2年間浮気していた。それがキレイにばれた。なぜばれたのかはそれから半年が過ぎてもわからない。ある朝気がつくと、引っ越して来たばかりのリビングのテーブルの上に2枚の紙が置かれていた。映画雑誌に載っていた浮気相手のプロフィール写真の切り抜きと、彼女の名前と所属事務所と自宅の住所まで書かれたメモだった。始めは、わりと静謐なたたずまいでもって、それらはそこにあった。縦書きで書かれた女の自宅の住所にいたっては、メモに使われたコピー用紙のその部分から柔らかい光が天井に向かって垂直に放たれているかのような、神秘的とすらいえる濃厚な存在感を醸している。そういうふうに見えた。丁寧な字だった。ここまで丁寧な妻の字を見たのは、結婚して7年になるが初めてだった。その時間のかけ方が、じわじわとことの不穏さと、もう引き返すことのできない現実の無情を訴え始めるのだった。
「なにをどこまで、いつから、知っている?」
海馬五郎の脳の中はピンボールマシンのようにやかましくなっていた。「なにをどこまで、いつから?」。その言葉が、頭の中をあっちにぶつかりこっちにぶつかり、彼の今までの思考の速度ではありえないスピードで跳ね回り始めたからだ。
額に滲む汗をシャツの袖でぬぐい、ふと顔を上げると、エメラルドグリーン地に中国の子供の刺繍の入ったスカジャンを羽織ったワンピース姿の妻が、リビングのドアを開けて無表情に海馬の顔を見ていた。まるで実験を観察する科学者のような眼差しだ。朝だというのに簡単な化粧をすませている。窓からさす柔らかい光の中で時間が止まったように身じろぎもしない二人をとりまくリビングの光景は、ハイパーリアリズム絵画のようである。なにか発するべきだ。そうは思うが、何ひとつ思い浮かばず、海馬はただ膝からヨロヨロと崩れるように座る。そして、リビングの冷たい床に頭をこすりつけて死の淵の犬のようなうめき声をあげながら、妻の黒いヒールスリッパを鼻先に土下座する。するしかなかった。
別れたくない。もう、孤独な生活はこりごりだ。浮気をしておきながら、勝手なことと知りながら、海馬は心からそう思うのだった。
前の妻との離婚から8年たっての結婚だ。その8年がつらすぎた。自分はすでに初老の域にさしかかっている。そのうえまずいことに最近コマーシャルに出ている。そのギャラで程度のいいマンションに越し、代官山に新しい仕事場まで借りたばかりだ(そのマンションには16万円もするローバックのソファベッドが置いてあり、女と浮ついたことをするにはうってつけだった)。だが、ことがマスコミにばれたら、スポンサーに膨大な違約金を支払う羽目になる。モラルが凶器として振りかざされるご時世だ、物書きの仕事も失うかもしれない。こんなことなら下手に俳優業を再開するべきではなかったとすら海馬は悔いていた。若い頃、小劇場を齧っていたものの、長いセリフを覚えられないので早々に俳優の道はあきらめていたのに。だが、海馬は痩せて黒縁の丸眼鏡で顎のしゃくれた特徴的な顔をしていて、それが滑稽に見えたり知的に見えたり不気味に見えたりするので、芝居を辞めた後、映画業界に長年出入りするうち、その風貌を監督たちにおもしろがられた。それで、マッドサイエンティストや犯罪者など飛び道具的な役割で、映画やコマーシャルに出演依頼が来るようになったのだ。シナリオやテレビの構成の仕事とは違い、周りのスタッフにちやほやされるし、拘束時間のわりには(俳優海馬は、どんな映画にもせいぜい1、2シーンしか出番がなかった)ギャラがいい。断る理由はない。だが、それで、中途半端にだが名が売れてしまった。
そんな撮影の現場で、30代のスタイリストと知り合い、深い関係になった。深いといっても、それはただ、一緒に酒を飲みセックスをするような関係ということだ。
仕事がいき詰っていた。創作のための刺激が欲しかった。それだけだ。などといくつかの陳腐な言い訳が頭をよぎる。スタイリストの方も、なにも本気じゃない。ただの興味本位だったのだろう。妻との関係をおびやかすような気配はいっさいなかった。しかし、住所まで知られている彼女がたとえば、妻に訴えられでもしたら、やはりニュース沙汰は避けられない。なので、何とかこの件は内密に収めてくれ、無条件降伏だ、と、やっと海馬は食いしばった歯の隙間から絞り出すように懇願したのだった。そして、後はひたすら後悔と懺悔の言葉を思いつく限りまくしたてた。なにしろ、妻も元スタイリストなのだ。スタイリストの妻がいるのにスタイリストと浮気して、なにが創作の刺激になるものか。言い訳の余地はないのだ。逆を考えてみる。妻が自分より若いシナリオライターと浮気していたら? 考えるまでもなく地獄じゃないか。つまり、今、頭の中の大部分を地獄が占有している女を自分は見上げて許しを乞うているのだ。
「……無条件ね。無条件降伏、無条件……」
夫の泣き言を目は据わったままの半笑いで聞くだけ聞いて、妻はその言葉を口の中で飴のように転がしたのち、みっつの判決を下した。聞いたこともないような事務的な喋り方だった。