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【第159回 直木賞 候補作】『傍流の記者』本城雅人
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【第159回 直木賞 候補作】『傍流の記者』本城雅人

2018-07-11 13:00
    プロローグ

     二〇二一年某日 東都新聞総務局。
    「これが昨夜、うちの記者が財団の理事長にぶつけたメモだ」
     同期の運動部長が、A4にプリントアウトした取材メモを見せてきた。
    「あっちの部屋に行こう」
     なにかあったら応接室まで連絡してくれと部下の総務部員に伝え、局長席を立つ。
     使っていない応接室の灯りを点け、メモを読む。
     そこには二年前に設立された公益財団法人からの不正な資金流出について、東都新聞の記者と財団の理事長とのやりとりが仔細に書かれていた。
    「この件、他に裏取りは?」
     最後まで目を通してから言った。
    「社会部の島有子が特捜検事に当てた。最初は苦い顔をしていたそうだが、しつこく食い下がったら『邪魔しなければいい』だったと」
    「ということはすでに着手してるということか」
    「ああ、書いたところで捜査は止まらない」運動部長が答える。
    「それなら行くしかないんじゃないか」
     運動部長の表情が強張った。「なんだよ、書くつもりだったから、俺のところに来たんだろ」
    「そうだが、この財団にはうちの副会長も理事として名を連ねてる。設立委員会には会長も関わり、東都新聞全体で必要性を紙面で訴えてきた」
    「会長や副会長が資金を着服してるわけではないんだよな」
    「俺たちの取材ではそんな事実はでてきてない。だけど利益供与の疑いがある者の中には、うちの政治部が親しい政治家が大勢いる。オリンピック後の景気悪化でどこもかしこも資金不足だ。もらえる利権を喉から手が出るほど欲しがってる。首相にたかってきた連中だけじゃない。首相にしたって叩けばなにかしらの埃が出る」
     今の東都新聞は与党寄りだ。紙面に出せば東都新聞は自分の首を絞めることになる。それでも不正を掴んだのであればそれを書くのが新聞の使命である。
    「分かった。すぐに編集局長に直訴して東京、大阪、九州の三本社の編集会議を要求しろ」
    「おまえはどうする」
    「会長、副会長に確認しにいく。紙面にする正当性を訴え、誰にも邪魔させないようにしておくよ」
     そう答えると、同期の顔が少し緩んだ。


    第一話 敗者の行進


     官舎を囲む塀に、晩夏の朝陽が照り付けていた。植島昌志が階段を昇ると、半袖シャツにネクタイを締めた中央新聞の記者が、ハンカチで首の汗を拭きながら降りてきた。
    「あっ、おはようございます」
     十歳ほど年下の記者は、現れたのが東都新聞の「警視庁キャップ」である植島だったことに驚いたようだ。
     植島は「これは?」と親指を立てた。警視庁捜査一課長がまだ家にいたかという意味だ。中央の記者は苦々しい顔で頷いた。いたというだけではない。二〇一五年八月二十六日、今朝の毎朝新聞に載っていた「二十二歳男子大学生を参考人として取り調べ」の記事で当たりだったということだろう。
     ここ三日間、ニュースは豊島区で起きた女子大生の殺害事件で持ち切りだ。被害者はライブハウスに出演している歌手でもあった。大学を卒業する来春にはメジャーデビューも決まっている。ファンも多く、熱心な追っかけや、大手レコード会社に鞍替えしたことで恨みを持つ音楽関係者などが疑われていた。
     踊り場で植島は手に持っていたジャケットを広げ、袖に腕を突っ込む。さらに階段を上がる。別の新聞社の若手記者の肩越しに捜査一課長のエラの張った顔が見えた。
     朝と夜、「各社一分」という条件で、捜査一課長は自宅取材を受ける。それが出来るのは警視庁担当の中の各社三人いる捜査一課担当の一番上、「仕切り」と呼ばれる役目の記者だけだ。植島がキャップを務める東都新聞は野々垣という後輩に「仕切り」をさせているが、この日はあえてキャップである植島が来た。
     植島は取材の声が届かない階段途中で立ち止まった。一対一で取材している場には近づかないのがこの業界の不文律だが、顔の反応や口唇の動きを見るのは勝手だ。記者が一方的に質問をぶつけているだけなのか、一課長の口は動いていなかった。鑑識畑が長く、ハイテク機器の導入で名を馳せたこの一課長は、なにを聞かれようとも壊れたテープレコーダーのように同じ回答しかしない。捜査員時代から記者嫌いとして有名だった。
     一分間の取材が終わった。踵を返した記者は厳しい顔で階段に向かってくる。彼もまた東都新聞のキャップが一課長宅に朝駆けにきたことに驚いていた。植島は彼の顔も見ることもなく、「おはようございます」と捜査一課長の鉄仮面に挨拶する。階段を降りていく足音が消えてから切り出した。
    「どうして警視庁キャップが来る」
     一課長がいっそう仏頂面になった。
    「課長が電話では答えないと言ったから来たんですよ。僕だってキャップにもなって、朝駆けなんてしたくありませんよ」
     皮肉を込めて返した。
     キャップになったからといって朝駆け取材をしないわけではない。ただ捜査一課長が、捜査一課担当記者の最上位「仕切り」の取材しか受けないのと同じように、新聞記者も自分の担当より階級が下の警察官の元には行かない。キャップの植島が直接取材に行くとしたら刑事部長以上、警視総監までだ。捜査一課長が叩き上げ刑事たちの憧れで出世の頂点といえども、今の植島には格下でしかない。
     それでも植島が、警察と記者との暗黙のルールを破って取材に来たのは、この一課長に鑑識課員の時、何度も取材したことがあるからだった。情報を貰った記憶はほとんどないが、植島が探した証言が元となって、犯人逮捕に結びついたこともあった。それにもかかわらず、この一課長は〈いつからそんなに偉くなったんだ。俺は電話では答えん〉と一方的に電話を切ったのだった。
    「今朝の毎朝新聞に出ていた男子大学生の逮捕は事実ですか」
     あえて「逮捕」と言った。すぐさま「逮捕など誰もしとらん」と尖った声が返ってくる。毎朝も「取り調べ」と書いただけで、逮捕とは報じていない。
    「昨夜、うちの仕切りが『二十代男性を事情聴取していますか』と尋ねた時、課長は否定したそうですね」
     朝から燻っている恨みを隠して言う。
    「彼には知らんと言っただけだ」
     確かに「仕切り」の野々垣からは、一課長から知らないと言われましたと報告を受けた。
    「それなのに毎朝新聞の取材には認めたんですよね」
     野々垣の次に取材したのが毎朝の仕切りだったそうだ。
    「あんたの部下の質問では知らんと言うしかない」
     その回答に敗北を感じた。野々垣がぶつけたのは「二十代男性」だけだ。一方毎朝の今朝の紙面を見る限り、「二十二歳の男子大学生」と質問したのだろう。「二十代男性」と「二十二歳の男子大学生」――違いは明白だが、それでも新聞記者が、刑事たち同様に汗水垂らして走り回っているのを知っている警察官であるならば、少しは情けがあってもいい。
    「分かりました。今回はうちの取材不足でした。ですが、次から質問が掠っている時は、もう少し取材しろなどと、他のお答えも用意していただけると助かります。一課長がそう示してくだされば、僕も部下たちに発破をかけ、捜査に支障をきたさないよう正確な取材をさせますんで」
     この偏屈課長との距離が近づけばと無理やり笑みを作る。
     取材相手との関係は、抜かれた時の態度で大きく変わる。ここでしつこく愚痴ると嫌われる。
     各班が張り合って仕事をしている警察官と、ライバル紙に負けたくないという記者のメンタルは共通している。腐らずに頑張っている記者には、次はヒントをやろうという気持ちが警察官にも芽生える。
     植島はそうやってネタ元と親しくなり、これまでいくつものスクープを取ってきた。その結果、社内ではこう呼ばれるようになった。
     警視庁の植島――。
     だが、負けを次の取材への肥やしにするという取材方法の一つも、堅物の一課長には通用しなかった。
    「もういいか。時間だぞ」
     半袖のワイシャツを着た腕を曲げ、一課長は腕時計の文字盤を植島に向けた。
    「分かりました。でもうちはこの件、まだ諦めてませんよ」
    「来るなら仕切りに来させろ。一課長でいる間は、俺は仕切りとしか話さない」
     自分の方が格下だというのに偉そうにそう言った。
     業腹な思いで植島は来た道を戻る。
    「くそったれが」
     階段の踊り場まで降りたところで、無機質な壁に向かって言葉を吐いた。


    〈ということは毎朝の記事で当たりですね。僕が今朝、行った取材先でも似た反応でした。どうやら毎朝が書いた大学生と被害者は、同じ軽音楽部の同級生のようです。事件があった時間帯にアパート近くで目撃された若い男の外見とも一致します〉
     部下の野々垣は〈ではすぐ後追いします〉と続けた。その言い方に植島は苛立ちを覚えた。
     東都新聞の警視庁担当は、キャップの植島の下にサブキャップが一人、その下には捜査一・三課事件を取材する「一課担」が三人、二課と組織犯罪対策部を見る「二課担」が二人、生活安全部、公安部担当が各一人と八人の部下がいる。一課担の一番上、「仕切り」の野々垣は、強行犯事件の取材を文字通り仕切る役割だった。そもそも今朝の確認だって、野々垣がすべき仕事だ。上が確認してきたことを聞いて〈ではすぐ後追いします〉とは、おまえに仕切りとしてのプライドはないのか。
     植島の怒りは野々垣に伝わっていないようだった。
    〈でも今のキャップの話だと、うちも大学生まで掴んでいたら一課長は答えてくれた可能性はあるってことですよね〉
     おい――。今度は声が出そうになった。「二十代」と「二十二歳男子大学生」では全然違う。その怒りも植島は隠した。
    〈まぁ、山田にも問題がありますけどね。二十代まで聞き出してきたんですから、同じ大学の学生じゃないかくらい、当てても良さそうですけどね〉
     山田というのは「三番機」という一課担の一番下を任せている記者だ。「二番機」は菊池で、二人は支局から本社に上がってまだ一、二年目の若手である。山田は大学でラグビー部、菊池はトライアスロンをしていた体育会系だが、ともに人が良すぎて、義強な警察官から答えたくない事実を無理やり聞き出してくるほどの強引さはない。ただし今の植島の不満は若い二人ではなく、野々垣一人に向いている。
     ――山田のせいじゃない。野々垣、おまえがだらしないから、うちはこんな屈辱を受け続けてるんだぞ。
     植島が七月にキャップになって以来、二カ月弱、東都新聞の警視庁担当は大きなニュースを抜いていない。自分が捜査一課担当、そしてその「仕切り」だった頃、あるいは公安記者だった頃は良かった。自分が必死になって働けばネタはいくらでも取れた。植島は捜査一課のどの係にも、それが捜査上大事な質問だろうが最低でも「当たり」か「間違っている」かを答えてくれる捜査員を一人は持っていた。そしてそのうちの何人かは新聞記者の中で植島だけを自宅に上げ、捜査状況などを詳しく教えてくれた。それは植島と親しくすることが捜査にもメリットがあると考えてくれていたからだ。
     新米記者時代の植島は、コメントをもらおうと現場を歩く刑事の後ろに、しつこく付いていた。
     その時、いきなり振り向いた刑事に怒鳴られた。
     ――てめえ、俺たちは犯人逮捕のために命を削って仕事をしてんだ。話を聞きたけりゃただくっついてんでなく、おまえも死ぬ気で取材してからこい。
     それからは、植島も事件が起きれば刑事に負けないほど一軒ずつ聞き込みをやり、目撃証言を取った。未発表の情報を掴むとそれを刑事に当てにいく。彼らが知らない情報もあり、詳しく聞かせろとせがまれたこともある。徐々に刑事たちは植島を認めてくれるようになった。
     今は自分が動くのではなく、部下を動かすキャップに立場が変わった。そのことがもどかしい。まだ支局から上がってきたばかりの山田や、本社勤務二年目の菊池が、各社精鋭ぞろいの警視庁取材で戸惑うのは仕方がないにしても、社会部に五年以上いる野々垣がこれほどニュース勘のない男だとは、思いもしなかった。
     野々垣を叱れば、心の靄はいくらか晴れるのだろうが、口にせずに我慢した。警視庁キャップと一課の仕切りは、監督とエースの関係だ。いくら不甲斐なくてもエースを腐らせてはこの先戦えなくなる。
    「菊池に書かせるのか、それとも山田に書かせるのか、その判断は野々垣に任せる」
     後追い記事なのだから誰が書いても構わない。次の勝負は、大学生に逮捕状が出ることを発表前に報じられるかだ。
    〈僕が書きますよ〉
    「なにもおまえがやらなくてもいいだろうよ」
    〈山田も菊池も会社に上がってるんです〉
    「会社? どうしてだ」
     警視庁担当は記者クラブにいるか取材しているかのどっちかだ。社内の夜勤番も免除され、会社に上がることは滅多にない。
    〈富田部長に呼ばれたみたいです。伝票か精算のことじゃないですかね。二人とも精算が遅い上に、書き間違いが多いと、部長からしょっちゅう文句の電話がかかってきますから〉
     違う――すぐさまそう思った。
     朝駆け取材を終えると、発表や警察幹部からの説明のレクでもない限り、記者は夜討ち取材まで時間を自由に使える。だがきょうは大きなネタを落としたのだ。逮捕状の執行はもちろん、動機はなにか?
    被害者と交際していた事実はあったのか?
    庁内や現場を歩いて調べなくてはならないことは山積している。それなのに社会部長の富田は、抜かれた記者がすべき仕事より違うことを優先したのだ。
     敗者の行進――。
     脳裏に五年前の富田との確執が甦った。


    ※7月18日(水)18時~生放送
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