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【第161回 芥川賞 候補作】李琴峰「五つ数えれば三日月が」
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【第161回 芥川賞 候補作】李琴峰「五つ数えれば三日月が」

2019-07-12 11:11
     太陽が頭上高く昇った頃、海を渡って舞い戻った浅羽実桜(あさばみお)は、眩しい陽射しを背に私に歩いてきた。
     陽射しは鎔かした金塊のようにコンクリートジャングルに降り注ぎ、積もりに積もった言葉すら蒸発させてしまいそうな暑さの中で、人々はハンカチで額を拭きながら慌ただしく行き交ったり、携帯電話に怒鳴りつけたりしていた。革靴の踵(かかと)が石畳の歩道を叩く音、車が通り過ぎる音、携帯電話で喋
    る音。あらゆる音が生み出されては不協和的に重なり合って鼓膜をはたき、電車が通り過ぎる度にシュレッダーのように細断されていく。
     陽炎越しに見る実桜の顔は不安定に揺らめいていて、深夜の海に映る月のようだった。髪先から汗の雫が滴り落ちそうなのを感じながら、私は一瞬戸惑いにとらわれた。数年ぶりの再会を約束してからというもの、ずっと今日という日をまだかまだかと待ち焦がれていたというのに、いざ待ち人を目の前にした途端、どんな顔で迎え、何て声をかければいいか分からなくなってしまった。顔の筋肉が強張って言うことを聞かないし、笑顔の匙加減みたいなものを見失ってしまっていた。
     近郷情怯、という中国語の成語が脳裏を過った。長年帰郷していない旅人がいざ故郷に帰ろうとする時、気持ちが逆に 怯えてしまうという意味。自分のいない間に何かが変わって李琴峰五つ数えれば三日月がしまっていたらどうしよう。自分のことを知らないであろう子供達にはどんな顔で何と言って挨拶しよう。故郷の人々が自分を忘れてしまっていたらどうしよう。今の自分を受け入れてくれなかったらどうしよう。
     数え切れぬ名前のない不安をぐっと身体の奥底に押し込めて、実桜に向かって手を振ってみた。すると彼女は白い歯を見せて笑い、手を振り返しながら歩を速めた。その笑顔は五年の歳月が生み出したはずの距離をそっと包み込んで、それを見ただけで絡み合う不安が少し解(ほど)けたような気がした。
    「久しぶり」
     そう言い合いながら抱擁を交わした。記憶より伸びた髪からはシャンプーの淡い香りと汗とが混じった匂いがした。汗でTシャツは少し濡れていて、肌も少しべたついていた。それでも実桜の柔らかな身体がとても気持ち良く、その柔肌から伝わってきた体温は、蝉でも熱中症になりかねないこんな炎天下でもいつまでも抱きかかえていられる気がした。
     しかし、いつまでも抱いているわけにはいかない。誰かが決めたというわけではないが、再会のハグというものは時間制限付きで、相手が離れようとする動きを敏感に読み取り、そのタイミングで自分も離さなければ、友人という名の関係性の領分を侵し・侵されたような気まずさが残ってしまう。見えない一線を越える行為が常に破滅の可能性を孕んでいるということを、それまでの人生で本能的に習得していた。
     儚い抱擁の間に言葉は要らないが、お互いを離した後に訪れる一瞬の無音が別の種類の気まずさをもたらした。その空白を埋めるためには俄仕立(にわかじ)たての笑顔を見せながら、「会いたかったよ」「ほんとに久しぶり」など、誰もが簡単に口にできる即席的な常套句を発しながら、それに続く「じゃ、行こうか」という目的地へ出発する合図を待つしかなかった。
     東京近郊の有名観光スポットの写真が飾ってある歩道を道なりに進んでいると、足元の石畳が発した熱気で汗が全身の毛穴から噴き出しそうになった。都市計画の対象から外された孤みなしご児かと思うような薄汚れたビル群が左斜め前で乱雑に入り乱れ、ところどころピンク色の高収入求人の看板が毒々しく陽射しを反射していた。右斜め前には焼却炉が陽(よう)の力の象徴のように空を突き破る勢いで聳え立っていた。
    「いつも思うけど、池袋北口って、なんか異境って感じだね」
     予約したレストランへ向かいながら、私は言った。そして、
    「あ、異境って、故郷の郷ではなく、境目の境(きょう)ね」と補足した。
    「うん、なんか雰囲気違うよね」と実桜は相槌を打った。眩しい陽射しのせいで目を細めていた。
    「中華料理店が集まっているのってなんでだろうね。家賃が安いからかな」右手を額に当てて陰を作りながら言った。
    「第二の中華街って感じだね」
     歩きながら交わすそんな言葉は何一つ本質的な物事に触れてはいないが、それでも空白を埋めるのに必要だった。私と
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