて、一足先に東京へ帰るらしい。結婚披露宴にも招かれたし、水道橋のマンションへ遊びに行ったこともあるので、奥さんとは私も何度か会ったことがある。
     我々は立ち話をしながら他の仲間を待った。
    「よく集まったなあ」と中井さんは呟いた。
    「……あれからもう十年ですからね」
     十年という歳月は、長いのか短いのかよく分からない。東京で日々を送っていると、京都のことはずいぶん昔のように感じられる。しかし実際に京都までやってきて、こうして中井さんと言葉を交わしていると、さほど時間が経ったとも思えない。
    「大橋君が呼びかけてくれて良かった。そうでもなければ、僕はもう二度と行かなかったろうし」
     中井さんがそう呟いたとき、地下の京阪へ通じる階段口から武田君が姿を見せた。我々の仲間内では一番歳下で、私が出会ったとき彼はまだ一回生だった。武田君は我々の姿を見つけて駆け寄ってくると、にこやかに笑いながら言った。
    「やあ、先輩がた。ご無沙汰しております」
     英会話スクールに通っていた頃、中井さんは仲間たちの中心だった。面倒見の良い人だから、色々な人を食事に誘ったりしていた。私が他のクラスの人たちと知り合うことができたのは中井さんのおかげである。今から十年前の秋、一緒に叡山電車に乗って鞍馬の火祭へ出かけた六人の仲間たちも、中井さんを中心に集まった生徒たちだった。
     武田君をまじえて近況を話しているうちに、藤村さんも姿を見せた。彼女は武田君と同い年で、今回の鞍馬への旅では唯一の女性だった。彼女は我々の姿を見て笑いだした。
    「なんだか久しぶりな感じが全然しない」
    「そういう感じがするだけだよ」と武田君が言った。「僕はずいぶん変わったからな。人間として大きくなったというか」
    「それ本当?」
    「いずれ滲み出てくるから」
    「それでは諸君」と中井さんが言った。「とりあえず貴船の宿まで行こうか」
     最年長者の田辺さんは仕事の都合で少し遅れるということだったので、我々は改札を抜けて叡山電車に乗りこんだ。
     叡山電車は市街地を抜けて北へ向かう。
     学生の頃、叡山電車は私にとって浪漫だった。夕闇に沈む町を走り抜けていくその姿は、まるで「不思議の国」へ向かう列車のように見えた。たまに乗ったときには、ひどく遠くへ旅をしたように感じられたものである。そんなことを考えながら車窓を眺めていると、隣に立った藤村さんが話しかけてきた。
    「大橋さん、呼びかけてくれてありがとう」
    「まだ番号が通じてよかった」
    「東京に戻ったら、うちの画廊にも寄ってください。仕事場から近いでしょう?」
    「でも絵を買う趣味なんてないからなあ」
    「いいんですよ、そんなの。遊びにきてください」
     それから彼女は車窓を見つめて黙りこんだ。学生時代のことを思い返しているのかもしれない。
     やがて彼女は口を開いた。
    「どうして呼びかけようと思ったんですか」
    「どうしてかな」
    「何か理由があるんですか」
    「理由なんてとくにないよ。そろそろいいだろうと思って」
    「……そうですね。私もそう思います」
     藤村さんは頷いて車窓を眺めている。
     十年前の夜、英会話スクールの仲間たち六人で鞍馬の火祭を見物に出かけた。仲間のひとりがその夜に姿を消した。
     当時の新聞を探せば小さな記事が見つかるが、たいしたことは書かれていない。関係者の努力もむなしく、何一つ手がかりはなかったのである。まるで虚空に吸いこまれたかのように彼女は消えた。失踪当時、長谷川さんは私と同じ二回生だった。
     私がみんなに呼びかけたのは、彼女に呼びかけられたからではないだろうか。ふとそんなことを思った。次第に山深くなっていく車窓を眺めていると、沿線の杉木立の暗がりに、十年前に姿を消した長谷川さんが佇んでいるように思われた。
     そのとき、先ほど訪ねた画廊の情景が脳裏に浮かんできた。
     昼過ぎに京都駅に到着したが、待ち合わせまでにはまだ時間があったので、私は四条へ出て繁華街を歩いた。
     街には観光客が溢れていて、外国人旅行者の姿も多かった。表通りの人混みをさけて裏通りに入って、高倉通を北へ向かった。ビルの谷間から見上げる秋の空は高く澄んでいて、学生時代にもこんな空を見たと懐かしくなった。
     そうして歩いているうちに、ふと目の前をゆく女性の後ろ姿が気にかかった。その姿には超然とした雰囲気があった。背筋がまっすぐに伸びて、黒髪が秋の陽射しに光っている。いつの日か、どこか遠い街で、その後ろ姿を見たような気がする。
     どうしてそんなに懐かしい感じがするのだろうと思っていると、その女性は高倉通に面した一軒の店に入っていった。チラリと見えた横顔は長谷川さんにそっくりだった。
    「彼女であるはずがない」
     そう思いながらも胸が高鳴って小走りになっていた。
     その店は間口の狭い画廊で、銅製の看板には「柳画廊」とある。ショーウィンドウは銅色の布張りで、「岸田道生個展」というプレートとともに、一点の銅版画が展示されていた。妙に心惹かれる絵だった。黒々とした夜の木立の向こうを明るい列車が駆け抜けていく。手前にひとりの女性が立ち、その列車に呼びかけるように右手を挙げていた。こちらには背を向けているので顔は見えなかった。タイトルには「夜行──鞍馬」とある。
     私は硝子扉を開いて画廊に入った。
     奥行きの深い画廊は薄暗くて、かすかに香を焚くような匂いが漂ってきた。乳白色の壁に点々とかかっている銅版画はいずれも暗い色調で、まるで白い壁に穿たれた四角い窓の向こうに夜の世界が広がっているかのようだ。分厚い硝子扉にへだてられて街の賑わいは遠のき、画廊の中は別世界のように静かだった。
     しかし先に入った女性の姿はどこにもなかった。
     私が戸惑っていると、奥の衝立の蔭から画廊主らしい背広姿の男性が姿を見せた。まだ三十代後半ぐらいの男性である。
    「いらっしゃいませ」
    「今、ここへ女性が入ってきませんでしたか?」
     画廊主は怪訝そうな顔をした。
    「……いいえ」
     きっと見間違いだったのだろう、と私は思った。
     十年ぶりに鞍馬の火祭へ出かけるという緊張が、ありもしない幻影を見せたにちがいない。ある種の区切りをつけるために鞍馬への旅を呼びかけたというのに、私はまだ長谷川さんがこの世界のどこかで暮らしているという確信を捨て切れずにいるようだ。
     そのまま出ていくのも気が引けたし、待ち合わせまでには時間もあるので、しばらく銅版画を見ていくことにした。若い画廊主は穏やかな口調で、メゾチントという銅版画の手法や、作者の岸田道生という銅版画家について語ってくれた。
     岸田道生は東京の芸大を中退後、英国の銅版画家に弟子入りして腕を磨き、帰国してからは郷里の京都市内にアトリエをかまえた。私が学生として京都に暮らしていた頃、岸田氏も同じように京都で暮らしていたことになる。しかし岸田氏は七年前の春に亡くなった。遺された作品の管理は、生前から付き合いのあった柳画廊に託されたという。
    「これらは『夜行』と呼ばれる連作で、四十八作あります」
     天鵞絨のような黒の背景に白い濃淡だけで描きだされた風景は、永遠に続く夜を思わせた。いずれの作品にもひとりの女性が描かれている。目も口もなく、滑らかな白いマネキンのような顔を傾けている女性たち。「尾道」「伊勢」「野辺山」「奈良」「会津」「奥飛驒」「松本」「長崎」「津軽」「天竜峡」……一つ一つの作品を見ていくと、同じ一つの夜がどこまでも広がっているという不思議な感覚にとらわれた。
    「どうして夜行なんだろう」
     私が呟くと、画廊主は微笑んで首を傾げた。
    「夜行列車の夜行か、あるいは百鬼夜行の夜行かもしれません」
     我々が泊まることになったのは、貴船川沿いに軒を連ねる宿の一つで、叡電の貴船口駅から送迎車で山道を十分ほどのぼったところにあった。襖で仕切られた二間の座敷には貴船川の水音が大きく聞こえ、懐かしい畳の匂いがした。山向こうの鞍馬の賑わいが届くわけもないので、あたりはひっそりとしていた。
     田辺さんの到着を待ちながら風呂に入ったりしているうちに、ぽつぽつと雨が降りだしたらしい。武田君が窓から身をのりだして空を見上げた。
    「鞍馬の火祭っていうのは雨天延期になったりはしないんですか」
    「さすがに雨で中止ってことはないだろう」
     中井さんが畳に横たわりながら笑った。
    「あの松明は雨でも燃えると思うよ」
     そのとき、ドスンドスンと階段をのぼる足音が聞こえてきて、「すまんすまん」と言いながら無精髭を伸ばした田辺さんが入ってきた。彼は仁王立ちして我々を見下ろした。
    「くつろぎすぎだろう。祭りへ出かける気あるのか」
     ようやく五人の仲間が顔をそろえ、皆で猪鍋をかこむ頃になると、降り注ぐ雨は一段と激しさを増してきた。軒を叩く雨音が谷川の音とまじって宿を包み、山里の冷気が硝子窓越しに染み入ってくる。
    「よく降りますね」
     私は湯気に煙った硝子窓の外に耳を澄ました。
     温かい鍋をかこんで宴席は賑やかだった。中井さんとは東京でも会っていたが、他の仲間たちと顔を合わせるのは数年ぶりのことだった。今ではそれぞれの仕事があり、それぞれの生活がある。そんなことを語り合いながら、誰もが長谷川さんについては触れようとしない。六人目の仲間を遠巻きにしているような感じだった。
     窓の外の雨音を聞くともなしに聞いていると、あの画廊へ入っていく女性の横顔がふたたび脳裏に浮かんでくる。あのときにはたしかに長谷川さんだと思ったが、今になってその横顔の輪郭をなぞろうとすると曖昧になってしまう。
    「大橋君、静かだね」
     中井さんが鍋の向こうから言った。
    「どうしてそんなに怖い顔をしてる?」
    「昼間、長谷川さんを見たような気がして──」
     私が思わず呟くと、皆はギョッとしたように黙りこんだ。
    「もちろん見間違いですよ」と私は急いでつけくわえた。あとを追って入った画廊に彼女の姿はなかったのだから。
     気まずい雰囲気を紛らわせるために、私はその画廊に展示されていた不思議な銅版画について話をした。「岸田道生という人の作品でしたよ」と言ったとき、田辺さんがハッとしたように顔を上げた。「あの画廊に寄ったのか。柳画廊だろう?」
    「ええ、そんな名前でしたよ」
    「俺も寄ったんだよ。すれ違いだったんだな」
    「田辺さん、画廊なんて行くんですか」
    「まあな。ちょっとな」
     それきり田辺さんは黙りこんでしまった。
     その奥歯に物の挟まったような言い方が気に掛かる。武田君や藤村さんを見ると、彼らもまた岸田道生という画家について何か心当たりがありそうだった。
     しかし最初に口を開いたのは中井さんだった。
    「その人の絵は僕も見たことがある。尾道へ行ったとき、ホテルのロビーに飾ってあったよ」
    「尾道ですか」
    「行ったことあるかな。広島の」
    「どうして尾道へ? ご旅行ですか」
     藤村さんが訊くと、中井さんは苦笑した。
    「それが色々と事情があってね……」
     そうして中井さんは尾道の思い出を語り始めた。その話に耳を傾けている間も、山里の夜に雨は降り続いていた。


    ※1月19日(木)18時~生放送
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