トリニティ (trinity)
三重、三組、三つの部分。定冠詞が付いた大文字で始まるthe Trinityはキリスト教における三位一体を意味する。
実在の人物や雑誌などから着想を得ましたが、本書はフィクションです。
1
「今日もまた生きたまま目が覚めたか」
七十二歳の鈴子(すずこ)は瞼を開けた瞬間に昨日の朝と同じことを思った。
暖房をつけていない寝室で布団から出した顔だけがひんやりと冷たい。
掛け布団から両腕を伸ばしておもいきり伸びをした。右膝の関節がこくっと鈍い音をたてる。あおむけのまま全身を伸ばしたあと、ゆっくりベッドの上に起き上がって、膝を曲げて座り、顔を敷き毛布に埋めて、両腕をできるだけ前に伸ばす。ベッドの上で体を伸ばしたあとは、さらに立ち上がって体を伸ばす。全身の筋肉を伸ばし体に血を巡らせる。
内側がムートンのルームシューズに足を入れ改めてゆっくり立ち上がると、ベッドを簡単に整えた。リビングに向かいカーテンを開ける。ベランダに置いたビオラの鉢からこぼれるような紫の花弁が風に揺れているのが見えた。日差しには春の気配があるが風は冷たそうだ。鈴子のマンションは八階建ての七階で前には遮るような建物もなかったから、空が広く見えた。その景色だけでこのマンションを選んだようなものだった。東京の真冬の空らしく雲はなく、濁りのない青がどこまでも広がっていた。
キッチンに向かい電気ケトルでお湯を沸かす。その間に寝室に戻り着替えを済ませた。五年前に夫が亡くなり、この1LDKのマンションに引っ越してきたときに衣類のほとんどは整理してしまった。あと十年くらい。鈴子は自分の残り時間に見当をつけている。
洗面所に行き、顔を洗い歯を磨く。鏡に映る顔は昨日より老いているはずなのに、なぜだか今日は昨日よりも顔色が良かった。化粧水と乳液を顔だけでなく顎の下や耳の後ろまで丁寧に塗り込み、さらにBBクリームを塗る。眉毛だけは小さなコンパクト型の拡大鏡を手にしながら描いた。白髪の髪をブラシでとかし、ぼんのくぼあたりでおだんごにし、いくつかのピンでまとめた。髪の毛はもうずいぶん長い間切ったことがなかった。鈴子くらいの年齢になると、手入れも面倒といって短く切ってしまう友人も多かったが、鈴子は男か女かわからないような短い髪が嫌いだった。服装だって男か女かわからないのに髪の毛も短くしてしまったら、ますます性別がわからなくなる。ずっと昔に見た映画『八月の鯨』に出てきたリリアン・ギッシュに憧れていた。家の前にあるポーチでリリアン・ギッシュは長い白髪をといていた。
冷蔵庫の中から卵とヨーグルトと牛乳を出した。フライパンで目玉焼きを作り、くるみパンをひとつ温める。コーヒーメーカーで作ったコーヒーをマグカップに注ぎ、牛乳を入れる。りんごを半分に切って、半分は皮をむき、残りはラップにくるんで冷蔵庫にしまった。目玉焼き、パン、緑黄色野菜、フルーツ、ヨーグルトにカフェオレ。一人になってから、よっぽどのことがない限り、朝食のメニューは変わらない。決めてしまったらあれやこれやと悩まなくなった。
夫が生きているときは、食にうるさい夫のために洋食と和食を交互に朝食に出していた。もっと昔、子どもがまだ小学校に入る前は、食の細い長女のために朝から海苔巻きを作ったり、野菜嫌いの長男のために前の晩から圧力鍋でスープを仕込んだりもした。いくら若くて力が漲っていたとはいえあんなことがよくできた、と今になって思う。食材を買い、料理を朝昼晩と作って食べさせたけれど、それで家族の健康な体を作ったという自負もない。あんなに気を遣っていたって夫は体中をがんに侵されて死んだのだ。けれど、毎日変わらない、自分一人だけで食べる朝食が、鈴子はとても好きだった。今、鈴子の心のなかは自分でも意外なほど穏やかな平安で満たされていた。
携帯が鳴ったのは使った食器をシンクに運んでいるときだった。一人でいるのに、はいはい、と声に出して言いながら濡れた手をタオルで拭き、ダイニングテーブルの上にある二つ折りの携帯を開いた。発信者の名前はなく携帯番号だけが画面にある。誰だろう、と訝しげに思いながら電話をとった。
「あのね、亡くなったのよ朔(さく)さん。おとといの夜」
電話を少し耳から離さないといけないくらいの大きな声だ。興奮しているのがわかる。
「え、さくさん、て」
「イラストレーターの早川朔よ。あなた親しかったでしょう」
妙子(たえこ)さんが……。早川朔と本名の藤田妙子というふたつの名前は頭のなかですぐに結ばれたが、電話の向こうの女性が誰なのかがわからない。声からして自分と同年代だとはわかるのだが。自分と同じくらいの高齢者にはよくあることだ。いきなり用件を話しだす。それで、そちらさまは。と、どのタイミングで切り出そうかと思いながら、一気にまくしたてる電話の声をじっと聞いていた。
「朔さんが亡くなったら連絡してほしい、というリストにあなたと登紀子(ときこ)さんの名前があったの。だけど、私、登紀子さんの連絡先が分からなくて。あなたから連絡してもらえないかしら。お葬式はしないらしいの。もうご遺体は火葬場にあって、今日の午後ならお顔が見られるそうよ。で、その場所はね」
もう何人にも同じような電話をしているのだろう。電話の向こうの見知らぬ誰かの説明は淀みなかった。火葬場の場所を確かめ、テーブルの上にあったメモ用紙に書き付けた。わざわざお伝えいただきありがとうございました。最後まで言い終わらないうちに電話はあっけないほどすぐに切られた。
メモ用紙に慌てて書き付けた杉並区の斎場には一度行ったことがある。今の電話は嘘や冗談ではないだろう。妙子さんが、早川朔が亡くなったのなら、今日か明日の新聞にもお悔やみの記事が載るはず。あんなに有名なイラストレーターだもの。いちばん最後に妙子の絵を見たときのことをふいに思い出した。美容院で渡された女性誌のいちばん後ろのページ。著名な女性小説家のエッセイに朔が絵を添えていた。色鉛筆で描かれたふわりと笑う女性の横顔。相変わらず活躍されているんだと思った。いつからか飾ることをやめてしまったが、家のどこかには結婚祝いにもらったイラストがあるはずだ。イラストレーターとしての華々しいデビュー。六〇年代、七〇年代、八〇年代、九〇年代と、常に一線にいた人だった。若い時分は「彗星のようにデビューした女性イラストレーター」という言葉が早川朔という名前のそばにあった。けれど、月日が過ぎるにつれ、その言葉は「怖い人」「トラブルメーカー」に変わった。会社をやめ家庭に閉じこもっていた鈴子の耳にも、そうした噂が幾度も届いていた。
東京東部に住む鈴子のマンションから電話で伝えられた杉並区の斎場に行くには、東京の都心を跨いで一時間以上はかかる。自分よりも七歳上、つまり、今七十九歳の登紀子は市ヶ谷に住んでいるけれどどこかで落ち合うことになれば、さらに時間はかかるだろう。そもそも登紀子は一人で斎場までやって来られるのだろうか。そう思いながら鈴子の手は電話帳をめくり、ずっと昔に記したままの登紀子の電話番号を見つける。鈴子はその電話を携帯ではなく、家の固定電話からかけた。なぜだか登紀子には携帯から電話するのは失礼だ、という気がしたからだ。
呼び出し音が長く続く。
「はい」という小さなしゃがれた声が聞こえた。何年かぶりに聞いてもそれが登紀子の声だとすぐにわかった。自分が緊張していることがわかる。
「木下、いえ、宮野鈴子です」鈴子は旧姓を名乗った。それに対して登紀子の反応はない。昔のままだ、ちっとも変わってはいないと思いながら、早川朔が亡くなったこと、今日の午後、数時間ならお顔を見られるということを簡潔に伝えた。
「斎場に伺います」
相槌も打たずに鈴子の話を聞いていた登紀子がはっきりとした声でそう言った。
「そうですか。では、後ほど」
そう言って受話器をそっと置く。自分の手のひらがかすかに汗ばんでいることに気づいた。いつだって登紀子と話すときには自分は緊張してしまう。何も自分が緊張することはないのに。
あのときのお金だってまだ……。
鈴子は登紀子と最後に会った日のことを思い出していた。今から三年ほど前のことだ。
新宿駅からほど近い喫茶店。今時珍しく店の中は煙草の煙が充満していた。
「少し用立てて下さらないかしら。私、困っていて……」という登紀子からの電話を受けた翌日のことだった。なぜ登紀子が。
祖母も母も物書き、登紀子はフリーライターの先駆け的存在として、鈴子が勤務していた会社の仕事を多く請け負っていた。今もあるファッション誌の文体は登紀子が作ったと言われていた。登紀子にまつわる記憶で最後に思い出すのは、九〇年代に四谷に個人事務所を作りバリバリと仕事をこなす彼女の姿だった。
鈴子が勤めていた出版社は芸能週刊誌やファッション誌、女性誌を主に作っていた会社で、あの時代にしてみれば会社員らしからぬ服装の人も多かったが、登紀子のファッションはそのなかでも一風変わっていた。全部を全部高いブランドものでかためるとか、そういう野暮なことはしなかった。着ているものは黒いものが多かったけれど、どこかに一点いつも彼女らしい風通しの良さがあった。インド雑貨店で売っているようなカラフルなストールや、魚市場のおじさんが使っていそうな籠のバッグとか、細い紐のサンダルを上手に組み合わせてもどこかに品の良さがあった。
東京で生まれ育ったほんもののお嬢さん。その印象は登紀子に声もかけずに密かに憧れていたときから、ひょんなことで心を通わせ、交流が始まってからも、変わることがなかった。
新宿の煙たい喫茶店でしばらくぶりに見る登紀子は鈴子が記憶していた登紀子ではなかった。髪も肌も手入れされているようには見えない。生活のあらが透けて見えた。白髪交じりの髪を後ろで一つ結びにし、化粧をしていない肌に薄茶色のしみが目立つ。登紀子は鈴子のあとから店に入ってきたが、席についても重そうなウールのコートを脱がなかった。そのコートもずいぶん古いものなのだろうという気がした。コーヒーカップを持ち上げたとき、袖がほつれ、糸が一本飛び出しているのが見えた。
「あのこれ、ほんの少しですけれど」
鈴子は登紀子の前に封筒を差し出した。登紀子は電話で具体的な金額を言わなかったが、私にまで電話をかけてくるくらいなのだから、余程生活が困窮していることは鈴子にも予想がついた。登紀子から電話をもらったあと昔の同僚幾人かに尋ねると、登紀子は昔の仕事仲間や関係者にお金の無心をしているということがわかった。
登紀子は頭を上げると、テーブルの上の白い封筒を膝の上に置いたハンドバッグの中にしまう。
「ありがとう。助かるわ」頭を下げてからそう言うと立ち上がり、すぐさま店を出て行った。テーブルの上にある二人分のコーヒーの伝票には見向きもしないで。こんな状況になってもやっぱりあの人はお嬢さんなんだわ。そう思うとなぜだかおかしかった。
お金そのものはたいした金額ではない。貸したつもりもなかった。けれど、もう一度登紀子から同じような申し出があれば鈴子はきっぱりと断るつもりでいた。
「専業主婦なんて夫に寄りかかった生活、どこがおもしろいのかしら。夫という大樹がなくなればすぐに路頭に迷うんじゃないの」
若い頃、結婚を機に会社をやめた鈴子が登紀子から言われた言葉だ。その言葉は鈴子の心のどこかに棘のように深く刺さっていた。そう自分に言った登紀子が今、自分に頼り、ほんのわずかなお金に頭を下げた。そのとき鈴子は登紀子に対して優越感を持つというよりも、あんなに輝いていた登紀子の人生が簡単に悪いほうに転んでしまったことの恐ろしさを感じていた。
そもそも今日は、近くに住む娘の満奈実(まなみ)のマンションに行く日だ。
結婚を機会にきっぱりと仕事をやめ家庭での生活を選んだ鈴子とは正反対に、満奈実は結婚、出産を経ても、仕事を手放さなかった。会社員二年目で学生時代からつきあっていた恋人と結婚、すぐに妊娠したことには驚かされたが、鈴子はその選択を否定しなかった。同居こそしてはいないが、娘の結婚以来、娘の家を週に二、三度は訪れ、家事を手伝ってきた。メーカー勤務の満奈実の夫は出張がちで家にいないことも多かった。孫の奈帆(なほ)が生まれてから中学に上がる頃までは鈴子も満奈実と共に子育てをしているような気でいた。奈帆が幼い頃は満奈実の代わりに保育園にお迎えに行き、夕食を食べさせ、風呂に入れ、寝付くまでそばにいた。奈帆が成長するにつれ孫育ての負担は軽くなってはいたが、仕事の忙しい満奈実はなんだかんだと鈴子を頼り、鈴子もそれにはりきって応えた。
子離れも孫離れもまるでできていない、と亡くなった夫はよく鈴子を叱るように言ったが、鈴子には聞く耳はなかった。働きたいと言っている娘を助けて何が悪いのだろう。そんなときふいに思い出すのは早川朔の生い立ちだった。自分の母親の子育てについて早川朔は多くのエッセイを残していたし、新聞や雑誌の記事にもなった。母一人、子一人で育ったイラストレーターの早川朔。母は食堂の仕事やビルのトイレ掃除などをして、早川朔を美術大学に入れ、花形イラストレーターとして働く娘を今も助けている。あの頃書かれた記事のほとんどがそんな趣旨だった。年老いた母と並んで写真に写る早川朔を見るたび鈴子は思った。私は才能にあふれ世間から注目されるイラストレーター早川朔のようにはなれなかったけれど、このお母さんにはなれる、と。
満奈実が自分の進まなかった大学に進み医療機器メーカーの研究職の仕事についたとき、自分の産んだ子どもが自分の生きなかった人生を生きていくことに喜びを感じた。大学進学、そして共働き。どちらも鈴子のできなかったことだったからこそ、それをかなえた満奈実のサポートには自分のありったけの力を注ぎたかった。
満奈実のひとり娘奈帆も健やかに育った。夜泣きや急な発熱で満奈実を困らせることもなかった。小、中、高と地元の公立校に進んだが、いじめられたこともないし、ねじれて反抗することもなかった。満奈実ですらこんなに育てやすい子ではなかった。母親が仕事をしているとこういう子が育つのか、とも思った。勉強で困ることもなかった。浪人することもなく、現役でそれなりの大学にも進んだ。
おばあちゃんが働いていた会社に入りたい、雑誌や本を作る仕事がしたい、と言われたときは、めったに泣くことのない鈴子の目の端に涙がにじんだ。
潮汐(ちょうせき)出版。それが鈴子が高校卒業から二十四歳で結婚するまで勤めた会社だ。会社の名前はともかく雑誌の名前を言えば、日本の女性で知らない人はいないだろう。それが鈴子の密やかな誇りでもあった。勤めていた頃からあの会社は急激にマスコミの中でも人気企業になっていったし、社名がログストアとカタカナになってもその勢いは止まらなかった。
「結婚するまでは潮汐出版にいたの」
誰かに聞かれてそう答えると、自分を見る相手の目が変わることも経験済みだった。夫と見合いをするときだって、平凡な釣書のなかで自分の勤務先だけが誇れる部分で、それがあったから結婚できたのだと思っている。
けれど、あの会社で自分がしていたことは編集ではない。一般事務だ。もっと細かく言うなら雑用係だった。あの会社で何をしていたの。そこまでつっこんで聞く人はめったにいなかったし、自分から詳しい仕事内容を話すことはなかった。編集のようなことをしていたんでしょう。口を閉じていれば多くの人はそう勝手に理解してくれた。夫や満奈実は高卒の鈴子が編集者をしていたわけはない、と考えていたようだったが、奈帆は違った。自分の祖母はあの会社で編集者として過ごしたのだ、と、自分勝手に思い込んでいるようだった。奈帆の誤解を鈴子も解こうとはしなかった。
奈帆のログストアへの就職は二次選考までは進んだものの入社は叶わなかった。同じような出版社を奈帆は受け続けた。一次で落とされてしまうのならダメージはもっと軽くすんだのかもしれない。二次、三次選考を通過し、グループディスカッションや面接の段階まで行くのに、最後の最後で落とされる。満奈実の家で会うたび、リクルートスーツに身を包んだ奈帆は痩せていった。
「奈帆はそんなに編集の仕事がしたいんだから、いつかはどこかが拾ってくれるわよ」
そんな軽口を叩く鈴子を、奈帆はこの人はなんにもわかっていない、という目で見た。たしかに鈴子は学校から推薦されるままに入社試験を受け、会社に入ってからは上司から言われたことを間違えないようにくり返していただけだった。やっと仕事が一人前になった頃、親戚からすすめられたお見合い結婚をきっかけにすっぱりと仕事をやめた鈴子には、奈帆のつらさは理解できていなかった。それでも奈帆は実用書や自己啓発書を多く手がける中堅の出版社に就職を決めた。その会社の名前を鈴子は聞いたことがなかったが、娘の満奈実のように会社に一度入ってしまえば奈帆も寝食を忘れて働きだすのだろうと思っていた。
奈帆の帰りが私よりもずっと遅い、という話を満奈実から聞いたのは、去年奈帆が就職をして二年目、五月の連休中のことだった。
「午前様になることも多いの。タクシーで帰ってくるし。それなのに翌日は定時に出て行くのよ。朝は食べずに慌てて出て行くし、昼食も食べられないことが多いみたい。どんどん痩せていくから心配で……」
満奈実の家のリビングで話を聞いていた鈴子は満奈実が淹れてくれたコーヒーを飲み、奈帆の部屋のほうに目をやった。もうお昼をだいぶ過ぎた時間だというのに、奈帆が起きてくる気配はない。物音ひとつしないのはぐっすりと眠っているからだろうか。その日、満奈実の家を出たのはもう夕方に近かった。そんな時間になっても奈帆は部屋から出てこない。奈帆の部屋のドアを見つめる視線に満奈実も気がついたのか、鈴子の顔を見て深いため息をひとつついた。鈴子にできるアドバイスはなかった。今までどおり満奈実の代わりに満奈実の家を整えることしかできなかった。
「あら、今日は休みなの」
いつものように合い鍵を使って満奈実の家に入り玄関で靴を脱いでいると、スエットのようなものを着た奈帆がトイレから出てくるのが見えた。奈帆は鈴子のほうを見ようともせず、自分の部屋に入っていこうとする。
「奈帆」声をかけたが、奈帆は返事をしないで、ドアを閉めた。
「奈帆、どうしたの。具合でも悪いの」
ドアの外から声をかけたが、返事はない。
今になってやってきた反抗期のようなものだろうか。そう鈴子は思った。奈帆はほがらかでやさしい子。いつもそう思ってきたのに、今になって孫に無視されている。そっけない態度に自分がひどく傷ついていることに気づいた。
「奈帆、軽い鬱かもしれないって」
満奈実からそう聞かされたのは梅雨明け間近の週末のことだった。鈴子が満奈実の家を訪れる昼間、満奈実も夫も奈帆も会社にいって誰もいないはずなのに、三回に一回ほどの割合でなぜか奈帆が家にいる。リビングで顔を合わせても鈴子を無視し、すぐさま自分の部屋に閉じこもってしまう。どこか体調が悪いの、と満奈実にも尋ねたが歯切れの悪いことしか言わなかった。
「体調が悪いのなら、ちゃんとした病院で診てもらったほうがいいんじゃないの」
その日もそう鈴子が切り出すと、しばらくの間満奈実は黙っていたが、実は……と、奈帆の異変について話し出したのだった。
「とにかく仕事が大変らしいの。毎日残業で深夜にならないと帰ってこないし土日出勤も多いし。家にいるときだって、自分の部屋で仕事しているのよ。まあ私だってそうやって仕事をやってきたわけだけど」
そうね、と言う代わりに鈴子は満奈実の顔を見て頷いた。
「仕事に見合った給与をもらってるわけじゃないみたいなのよ。それにね、奈帆、通勤電車の中で過呼吸になって」
「……過呼吸?」
「突然息が苦しくなるみたいなの。ほら、金魚が空気の少ない金魚鉢のなかで口をぱくぱくさせるじゃない。あんなふうに突然息ができなくなって」
満奈実はマグカップに口をつけた。さっき淹れたコーヒーはもう冷めてしまっているはずだ。鈴子がマグカップに手を伸ばし立ち上がろうとすると、大丈夫、と満奈実は鈴子を手で制した。
「どうも……ブラック企業みたいなのよね、奈帆の会社。業界では有名な。新入社員は三年も持たないでやめてくみたい。それで先週……とうとう起きられなくなって内科の病院に連れて行ったんだけど、内臓はどこも悪くないのよ。そこで勧められて近くの心療内科に行ったら鬱だろうって。それほどひどくはないけどね」
過呼吸とか、ブラック企業とか、心療内科とか、鬱とか、満奈実の口から飛び出す言葉を聞くたびに、鈴子は心臓のあたりがひんやりとしてくるのを感じた。自分の人生にそういう言葉が入りこんでくるとは思いもしなかった。ましてや孫が直面している現実の重さにまったく想像が至らなかった自分を恥じた。その気持ちは親である満奈実も同じだろう。
「本人は仕事、絶対にやめたくないのよ。やっと入った会社だし。毎朝会社に行く支度もするの。だけど、玄関から外に出られなくて、そのくり返し」
満奈実の目にうっすらと涙がたまっている。
鈴子はそれを見ていられなくて目を逸らした。
「会社はもう……しばらくの間はだめね。今はとにかく体を休ませてあげてくださいって病院の先生もそう言うの。やっと就職できて、あんなに喜んでいたのに」
テーブルに両手をついてその中に顔を埋め、満奈実は肩をふるわせた。
その日以来、鈴子は満奈実の家で奈帆の姿を見ることがほとんどなくなった。鈴子がやってくる昼間も自分の部屋で眠っているようだった。鈴子はハヤシライスやクリームシチューなど、奈帆の好物を作り、いつ起きても食べられるように冷蔵庫に用意した。けれど、その食事には手をつけてすらいないことも多かった。ある日洗濯機から乾いた洗濯物を取り出し、籠に入れ、リビングに戻ったときのことだった。掃き出し窓が開きカーテンが揺れているのが目に入った。あら私が開けたままだったかしら、と顔を上げると、ベランダにスエット姿の奈帆がいる。のどの奥が詰まった。奈帆は手すりに手をかけ軽く体を揺らしている。
奈帆は気晴らしに外に出てみただけよ。自分に言い聞かせ掃き出し窓に近づいた。けれど、ここは八階だ。万一驚かせて奈帆が飛び降りるようなことがあれば命はない。息を殺し音を立てないようにカーテンを開け、奈帆の後ろから背中をそっと抱きしめた。奈帆の驚きが鈴子の体に伝わる。骨の感触が頬にあたる。鈴子は思う。こんなに痩せた子だったかしら。
「奈帆……」
背中を抱きしめたままそう言うと、奈帆の体が波打って、うっ、うっ、うっ、と泣き声が漏れる。奈帆が泣き崩れベランダにしゃがみこんだ。鈴子は右腕で奈帆の体を覆うように抱く。サンダルすら履いていない奈帆のピンク色のペディキュアが無残に剥げたままになっている。
「大丈夫よ、大丈夫だから」と鈴子は繰り返して言うしかなかった。
「おばあちゃん、なんで私なにもかも、うまくいかなくなっちゃったの」
リビングのソファに座らせると、奈帆はしゃくり上げて子どものように泣いた。
「ずっとうまくいってた。ずっとうまくいくと思ってた。だけど、就活からおかしくなって。それからぜんぜんうまくいかないの。私、ずっと努力してきたよ。ずっと頑張ってきたの。なのになのに、なんで」
鈴子は奈帆の隣に腰掛けると、奈帆の背中をさすり続けた。掃き出し窓の鍵が閉まっているのを目で確認してから立ち上がり、キッチンでココアを淹れた。
奈帆にマグカップを持たせ、飲むようにと目で促す。奈帆はマグカップに口をつけ、すするようにココアを口にした。奈帆の言葉に返す言葉がなかった。高校を出てから結婚するまでの会社での六年間、今の奈帆のように仕事を頑張ってきた、とはとても言えない。毎月お給料をもらって、新しい洋服や靴が買えるのがうれしかった。週末には映画に出かけ、帰りにクリームソーダを飲んだ。そんなことを楽しんでいるうちに時間は過ぎた。そろそろ結婚をする時期だからと、まわりにお膳立てをされ、特に嫌いな相手でもなかったから結婚した。主体的に何かを選んできたわけではない。ベルトコンベヤーに流されるように生きてきて今がある。むしろ、奈帆の相談は、結婚をしても出産をしても仕事を投げ出さなかった満奈実になされるべきものなのではないか。
「お母さんに相談してみた?」
奈帆はしばらくの間黙ったままマグカップをじっとみつめ、その縁を親指でぐいっと拭った。奈帆が首をふる。
「できない。お母さんみたいに私は強くないし」
そう言う奈帆の目から涙が一粒こぼれた。
「お母さんみたいに私は優秀じゃないもん。私はお母さんみたいに仕事ができない」
奈帆の顔が崩れ、また泣き始める。奈帆が満奈実についてこんなふうに考えていることをそのとき初めて鈴子は知った。
「そんなに嫌なら仕事やめて結婚でもすればいいじゃない。私だって」
「……おばあちゃん」
奈帆が鈴子の顔をじっと見つめる。
「おばあちゃんにこんなふうに言いたくないけど、専業主婦になれる人なんてごくわずかだし、専業主婦でいたいなんて言う女の人と結婚したがる人、今はあんまりいないんだよ。おばあちゃんの若いときとは時代がぜんぜん違うの。……私なんて運が悪いんだろう。こんな時代に生まれてきて。自分が入りたい会社にも入れないで」
奈帆の言葉に返せる言葉はなかった。また専業主婦か、と鈴子は思う。なぜいつも仕事をしていない女は同じ女から標的にされるのか。そもそも自分が生まれてきた時代がいいか悪いかなんて考えたこともなかった。それが奈帆の言うようないい時代に生まれてきたということの証なんだろうか。奈帆が自分に向けて放った、こんな時代、という言葉から、鈴子の頭のなかにはこれまで生きてきたさまざまな場面がシャッフルされ、鮮やかに蘇っていた。
戦争が終わった年に生まれてきた自分。けれど、幼い頃には街角に傷痍軍人の姿がまだあった。傷痍軍人なんて言葉、奈帆は聞いたこともないだろう。東京下町の、佃煮屋で鈴子は成長した。幼い頃の記憶には醤油を煮詰めたにおいと店のすぐそばを流れていたどぶ川のにおいがまとわりついている。母は優しい人だったが、父は気性が荒かった。お酒が入ればなおのこと、子どもたちが気にいらないことをすれば、すぐに頭を殴られた。けれど、虐待されたなんて思ったこともない。近所のどの家も同じようなものだった。
洗濯機、テレビ、掃除機、ステレオ。そんなものが家のなかに増えていくたびにわくわくした。銀座の会社で、最先端の雑誌をつくる現場。そこで出会った最先端の人々。何をしたわけではないのに自分も時代の空気を作っているのだという実感があった。東京オリンピックの歓声。確かに日本は未来に向かって力強く歩んでいた。奈帆くらいのときには夢しかなかった。こんな時代に生まれてきて、などと思ったことはなかった。そう思ったことがないほど自分は恵まれてきたのかもしれないと、そのとき鈴子は初めて思った。
それ以上につきつけられたのは、奈帆がこれほどまでに追い詰められているという事実だ。
「そんなに頑張ってきたのなら少しくらい休んでもいいじゃない。今の会社と奈帆の相性だってあるかもしれないよ」
「おばあちゃん」
奈帆が声を荒らげる。
「鬱だって言われたんだよ私。休職してる暇なんかちっともないのに。働かなくちゃいけないのに。どんどん人から遅れていく。どうしたらいいの」
言い終わらないうちに奈帆の呼吸が荒くなる。はあ、はあ、と肩で息をし、苦しそうに顔をしかめる。これが過呼吸の発作なのだろうか。
「奈帆、奈帆、救急車呼ぼうか」
「大丈夫、しばらく、このままにしていたら治るの。おばあちゃん、大丈夫だから」
奈帆はソファに横になり浅い呼吸を繰り返している。鈴子はその体をさすり続けた。奈帆は鈴子の手をぎゅっと握りしめている。鈴子がこの家に来ないとき、奈帆はこんな発作に一人で耐えてきたのだろうか。仕事中の満奈実に助けを呼んだとは思えない。
幼い頃から「ママは仕事だからね」と鈴子が話せば、すぐに納得する子どもだった。そのものわかりのよさを生まれ持った性格の良さだと理解してきたけれど、ほんとうは母親に甘えたい心を押し殺してきたのではないか。
十分ほど横になると奈帆の呼吸は落ち着いてきた。
「奈帆、おばあちゃん、明日から奈帆の面倒をみるわ」
「えっ」
「今までは満奈実を手伝ってるつもりだったのよ。満奈実が大変だろうと思って。だけど、今度は奈帆の番だ。奈帆がゆっくり休めるようにおばあちゃんが手伝う」
「だって」
「おばあちゃんの時間なんていくらだってあるんだから。だけどね奈帆、約束してくれる。少し休んで、少し元気になったらでいいのよ」
うん、と奈帆は言葉に出さずに頷いた。
「おばあちゃんの遊びにつきあってくれる? ううん、大げさなことじゃないのよ。美術館に行くとか、デパートに行くとか、東京じゅうに行きたいところがあるのよ。体が動くうちにね。おばあちゃん一人で寂しいんだもの。満奈実は仕事で忙しいし、奈帆が時間のあるときにつきあってくれたらうれしいんだけど」
鈴子も必死だった。実際のところ、ベランダから飛び降りようとした奈帆を見張るために毎日この家に通うのだ。それを奈帆が負担に感じないようにどう言えばいいのか。美術館だってデパートだって、行きたいところがあれば一人でどこにでも行く。小さな嘘は悩み苦しんでいる孫のためについた。
奈帆はしばらくの間考える顔をしていたが、それでも鈴子の顔を見て小さな声で「うん」と返事をした。奈帆はもう立派な大人なのにその声があまりに幼く聞こえて胸が詰まった。
「おばあちゃんといっしょに遊んでよ。どうせ仕事が始まれば奈帆は遊んでいる暇なんてないんでしょう。だったらいいじゃない少しくらい」
自分の言葉に奈帆が納得したとは思えなかった。けれど、自分を見守っている人間がそばにいるのだということを奈帆に伝えたかった。
鈴子は翌日から満奈実の家に通いつめた。満奈実だけでなく、彼女の夫もまた仕事に忙殺されていた。満奈実が仕事で家を出るくらいの時間に到着し、帰ってくる時間まで奈帆を見張っているつもりだった。家事をしていても奈帆がベランダに出ないように注意深く見守った。満奈実の家に通い始めてしばらくの間、奈帆はトイレ以外で部屋を出てくることはなかった。それでも時間が経つにつれ、ソファに座った鈴子を見ては、一言二言、何かを言って、自分の部屋に戻っていく。「晩ご飯なに?」という今までの奈帆から聞いたことがないようなぶっきらぼうな一言でもうれしかった。
二週間に一度は心療内科に出かける奈帆につきあった。服を着るのもだるそうな奈帆に赤ん坊のように靴下を履かせ、くしゃくしゃの髪をといた。病院はマンションから歩いて十分ほどの距離にあったが、寝ているばかりで体力が落ちているのか、奈帆はそこまで歩いていくのもだるそうだ。少し歩いては休み、呼吸を整えて、また歩きだす。何よりもマンションの外に出かけていくのがつらそうだった。マスクで顔を隠し、エレベーターやエントランスで同じマンションの人に出会うと顔を背けようとする。奈帆の代わりに愛想良く挨拶をするのは鈴子の役目だった。
心療内科の診察室には奈帆が一人で入っていく。奈帆がいっしょに来てほしいと言うのなら同室するつもりだったが、奈帆は一人で治療を受けたいようだった。二、三十分もすると赤くなった目をこすりながら診察室から出てくる。何を話しているのか聞きはしなかったが、来たときと比べると幾分かはすっきりとした顔をしている。診察を終え、処方薬局で薬を受け取ったあとは、そのままマンションに帰らず、短い時間散歩をしたり、ファミレスによって甘いものを食べたりもした。診察で疲れてしまうのか、外出中の奈帆はぐったりした顔をしていたが、外に出たほうが口数も自然に増えてくるようだった。そうやって、数カ月が過ぎた。
鈴子といっしょに遊ぶ、という当初の目的はまだ果たされていないが、最近は少しずつ体重も増えてきたようだし顔色もいい。もう少し温かくなってきたら、奈帆をもっと遠くに、自宅と病院以外の場所に連れだそう。そう考えていたときだった。
早川朔がいる斎場に向かうつもりで喪服を着てきた。奈帆の家に向かいながら鈴子は考える。早川朔がいるという斎場に奈帆を連れて行ってはどうかと。満奈実の家に着くと部屋から奈帆が顔を出した。部屋に閉じこもっていた時期を過ぎて、今では鈴子が来るのを待っているようにも見える。
「何、今日、お葬式?」
喪服姿の鈴子を見て奈帆が言った。
「おばあちゃんの知人なのよ。イラストレーターの早川朔って、奈帆、知ってる?」
奈帆はしばらくの間考えていた。
「……ああ、ログストアの就職試験のとき、その人の名前出てきたよ。ずっと昔、『潮汐ライズ』の表紙を描いていた人でしょう。その人がどうしたの?」
「亡くなったのおととい。お葬式はしないみたいなんだけどね。今日なら斎場でお顔が見れるって、今朝、電話があって。杉並なんだけど。奈帆、いっしょに行ってくれないかしら」
「えっ」
「その斎場に行ったことはあるんだけど、一人で行くのは少し心配なのよ。だから奈帆についていってもらえると助かるんだけど」
寝間着代わりのグレイのスエットを着てソファに座ったまま、奈帆は考えこんでいる。
「そのお葬式にログストアの人がいても、就職試験を受けにきた学生の顔なんて誰も覚えてないよね」そう言って奈帆は鈴子の顔を見る。
「そうねえ、早川さんのお知り合いがたくさん来るだろうから……誰も私と奈帆の顔なんか気にとめないわよ」
「わかった」と言いながら奈帆は立ち上がる。
「私もそろそろ、外出のリハビリしたいと思ってたし。だけど、マスクはしていてもいい?」
「もちろんいいわよ」
うん、と声に出さずに奈帆は頷き、部屋に入って行った。ほんの少しだけ早川朔の顔が見られればそれでいいのだ。朝突然もらった電話から時間は経っているのに、不思議なほど悲しいとか、残念とか、そういう気持ちは湧いてこなかった。けれど、最後の挨拶をしておかないと、自分が後悔するような気がした。登紀子は来る、とは言ったけれど、会えても会えなくてもどちらでもよかった。むしろ、会ってしまったら、あのときお金を渡したように何かしらやっかいなことに巻き込まれるのではないか、というかすかな不安があった。
喪服に着替えた奈帆が部屋から出てきた。鈴子は家でメモしてきた斎場の住所を奈帆に渡すと奈帆が自分の携帯を操作する。何を見ているのかわからないが、奈帆はだいたいの場所や斎場までの乗り換えは把握できたようだ。
「ここからそんなに遠くもないよ。だけどおばあちゃん」
「ん?」
「私、電車に乗るのが久しぶりだから、すっごく緊張してるの」
「うん」
「薬ものんでるし、ひどいことにはならないと思うけど、もし途中でだめってなったら、おばあちゃん一人でも大丈夫、かな」
「わかった」そう言いながら、鈴子はコートを着た奈帆の肩のあたりのほこりをやさしく手で払った。
最寄り駅から地下鉄に乗り、永田町で乗り換えて、再び地下鉄。渋谷まで行って私鉄に乗り換え。急行で二駅。そこから斎場までタクシーで行こうと思っていた。渋谷まで二十分もあれば着いてしまう。それでも奈帆の体を気遣って早めに家を出ることにした。地下鉄の駅の入り口で奈帆はほんの少し立ち止り、地下に続いていく階段を見下ろしている。意を決したように奈帆は鈴子の顔を見、銀色の手すりに手を添えて階段を下りていく。
地下鉄の車内はそれほど混雑していなかった。鈴子と奈帆は空いている席を見つけ並んで座った。マスクで顔の半分ほどを覆った奈帆の表情はわからないが、目をつぶり、じっと何かに耐えているようにも見える。まるで祈っているかのようにバッグの上で組んだ奈帆の手を鈴子はそっと撫でた。奈帆の気分が悪くなるようなことがあればすぐにでも電車を降りるつもりだったが、地下鉄を乗り換えたあとも奈帆はつり革に〓まり、コートの上からでもわかる痩せた体を電車の揺れに任せていた。
なんとか渋谷までたどりつき、地下道を通って私鉄乗り場まで歩いた。平日の昼間なのに、地下道は人が多く人の流れも速い。
「大丈夫?」
奈帆に聞くと無言で頷く。何度か鈴子の体に後ろから追い越していく人たちのバッグや荷物がぶつかったが、あやまる人は誰もいない。奈帆のようにマスクをしている人も多い。今では違和感すら覚えなくなったが、東京の冬がこんなにマスクの人だらけになったのはなぜなんだろう。皆が皆、風邪をひいているわけでもないだろうに。
私鉄ホームから急行の電車に乗った。奈帆が出かける前に言ったとおり、たしかにそれほど遠くはなかった。鈴子と奈帆が乗り込むとすぐに電車の扉が閉まり、暗いトンネルの中を進んで行く。
渋谷から急行で二つ目の駅で降り、そこからタクシーに乗った。斎場の名前を告げると、そこに向かう人が多いのか、運転手は慣れた様子でロータリーから車を発進させる。一度甲州街道に出てから、車は左に曲がった。住宅街の細い道を入っていく。斎場が近づくにつれ喪服を着た人たちの姿が増えてくる。その誰もが早川朔に会いに行くのではないだろうかと思うと、鈴子は次第に緊張し始めた。
五分もかからずタクシーは斎場に到着した。扇型になったエントランスで鈴子は早川朔の名前を探した。けれど、早川、という名前はそこにはない。仕方なく、自動ドアの入り口を入り、それらしい人たちを探した。いちばん奥のスペースに、五、六人の人たちが集まっている。年齢も鈴子とそれほど変わらないような気がした。近づいて一人の女性に尋ねた。
「あの、早川朔さんの」
「たぶんここだろうと思うんですけれど、喪主らしき方も見当たらなくて……」と困ったような表情で答える。まわりを見回しても見知った顔はない。たくさんの人でごった返しているんだろうと思って緊張していた気持ちから、少しずつ空気が漏れていくような気がした。もしかして自分が時間や場所を間違えたんじゃないだろうか、という疑念が浮かぶ。そのとき、鈴子の質問に答えた女性が顔を上げて、
「あ」とつぶやいた。
鈴子も同じ方に目をやった。喪服に身を包み、銀髪を顎のあたりのボブに揃えた一人の老女が歩いてくる。近づくにつれ、喪服のように見えていた服が黒いワンピースなのだとわかる。ずっと昔のコムデギャルソンだろうか。登紀子さんだわ。それはいつかの新宿の喫茶店で見た登紀子でなく、もっとずっと昔、鈴子がまだ会社にいた頃、夜遅くまで机に向かって原稿用紙の升目を埋めていた登紀子の姿に近かった。もちろん自分よりも年上の、八十近い女性だ。腰も少し曲がっているような気もするし、顔の皺も深い。けれど、歩いてくる登紀子には、どうしてもこの場所に来るのだ、という気迫のようなものすら感じられた。その場所に集っていた幾人かが登紀子の姿を認めて会釈をしたが、言葉をかける人はいない。登紀子は鈴子の姿に気づいていないようだ。しばらく迷った末に思い切って登紀子に声をかけた。
「佐竹さん。宮野です。宮野鈴子です」
あ、という顔をして小柄な登紀子が鈴子を見上げる。隣にいた奈帆も慌ててマスクを取り、登紀子に頭を下げた。そのとき、ホールの向こうのほうから声がした。
「早川朔さまの棺に色紙を入れたいと思いますので、皆様ご一筆をお願いいたします」
声を張り上げている男性は喪主でなく、たぶん葬儀会社の人なのだろうと思った。だとしたら、やはりここに集まっている人たちが早川朔の直葬に立ち会う人たちなのか。本人の遺志だとしても、あれだけ名を馳せたイラストレーターを送る場所として、あまりにも寂しすぎないだろうか。息子さんがいたはずなのにそれらしき人もいない。回された色紙は色とりどりのマーカーと共にすぐに鈴子のほうにも回ってきた。鈴子は目の前の登紀子に渡そうと差し出したが、登紀子は書く気がないのか、ただ、首を横に振る。鈴子もいったんはマーカーのキャップを外したが何を書いていいのかわからず、キャップを元に戻して色紙を別の人に回した。こんな子どもじみた方法で早川朔を弔うことに抵抗があった。
ホールの中央に並んだ黒い椅子に登紀子が腰掛けた。離れた場所に鈴子と奈帆も腰を下ろす。
「佐竹登紀子さんよ。有名なフリーライターなの」登紀子のほうを見ながら鈴子がそう言うと、奈帆がぎょっとした顔で鈴子を見た。
「えっ。佐竹登紀子ってまだ生きているの?!」
その声が思いもかけず大きかったので、たしなめるように奈帆の膝に手を置いた。
「奈帆、登紀子さんのこと、知っているの?」
「就活のためにログストアの昔の雑誌、読みあさってたけど、女性誌には必ず名前があったから。それで佐竹さんの書いた本も読みたくて本屋さんに行ったんだけど本屋さんにはなくて図書館で借りて読んだの」
早口で奈帆が耳元でつぶやく。
「おばあちゃんの知り合いなの?」
ええ、と頷いたとき、先ほどの男性が再びやって来た。早川朔さまの棺のなかに花を入れてあげてください、と静かに皆に伝えている。火葬場の扉の前、広いホールの中央に開かれた棺が目に入った。斎場のスタッフだろうか、お盆のようなトレイの上に置かれた生花を配っている。皆が花を手に取り、遺体のまわりに花を添えていく。鈴子もカサブランカを手にとり、棺の中をのぞき込んだ。まるで子どものように小柄な早川朔の体がそこにあった。背は鈴子や登紀子よりずっと小さかったが、仕事の仕方同様にエネルギッシュな人だった。誰が持ってきたのだろう、彼女が生前に描いたイラストが胸のあたりに置かれていた。棺を囲んでいるのは三十人にも満たない人たちだ。これが早川朔の最後だろうか、と思うと、鈴子はふいに胸をつかれた。あまりにも寂しくはないだろうか。
登紀子も白い小さな花を早川朔の顔のそばに置き、早川朔の肩を撫で、顔を寄せて何かをつぶやいた。なんと言ったかは聞こえなかったが、おつかれさま、と言ったようにも聞こえた。ほどなく棺は閉じられ銀色の扉の前に運ばれる。扉が左右に開き、棺はスムーズにそのなかに進んでいった。鈴子は早川朔の顔が見られたらすぐにでも帰るつもりだったがほかにもそう思っている人が多いのか、皆、帰り支度を始めている。鈴子はもうここまでつきあったのだから、最後までここにいようと決めた。奈帆も鈴子のそばを離れようとしない。
先ほどの男性に案内され、パーテーションで区切られたテーブル席に鈴子と奈帆は座った。斜め前に登紀子が座る。登紀子も最後までつきあうつもりなのだろう。鈴子はテーブルの上にあったポットで煎茶を入れ、登紀子の前に出した。登紀子と何を話せばいいのか、この前会ったのは登紀子からお願いされて「用立て」したときだ。登紀子のとある噂も耳にしていた。生活保護をもらっている、という噂。
「あの、フリーライターになるにはどうしたらいいんでしょうか?」
鈴子はぎょっとして奈帆の顔を見た。思いつめたような顔で登紀子に向き合っている。いったいこの孫は何を言い出すのか。奈帆がフリーライターになりたいだなんて、たった今初めて聞いたことだ。出版社に勤めたのに、その仕事に疲れて休職しているんじゃないか。くるくると頭のなかをさまざまな思いが駆け巡った。何か口にしなければと思うのだが思うように言葉が出てこない。
「これからの時代、フリーライターはやめておいたほうがいいんじゃないかしら。できることならきちんとした会社にお勤めして、結婚なさるのがほんとうはいちばん幸せなんじゃない。ねえ」
少ししゃがれたような登紀子の声は相変わらずだった。
登紀子は鈴子の顔を見て同意を求めるが、その言葉に頷くこともできない。
「学生さんでいらっしゃるの?」登紀子が奈帆に尋ねる。
「いえ、会社員で今は」奈帆は口ごもる。
「体調を崩して今は休職中なんです」鈴子が言葉を添えた。
「そう。昔も今も、女が働く大変さは、どの世界でも変わらないものね。今のように景気も良くないのなら余計に……」
ふと鈴子がまわりに目をやると、隣のテーブルに座っていた人も帰ろうとしている。結局最後までいるのは鈴子たちも含めて、七、八人なのではないか。
お茶を一口のんで登紀子が続ける。
「フリーライターだ、イラストレーターだ、デザイナーだなんて、横文字の職業が輝いていたのはほんの一時期のことですよ。妙子さんはかわいそうだけれど、フリーランスで働く女の最後なんてこんなものです。実際のところ、そのとき働ける人が働く。だけど、その代わりはいくらだっている……」
登紀子は手にしていた茶碗の縁を人差し指で撫でた。
「あの、そういう、佐竹さんのお話を聞かせていただくわけにはいかないでしょうか。皆さんが働いていた時代のこと、私、知りたいんです。そうじゃないと」
「みんな死んじゃいますからねえ」ふふ、と鈴子の目を見て登紀子は笑った。
鈴子は不安そうに奈帆を見つめる。葬儀社の社員らしき男性が近づいてくる。
「骨上げの準備が整いましたので、皆さんどうぞ」
登紀子はバッグの中からメモ帳を取りだし、そこに太い万年筆で何かを書き付けて奈帆に渡した。
「ほんとうに興味があるのならいらっしゃい。あなたが話を聞きたいのなら」
奈帆は深く頭を下げた。二人一組で骨を骨壺に納める骨上げは、三組ほどが行っただけで、それ以外の骨はすべて斎場のスタッフが拾った。細かい骨はちりとりと小さな箒のようなもので集められ、さらさらと骨壺に納められていく。骨壺の蓋が静かに閉められたとき、これが一世を風靡したイラストレーターの最後か、と胸がつまった。彼女が生きている間に描いた莫大な量のイラストはいったいどうなるのか。それはもう誰かに見られることはないんだろうか。葬式で誰かの死に向き合うたびに鈴子は思う。人は自由に自分の意志で生きているようでいて、ほんとうのところ死に方だって選ぶことができないのだと。普通に行けば、鈴子自身も、登紀子も生が許された時間は短い。けれど、どんな死に方をするか、鈴子にも登紀子にもわからない。それがひどく残酷なことのように思えた。
鈴子と奈帆が市ヶ谷に住む登紀子を訪ねたのは、その一週間後だった。
奈帆は一人で行くと言ったが鈴子は心配だった。登紀子は生活が困窮している。もしやっかいな相談をされたら、奈帆が一人で解決できるとも思えなかった。奈帆が登紀子に渡されたメモと携帯を交互に見ている。登紀子が市ヶ谷に住んでいるのは、鈴子が会社に勤めていたときから知っていた。登紀子と同じ物書きであった登紀子の母がベストセラーを出したとき、東京オリンピックの数年前にあの当時としては珍しい分譲マンションを買ったと聞いたことがある。けれど、それらしき建物は見当たらない。
「ここだと思うんだけど……」奈帆が古ぼけた雑居ビルのような建物を見上げている。ここではないだろう、と鈴子が思っていると、奈帆が一階の扉を開け、中に並ぶ郵便受けを見た。
「あった。ここであってる。ここの三階」
そう言いながら手招きする。エレベーターがないので階段で三階に上がった。途中で休憩しても息が上がる。ほとんど外に出ない奈帆だって同じようなものだった。肩で息をしている。けれど、今日はこの前の早川朔の葬儀のときのように、電車に乗るのも不安そうな様子はなかった。マスクをしているのは相変わらずだが、奈帆が登紀子の家に行く、と能動的に動いていることが鈴子はうれしかった。
登紀子の部屋の前に立つ。鈴子と奈帆は顔を見合わせる。白く塗装された鉄製のドアには赤錆が浮き上がっている。奈帆がドアの脇にあるチャイムを鳴らすが、何度鳴らしても反応はない。いないのだろうか、と思った瞬間、内側の鍵を外すような音がした。ドアが開き登紀子が顔を出す。
「ほんとうに来たのね。どうぞ」と言いながら奥に進む。鈴子と奈帆は部屋に入ろうとするが、玄関には紐で結ばれた新聞紙の山で靴を脱げる場所がない。それでもなんとか靴を脱ぎ、脱いだ靴は新聞紙の山の上に置いた。部屋はワンルームらしかった。左右の壁際に天井まで続く本棚。そこには乱雑に本が詰められていたが、あふれ出した本や雑誌が床の上にもうずたかく積まれていた。そして、クリップで留められ、二つ折りにされ、ゴムでまとめられた原稿用紙らしき紙の束。スクラップ帳だろうか、何かの切り抜き記事を貼ったノートが開いたまま、日にさらされ黄ばんでいる。窓際には鉄製のベッドがあるが毛布と掛け布団らしきかたまりの上に、内側にソースのようなものがべったりついたシチュー皿が載っている。
ぱっと見ただけで三人の女が座る場所はなかった。奈帆も驚いたのか口をぽかんと開けたまま、部屋の入り口で立ち尽くしている。部屋じゅうに大量の埃が溜まっているのだろう。鈴子は立て続けにくしゃみを三回した。テレビでよく見るゴミ屋敷が目の前に広がっている。ここで火事でも起こったら大変なことになるだろう。なぜだか登紀子は買ったときは真っ白だったのだろうと思われるバスローブを服の上に着込んでいる。その下はこの前、早川朔の直葬のときに見た黒いワンピース。もしかしてこの服を汚さないためだろうか。
鈴子はふと玄関横を見た。小さな流しがついているが、そこには汚れた皿やグラスが積み重なったままだ。話を聞く前にまずは部屋を片付けるのが先決なんじゃないだろうか。驚いて立ち尽くす鈴子と奈帆にはかまわずに、登紀子は部屋の中央の荷物をどけている。といっても雑誌や紙の束を本棚のほうに寄せているだけだ。
「さあ、ここに座って」
登紀子がベッドの上からクッションを二つつかみ床の上に置く。ゴブラン織りのクッションカバーは所々が剥げ、クッションそのものが座布団のように薄くなっている。最初にそこに座ったのは奈帆だった。迷っていた鈴子も隣に座った。登紀子はベッドに腰掛け、灰皿代わりにしていると思われる皿をベッドの端から引き寄せた。ベッドの脇にある丸い小さなテーブルからハイライトとマッチの箱を手に取る。ハイライトをくわえマッチを擦(す)った。マッチの炎を吸うかのように、ハイライトを近づけ口をすぼめる。その姿が鈴子には懐かしかった。あの会社のデスクで、原稿用紙に向かっているときも確かに登紀子はこんなふうに煙草を吸っていた。鈴子自身は吸わなかったが、あの頃どこでだって煙草は吸いたい放題だった。登紀子のはき出す煙が狭い部屋の中を漂う。
そうして登紀子の長い話が始まった。